護憲+グループ・ごまめのブログ

護憲+・現憲法を守るグループの一人して、今後の社会の状況を戦時を経験した一人として社会を見つめていきたいと思います。

戦時中の体験と終戦直後に聞いた話から・其の三・完結編

2007年03月23日 07時53分52秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
戦時中の体験と終戦直後に聞いた話から・其の三・完結編

 今まで書いた通り、私は売られていった娘さんしか見ていません。
 軍が関与していると言っても、もし官服姿で強制的に娘さんを集めると、当時の朝鮮では暴動が起こる危険性、特に戦況が悪くなったと(終戦後に感じたこと)感じられましたので、あり得ないと思います。
 先に書いたように軍服姿で女性を遊女にするため集めた姿は見ていませんから、私は直接軍が関与したとは国家の記録にはないと思います。しかし大勢の女性を集めたのは事実ですから軍が何かの組織を利用したとすると、私も納得できます。

 ただ、戦地からお帰りになった復員軍人の一人の方が、戦場の拡大が早すぎ、補給が遅れて補給が切れると「現地調達」という命令があるらしく、現地で民家に食料の調達と言うか強奪すると、彼等とて食料がなくなるのは生死に関わるから激しく抵抗をされた話聞いた覚えがあります。
 現地調達はどこまでの物の調達か。これ等は、現在生きておられる戦線を経験した兵士の方からの証言がなければ真偽は分からないでしょう。
 これを見ても戦争とは武器だけでは戦えないという証明で、現在の米軍補給を見ていると考えられない光景です。

  戦時中の体験と終戦直後に聞いた話からの最初に入れている、先日の韓国人の女性の方が新聞の投書は普通の会話をお聞きになった通りに書かれていると思います。日本の植民地内(朝鮮や台湾)では、強行手段もちいると暴動でも起こされたら戦争は続けられませんから、朝鮮総督府も扱いを慎重にしたのか戦時中にはお米の配給も朝鮮民族の方と一緒に並んで配給を受け、民族の差はありませんでした。
 ですから女性を集めたとすれば、何かの名目で集められたのではないでしょうか。
 戦時中に女子挺身隊と言う言葉は思い出しましたが、その性格は私には分かりませんが、日本人も居たような気がしますが定かではありません。

 何度も言っていますが、官権が女性を連れていく光景は一度も見ていませんから、問題は何処の機関か誰がどのようにして、何の目的で集めたことを検証すべきと思います。
 
 また先日、金美齢さんが番組の中で、台湾で当時の時代の台湾の人々に、日本軍が慰安婦を強制的に集めた事実はあるか。と訪ねると全くその事実はない。もし其の様な事が有れば、必ず暴動が起きているとお年寄りが言っていたと話され、場所は台湾と朝鮮ですが、私の感じたことと同じことをいわれていました。
 私の家で雇っていた娘さん。売られて行ったのは事実ですから、もし慰安婦になって、戦後帰宅したに時に、親は自分がお前を売ったのだというでしょうか。私が親だったらだったら誤魔化します。戦後、朝鮮民族の慰安婦全部が軍に強制されて連れていかれたと言うのは、強制連行を見ていなく、売られていく光景しか見ていないので私は全面的には納得ができません。。
 奇これも金美齢女史が同じような事を言っていました。

 朝まで生のジャーナリストの高木未貴さんも若い方ですが、私がジャーナリストとして調べたが軍隊が直接手は出していない。
 と言ったのを聞いて、若い女性は皆強制連行はだと思っていましたからびっくりしました。

 終戦直後に日本にアメリカ兵専門の売春宿が有ったということを知っている人間も少なくなっています。これもアメリカ軍が日本女性を現地調達したことになるのではないでしょうか。
 これが私が戦争は駄目だという論理の一つになります。
 しかし、この世界に男性がいて女性がいる限りこの性の問題はどこの紛争地でもおこると私は思っています。

 この問題を知っているのは当事者しか分かりません。国家で資料がと言っても現在のゼネコンと同じく、下請けの下請け状態で人集めをすれは、国家に記録はないのかも分かりませんから、首相の様な発言はありうると思います。下請けに出した命令ですから、証拠になるようなものは皆無でしょう。

