護憲+グループ・ごまめのブログ

護憲+・現憲法を守るグループの一人して、今後の社会の状況を戦時を経験した一人として社会を見つめていきたいと思います。

第四部 城津編

2007年08月17日 16時57分44秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
私の過ごしてきた朝鮮時代の体験記

第四部 城津編
 
 この城津に新しい銀行の支店を開設すると言うことで急遽転勤することになった都市は、吉州から二時間ほど汽車に揺られて行く港町が城津です。現在のJRの新快速でしたら吉州と城津は15分しか離れてない近距離です。
 吉州より人口は多い都市でしたが、吉州のようなパルプ工場のような企業が無かったので、それまで銀行の支店がなかったと思います。
 しかし、この隣町に高周波という特殊鋼の工場ができたので支店の開設になったのではないかと今になって感じています。

 先日のミサイル実験などは、テレビ放送で上空写真が出ていましたが、吉州や高周波が関わっていると言うことは、テレビで見せてくれた写真でよく分かりました。

 ここでは、急な転勤で社宅はなく。元・憲兵隊跡を仮の住まいにしていましたから、部屋数は4つですが、大きな20条以上もある事務所が4つと、留置場があり、慣れるまで夜中は恐くてたまりませんでした。でも子供にとっては良い遊び場で、ドロボーごっこでは留置所か役に立ちました。

 城津はたった半年でしたが、ここで忘れられない思い出を三つかきます。

 一つは、イカの豊漁で、近所のおばちゃん七・八人でスルメを作ろうということになり、四つの広い事務所いっぱいにイカの開きが干されていたこと。

 もう一つは、父が銀行に泊まった日に、大声を上げた男が表を叩いて、二つの扉の一つを破って侵入しかけたこと。兄は長男なので、次男の私が裏の窓から、裸足で父の銀行までは知って行ったこと、今のように一般家庭には電話がなかった時代、落ち着いたら震えが止まりませんでした。
 
 最後の一つは、私のクラスに一人の朝鮮民族生徒がいました。

 ある時、この友達と浜辺で遊んでいると二人の朝鮮人の子供が彼と一言二言話しているうちに殴り合いになったのです。1対2では勝負にならないので応援に入ると、「イルボンナー(日本人)はあっちへいけ」と、友もいっしょに言うのです。
 結局、友は完膚なきまでに叩きのめされましたが、落ち着いて原因を聞くと
「朝鮮民族のくせに日本人学校に通っている民族の敵」
と言うことで、勝負する事になったと言っていました。
「だから、日本人の君に入ってもらうと、朝鮮民族の沽券に関わる」
といっていました。
 今改めて考えると、日本人学校に通っていた彼でも朝鮮民族の血が通っていたと言うことでしょう。


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