 私の体験から検証すると
1・朝鮮では,売られていく娘さんしか見ていない
2・軍の関与した女性連行を見ていないし、噂も聞いていない。
3・しかし、徴用とか挺身隊とかいう言葉は聞いているが、日本の女性にも挺身隊に入っていたと認識しているがこれが、どのような性格なのかは私わからない。
4・だから私の目では軍隊の関与はないと感じていて、白黒の判断は朝鮮は広い範囲ですから私の知らないところは多々あり判断の付けようがありません。

 現在、先の戦争で前線に行かれて、現存している方は何人おられるのでしょうか。
 私の家から売られていった娘さんの両親はもう生存されてはいないでしょう。
 だから、従軍慰安婦と言うものについての真実を探すのは至難なことだと思います。

 それこそ国家が生き残りを一人一人を探しだして当時の模様を聞いてほしいと思います。でないと、あと10年もすれば体験者がゼロにり一世記たってもこの問題で日韓がもめているのをあの世から見るのは、朝鮮で生まれた私にはたえられません。
 両民族は仲良くしてほしいものです。

 曖昧国家の日本は、戦後の処理を誤っているとしか思えません。国家間の条約で集結しても、戦時中は日本人ですから、日本人としての保証はするべきです。

 しかしそうなると、あの戦争で被害を被った国民全部に保障をすべきでしょう。

 私はこの問題で一ついいたいことは、
 今、このことを論じている人々は、戦後生まれた方々が多いのでしょう。人の書いたこと、人から聞いたこと、それもまた聞きの又聞き。また本人から聞いたと言っても売られたのか拉致されたのか、本人の話だけでは判断はつけようがありません。ですから言葉の遊びのように、次々と尾鰭が付くことが腹立たしく感じるのです。

 この記録は私が物心付いて引揚げて帰って来るまでの私の頭の中に残っている記録です。
 戦後、朝鮮でも官僚の引揚げは早かった様なきがします。
 私を連れて帰ってくれた従兄弟の朝鮮の友人は少しでも荷持持ちが居たらたすかると、日本人に成り済まして、日本まで一緒にきてくれて舞鶴から帰国しています。個人個人の人間同士では仲良くできるのに、人間とは不思議な動物、いや政治とはと問いたくなります。


最後に思うこと。
 日本人の体験者。朝鮮民族の体験者が一同に集まり話す事によって真実が分かると思うのですが。戦後、60年も経ってはその真実は掴めません。

 真実は一つしかありません。人間何かを体験すると、その角度や,思い、心理状態によってその体験も色々な模様に変わります。しかし真実は一つです。
 
 私は、戦争関係の書いたものは、ご本人が体験されたものしか見ないようにしています。なぜなら、それを見て語られる方は、その方の思いが書き込まれるからです。
 といっても、私の書いたものが正確かどうかの判断は付きかねます。ですから今後この慰安婦問題はについて語ることを封印することにいたします。
 後は、満州で餓死した父母と妹と黄泉の世界で語ることにします。人間同士もめるのは、先の戦争だけでもう沢山。


戦時中の体験と終戦直後に聞いた話から・其の二

2007年03月20日 15時52分10秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 続・戦時体験者の証言  第一章 第二章・に書いていますが、
 父の勤めている銀行の朝鮮の小使いさん(現在は用務員でしようか)のたっての頼みで、キュチュベ(娘さん)のお手伝いを二度雇いました。来た時は垢だらけで汚いキュチュベさんも汚いままでは困るので、こぎれいにすると別嬪さん。盆、正月に里帰りさすと、一月ほどして親が引き取りにきました。奇麗になった娘を売るというのです。
 泣きながら連れていかれましたが、仕方がありません。同じことが二度続いて母は,朝鮮人の娘さんを高値に売られるために雇ったのではないと、それからは頼まれても断っていたようです。

 その他、吉州と恵山鎮では売られていく娘さんを見ていますが,連れていった女衒は同じ朝鮮民族の方でした。

 これは、朝鮮人が貧困に追いやられたからだと言うのも当たっていると思います。
 併し、朝鮮の方よりは少ないと思いますが日本人の娘さんも親の借金で売られ(年季奉公)ています。その証拠は、当時の日本人専門遊郭には日本人ばかりです。

 確かに日本人の方が経済的にはものすごく恵まれ、朝鮮人は貧困者が多いと言うのも間違いない事実です。

 しかし、朝鮮のヤンバンサラミ(大金持ち)も結構居られ、このお金持ちの朝鮮人の家にも遊びにいったことがありますが、すごいですよ。寝具に刺繍がされていてもの凄くお金持ちで今でいうセレブです。母はびっくりしていました。
 私の父親の勤めていた銀行の支店長は東大出の朝鮮の方でしたし、この体験記にも書きました色長(市長)さんも朝鮮の方でしたから、全、朝鮮民族を差別したとも思えません。
 だから数は少ないと思いますが、お金持ちも居たのは間違いないことです。

 戦時中、従軍兵士相手の遊郭(現地でどのような呼び方をしていたのか分かりませんから一般的呼び方遊郭と読むことにいたします)が有ったのも確実です。海軍では(酒保)なる名前のものがあったと記憶しています

 そして其処には好むと好まざるに拘わらず、体を提供していた女性もいたのも事実です。その中に日本の女性が居たのは、何度も書きますが引揚げて帰って来て一時落ち着き先になった家の娘さんが、戦地で遊女をされていて日本人は将校相手だったとの話も本人から聞いたのですから事実と思います。

 ある時、この方が当時の話を従兄弟の奥さんに話しているのを聞き耳たてて聞いていましたが、身を沈めた為にお金はもの凄く溜まったが、朝鮮人も皆お金を貯めて、戦争が終わったら一生食べていけると楽しみにしていた。これは彼女の話ですが、彼女の札束は現実に見ているので間違いない事実なのと、その中から私はお小遣いを貰った現実があります。話の内容からして、戦地の軍人さんは、いつ命を落とすか分からないので、気前が良かったらしいのです。
 今、この女性について考えると、もし年季奉公でしたら戦後すぐには自宅に戻れては居なかったと思いますから、志願されて行かれたのではないでしょうか挺身隊という言葉も聞いたような気がしますが遠い昔ではっきりしません。

 また、弟の話では終戦直後満州で、両親がまだ元気な頃、三人の朝鮮の遊女が、中国に残るか朝鮮に帰るか迷っていたのを「黙っていたら仕事の内容は判らないのだから朝鮮に帰った方がいいと」逃がしてあげたが、お金を沢山持ってたと父驚いていたそうです。

 と言うことは遊ぶ施設が有ったのも事実。そこで働いていた女性の居たのも事実だと言うことです。
 問題は、これら女性をどう集めたかが問題なのですね。


以下次回(二、三日うちに書き込みます)



戦時中の体験と終戦直後に聞いた話から

2007年03月19日 16時36分27秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 戦時中の体験と終戦直後に聞いた話から

先日、朝日新聞に韓国の方が慰安婦についての投稿されていました。(クリックして下さい)

それと、前回の朝まで生テレビですが、初の女性ばかりの出演者。その中のジャーナリストの高木未貴さんの発言。それに関西版の番組の中でコラムニストの金美齢女史の発言を聞いて、私も自分の見てきたこと聞いたことからこの問題について触れてみたいと思います。

 長くなるものか短かいものか見当が付きませんので、何度かに分けて送るとだけ申しておきます。

 慰安婦についていろいろ語られています。

 慰安婦と言う言葉は1973年の千田夏光の著書のなかに『従軍慰安婦』という名前が登場して、それが定着したと聞き及んでいます。
 昔は公娼(公の娼婦)は法的にも認められていました。娼婦を辞書で引いてみると之だけ多くの隠語が有るとは私も驚きました。
しょうふ【娼婦】
娼妓(しょうぎ) 売女(ばいじょ) 売春婦 売笑婦 醜業婦 賎業(せんぎょう)婦 淫売(いんばい)婦 公娼 私娼 街娼 夜の女 街の女 闇(やみ)の女 夜鷹(よたか) 売女(ばいた) パンパン ▽遊女 大夫(たゆう) 花魁(おいらん) 傾城(けいせい) 傾国 女郎 ⇒ゆうじょ【遊女】
 この中で無いのは(ピーさん)です。これは兵士相手の娼婦のことを言っていたと思います。ひょっとしたら朝鮮だけの俗語かもと思っていましたら、護憲+の仲間にご存じの方がいらっしゃいましたから、当時の内地(朝鮮時代に日本列島をこう読んでいた)でも使っていたと思います。

 また(パンパン)(夜の女)も戦後生まれた言葉で、戦後生活に困った女性が春を売り、生計の足しにしたとのでしょう。私は此のパンパンと呼ばれた女性のおかげで、占領軍の兵士からレイプなどの被害が少なかったのではないかと思っています。

 なぜなら、終戦直後、京城で下宿を追い出されお金も底をつき行くところがなく、従兄弟の家に世話になっている時に、酔っぱらった米兵が二人上がり込んで従兄弟の奥さんをレイプしかけたことがあります。男たち皆で阻止している間に従兄弟の奥さんは窓から外に逃げ事なきをえましたが、私は顔が晴れ上がるほど殴られ一週間ほど腫れが引きませんでした。

 恐らく一番はじめに進駐してきた兵隊は戦場を経験しているのでしょう、気が荒かった気がします。この時、殺されるのではないかと一瞬思いました。

 人から聞いた話を書くのは嫌いですが、戦後一時期何箇所か仕事を変えましたが復員軍人さんは必ず居られ、戦争の話をよく聞かされました。その中でお一人だけレイプの話をされた事があります。いつ死ぬか分からないので焼け糞でレイプしたが、こうして生きて帰ってくると、もの凄く抵抗されてのレイプは後味の悪さが残って、と話された時、従兄弟の奥さんのことを思い出しました。

 また、復員軍人の方のお一人は戦友が、少年と思い気を許した隙にその子に殺されたと言って、戦争では女子供にも気が許せないと言う事は、子供女性でも敵だという認識をしないと戦えないと言うことでしょう。だから戦争は悲惨で避けなければいけないのではないでしょうか。

 私は戦地を経験していないので分かりません。しかし戦争が続いていましたら、当時の私たちは一人一殺という教育を受けていましたから、私も此の中国少年と同じことをすると思います。
 当時は敵兵を殺すのに何の疑念もありませんでしたから。


 以下・次回。

戦時体験記(4)

2007年03月18日 09時27分41秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
  このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験した事を書いたものですが、再編してお送りしています。

  戦時体験記(4)

 宇宙が生成され、多くの銀河系ができ、その一つの銀河に太陽系ができ、その中の一つに偶々生物の住める地球が生まれた。大宇宙の塵にもならない地球が生まれたのは宇宙の偶然の副産物なのである。その副産物であるこの星で生まれたあらゆる生き物、即ち植物から微生物まで等しく生きて行く権利が有るのではないか。

 アフリカで発祥したといわれる人類の進化の中で、皮膚の色もさまざまに分かれ、地球上に分布されるようになった。そして偶々力の有ったものが種族を統率するようになったのだろう。その種族も小さなグループの時には、現在のような上下の差別はそう大きくは無かったと思う。

それが巨大になり、巨大になったグループが生きて行くために、団体を取りまとめる機関が必要になって、でき上がったのが国家なのだろう。そしてグループの頂点に立つのが大統領や首相、それに政治家、官僚といわれる集団で、私達はその人々に運命を任せているのである。

 その人々を私達は選挙で選ぶ。選挙はもっともな手法で民主的かも判らないが、その選挙方式でもし間違った選択をすれば、その人々によって昔の泥沼にはまり込む可能性がある。だから私達はよく人物を見極め、棄権等はせぬことだ。 

 昔の戦争の悲惨さを知っている国民が少なくなった。そして軍隊が国民を守れなかったことを知っている国民も少なくなった。そのため、政治家が真しやかに「軍隊が無いと国民の皆さんは守れない」というのを信用する国民が増えてきた。

 もし軍隊ができたら誰が行くのだろう。志願兵で賄えなくなれば徴兵制度が牽かれるだろう。そしてあなたたち若者が行くことになる。
入隊するために出征した兄を送る母の後ろ姿が震えているのを思い出す。母は何も話さなかったが、辛かったとその肩が物語っている。職業軍人でも喜んで戦地に夫や子供を送り出す家族はいないだろう。

 クシニッチ米国下院議員が憲法九条について、「日本のみなさんは、日本が平和の文化を維持出来るというモデルになることを全世界が期待しているのを知るべきです。それは日本が世界へ贈る偉大な贈物です。それは平和文化の理解を世界に伝えることであり、我が国が必要としているものです」と語られている。

私の戦争反対は単純で難しいものではない。「国家権力といえども、人が人を殺してよい道理は無い」「母が兄を送り出した時の後ろ姿を思うと、母のような女性を地球上からだしたくない」たったこれだけの理由です。
 
地球上の、肌の色が違い、イデオロギー、宗教の違う人々が、何時でも何処でもにこやかに話せる地球を夢見ながら、この稿を終わる。



追記
 追記をとして慰安婦問題を書きかけていましたが、少々長くなりますので、久しぶりに戦時を思いだして書きたいと思います。

 今までは、人から聞いた話は書かないことにしていました。それは言葉の遊びと同じく、私が聞いて自分の頭では同じことを書いても、元兵隊さんの思いを其のまま伝えることができないと思って、終戦直後の復員軍人から効いた話や、思春期に、もの凄く嫌な思いをした親戚の奥さんの米兵によるレープ未遂事件のことは書きませんでしたが、関係者全員黄泉の国に旅立たれていますので書くことにしました。

 今日は法事で夕方まで留守にしますが、二回ほどに別けて書き込むことにいたします。


戦時体験記(3)

2007年03月10日 13時10分04秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

戦時体験記(3)
 朝鮮感興南道恵山邑恵山鎮里。鴨緑江の朝鮮と満州の国境の田舎町。恵山鎮の駅は終着駅。ということは始発の駅でもある。

 私が居た頃の恵山鎮(朝鮮側)と長白(中国)の国境の橋・恵長橋。
         
 10年前に中国側から写した恵長橋
     
 忘れもしない三月の中ごろで、気温は未だ零下十六度を指していた。十年ぶりに授かったまだ幼い末の妹は母の背中におぶさって、親子七人で駅に向った。二番列車で時刻は八時半を指していた。
 
 防寒をしていて寒さには慣れているが早朝は堪える。父と母は、兄と何かを話している。ここは高度が高くジグザグに登ったり、ループ線が有るので前二輛後ろ一輛の三輛の機関車が付いている。機関車の煙と蒸気が多くなる。ぼちぼち発車だ。
 
 突然、兄が私の前にやって来て、「俺は恐らく生きては帰れないだろう。お父さまとお母さまのこと頼んだぞ」と直立不動で敬礼をするのだ。私は何も言えず、黙ってうなずいた。
 
 最後部の列車の後ろに身じろぎもせず立っている兄。列車が動きだすと敬礼をして帽子を振りはじめた。駅を出て二百メートルも走るとトンネルに入る。母は末妹を背負ってホームの最先端まで小走りに走って、列車が見えなくなっても手を振っている。妹を背負った母の小さな背中が小刻みに震えている。泣いて居るのだろうか。この時、父が家族だけで見送ろうと言った意味が判ったような気がした。恐らく大勢の見送りが有れば、母は泣けなかっただろうと今になって思うのである。母は気持ちの整理が付くのに二、三ヶ月はかかったようだった。

 運命の悪戯か、この両親もソ連が不可新条約を破棄して侵入して来る一週間前に、ソ連と満州と朝鮮の国境の阿吾地に転勤になり、逃げ遅れて南には下がれず満州に逃避中死んでいる。

 幼い弟妹は、両親と末妹の死後、満州の荒野を彷徨い歩いたそうだ。そして軍隊は自分達を守ってくれないということを身を持って味わっている。勝ち戦で軍に余力が有れば市民を守れるだろう。しかし、戦場で命のやり取りをしている時には、市民は邪魔なだけだ。あべこべに自殺を強要するだろう。沖縄、サイパンが良い例である。

 もし日露戦争に負けていたら日本はどうなっていただろう。恐らく今のような日本は無かっただろう。想像するだけでも恐ろしい。ひょっとしたら今の中国や朝鮮の国民と同じことを言っているか、ソ連圏内の属国の国々と同じ運命を辿っているかもわからない。
 
 どこかの大臣が、憲法を改正して自衛隊を正式な軍隊にしなければ国民は守れないと言った。自分が大臣室に座ったままで自衛隊員にイラク派遣を命令する。それなら自分が率先して先頭に立って行きたまえと言いたい。命令だけなら私でも出来る。
 
 近年は戦争経験者が少なくなった。国家の指導者も戦争体験者は全く居ないのと同じである。戦争がどれだけ悲惨なものか全く知らない。軍隊を持つということは、昔犯した過ちを日本が二度犯すことになる可能性を持つことなのだ。



 追記

 昨日、東京大空襲の遺族112人が戦争責任を問う為国を提訴した。

 考えると、なぜもっと早くと思わないでもないが、戦争について改めて考える時間を与えてくれたと思う。

 戦争とは何だろう。戦後、戦争で戦死した軍人には恩給というものが支給された。しかし、これも階級によって差別がある。新兵の星一つの軍人と将軍と命の重みは違うのだろうか。
 命の重みはこの世に生きているものは皆同じではないだろうか。

 恩給が年金という名に変っても、日本国内で安全に暮らしているキャリアの職業軍人はものすごく高額なのである。

 そして、働き手を失った遺族とこれら生きているキャリア軍人とどう違うのだろうか。

 戦争は国民が始めるのではない。国家の政治に関わる人間が始めるのであるが、何時も言っているように一番被害を被るのは、社会で細々ながら平和に暮らしている庶民なのだ。

 だから東京ばかりでなく、世界各地で戦争為、被害にあった国民いや他国の民族も軍人同様、国家は責任を負うべきだと思う。

 戦争とは、国民のの命を担保にしてもらわなければ成立しない行為なのだ、国家として全記述の様な責任を取れないものなら現憲法は守るべきだ。

 不思議なことにわが国では、その記念日にならなければ其の当時のことは表に出ない。
 今年も東京大空襲の遺族112人が戦争責任を問う為国を提訴した記事を見て、ああ、東京大空襲の日だと思い感じたことを書いてみた。


戦時体験記(2)

2007年03月08日 09時51分21秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
  このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

   戦時体験記(2)
戦時中の我家の生活の一部を紹介しよう。私の家族は敬虔なクリスチャンだったので、アメリカと開戦した時は、父は弾圧を受けるかもしれないと言っていたが、その心配はなかった。
 
官立京城師範学校の願書の中に宗教の欄があり、「キリスト教」と書いて不利だなと思ったのだが、入学できたということは、当時の国家は宗教についてあまり気にしてはいなかったのだろう。

 ある時、夏休みに帰省した兄が、戦闘機乗りになりたいので甲種予科練習生の試験を受けたいと父に話していた。 父は五分程瞑目していたが、「今の戦争は長引くだろう。覚悟ができているのなら行きなさい」と言った。
 
後日、父と母との会話をそれとなく聞いていると、召集令状だったら仕方がないが、自分から軍隊に入るのは戸惑いが有ったようだった。しかし、ごまめ家には三人の男の子が居るのだから、国家に捧げるのは仕方がないと言っていた。これは当時の日本国民としては平均的考えだったのではないだろうか。
 
兄が戦闘機乗りに志願したため、私は親の命令で、兵役に行くのが少ない師範学校を受けざるを得なくなってしまい、自分がやりたい科学者になり損ねた。しかし結局、敗戦後逃避中の満州で両親が死んだため、歯科技工士という全く考えてもみなかった職業に付いてしまった。

 昭和十九年三月のある日、予科連に合格した兄の出征の日がやってきた。父はこのことは誰も言わずに家族だけで送ろうと言い出した。今は父の気持を聞く術はない。

今、私が父の立場に立って考えると、「戦闘機乗りだから直接手を下さない、見えている人との命のやりとりではない」と思ってみても、戦争に人を殺めに行くのに大勢な人に旗を振って送って貰いたくなかったのかなとも思う。





追記

 危機管理とは何だろう。
 軍隊とは何だろう。
 大量破壊兵器とは何だろう。

 よく考えると、何処かの国が日本を敵視していると国家がそう判断しているのだろう。

 また他国は、軍隊特に大きな軍備を装備している国家は、友好国でも全面的には安心して付き合える国家とは思わないだろう。

 一方、武器のない国家とは安心して付き合いができると思う。しかし大国で此れに相当する国家は全くない。

 私は日本は大国とは思わないが、経済的には恵まれている。だから日本の憲法は忠実に守って、軍隊は持ってほしくなかった。
 せめて日本は武力はに縁のない国で安心してつきあえる国家だと認識してもらえる国になってほしかった。

 再軍備派は、なんと甘い奴だと思うだろう。しかし甘くても良い殺したり殺される行為は絶対にしたくない。



戦時体験記(1)

2007年03月06日 14時17分36秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
  このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

戦時体験記(1)

私は、戦時中は戦地には行ける歳ではなかったが、私より一つ年上では少年兵で戦死している少年がいる。戦った経験はないが戦時中の銃後のことは頭の中から消えることはなく、私がこの世をおさらばするまで忘れることは出来ないだろう。

私は同人誌の世話人をしており、八月十五日には何かを書いてきたが、今年も終戦記念日が近付いたので、ごまめ家の戦時中の話を同人誌に掲載するために書いた。これをご紹介することにする。

私は昭和一桁生まれ。明治生れの大先輩まではいかないがそれでも七十数年の社会の変動は、現代の一年が徳川時代四百年以上で、地球上の人類が尤も科学化け学的に進化したのはこの百年ではないだろうか。

 人類の移動が乗り物に頼るようになり行動範囲が広くなると、種族間のトラブルも増えてきた。また、機械文明の発達と共に、兵器も発達し、経済も近代化するに従い国家、民族間にも富めるもの、そうでない者の差がはっきり現れてきた。

そして、その富める国々が、威力の有る武器をたずさえ外洋に出て行くようになってから、種族間の生死に係わるトラブルが始まり、武器の発達と共に大量殺戮の歴史が刻まれるようになった。

 私は過去の日本の戦争を擁護もしないし正当化もしない。殆どの戦は勝つものと負けるものに別れるのは必然で、力を持って争えば当たり前である。戦争の善し悪しは別として、その原因は必ず存在する。

日本の国土は狭い、その割に人口は多い。今になって当時のことを思い出すと、日本も裕福ではなかった感じだ。現代にもその傾向は有るが、当時も東洋人種の日本に国力が付くのを嫌がるのか、ガソリン等の輸入も侭ならなかった。ABCDラインでかなり追い詰められたことも知っている。

しかし当時の軍隊は政治では押さえ切れない程巨大に成り、軍の意向が国家の意向になり満州に手を出したのだろう。
 朧げながら覚えているのが、一九三二年の上海事変。一九三九年の盧溝橋。当時は連戦戦勝、よく提灯行列に連れて行ってもらった。当時を思い浮かべると、正義のために戦っていると言う教育が徹底していたために、子供心には戦争は当たり前のことにしか写ってなかった。日本は絶対に戦争に勝つとしか頭になく、敗戦などは考えてもみなかったのが本当だ。

 それが、昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃から戦さの様相が変わってきた。翌年のミッドウェーの開戦。大本営発表は連戦連勝を発表するが、物資が益々逼迫していった。
 戦後判ったことだが、戦時中、私達国民は、嘘の報道を信じて、国家に奉公していたのだ。

 次回につづく




 今日は追記として先日書いた従軍慰安婦について書きます。

 私は、自分が体験したことだけしか書いていません。この戦時体験記にも書いていますが、我が家では朝鮮人のねえや(女中=お手伝い)さん。来たときは見るも無惨な格好でしたが、我が家に来て、小奇麗になったキチュベ(娘)が高く売れるので、親が引き取りにきて、いやがる娘を連れていきました。(昔は日本人の娘さんでも貧困家庭では人身売買『正確には年季奉公』が認められている時代です)
 これと同じことが二度あり、母は朝鮮人のキチュベでも花嫁修業のつもりで、我が家に居てもらうためには小奇麗にして貰わなくては困るし、身ぎれいになると高額な値段が付く。そのために娘さんを雇っているのではないと、以後、朝鮮人の女中さんは頼まれても頑として断っていました。クリスチャンの母はかなりのショックでキチュベの父親が引き取りにきて、嫌がるキチュベを送り出すときは涙をためていました。

 あとは吉州(キルジュ)と恵山鎮で朝鮮の家庭の娘さんが売られて連れていかれるのを目撃しています。女衒(ゼゲン=女を遊女屋などに売ることを業とする人。)は日本人ではなく朝鮮人でした。
 手に札束を持った母親が、身内一同で泣きながら手を振って送り出していましたから、強制連行とは違うと思います。

 私は強制連行は無いとは言いません。現在でも国家は国民の知らないところでは何をやっているか分からないのですから、当時は尚更だとおもっています。
 慰安所はあったのは確実ですから、悪賢い軍隊は直接手を下していなく、第三者に依存していたのではないかと感じていますが、分かりません。
 
 私は朝鮮時代は今でいう市にあたいする都市に住っていましたから田舎のことは分かりません。太平洋戦争なか程からは強制連行があれば、朝鮮民族の暴動があると当時のことを検証するとそう感じているのです。
 それは、政治犯で逮捕にきた官権に対して、朝鮮民族が大勢もの凄く抵抗していたのを見ているからです。

 戦後、満州や朝鮮で多くの日本女性のレイプがあったのは、私たち年代以上の引揚者は知っています。

 良し悪しは別として、其れが戦争だと云う事で、戦争は勝った国でも負け国家でも一番弱い人々が、犠牲になるのだと思います。

このプログの「日本とアメリカのお母さんの話」の中の硫黄島従軍のアメリカ兵士の
 「本当にほっとしたな。戦争というものは悲惨なものだ、戦う兵隊がどんな目に遭うか、上にいる将軍たちや政治家には分からんのだ。
 彼等が悲惨さを分かったら戦争はなくなるのだろう。
 どの戦争ももうまっぴらだ。
 負傷者や死体がごろごろ転がっていた。もう思い出したくないしはなしたくない。」

は、勝った国の兵士でも第一線で戦った兵士の気持ちがよく現れていると思います。



ブログのご意見の中に

まずは外国の侵略に対抗できるように
自衛隊のさらなる強化を推進しよう!!


と有りましたが、外国の侵略に対抗するにはどれだけの装備がいるのでしようか。侵略された時、食料はどうするのでしょうか。これは戦時中食べ物が少なかった時代の人間は、飢えを経験していますから、自給もままならない日本はどうするかと直ぐそう思うのです。。
 日本が戦場になると多くの命が亡くなります。昔の沖縄、現在のイラクを見ても分かります。

 そして日本の軍隊が外国に行くと、太平洋戦争と同じ過ちを犯すことになります。

 叱られるかも分かりませんが、昔から力の論理でいえば勝てば官軍です。

 この問題は円周率でいつまでも答えは出ないかも分かりません。答えが出た時に世界は平和になると思います。
 しかし人類が戦争や化学で地球を汚し地球の命が持たないかも分かりません。


戦前・戦中・戦後語る  戦争は残酷です

2007年03月05日 13時55分30秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。


戦争は残酷です

 今朝の朝日新聞に関西地区周辺の主な爆撃が載っていました。広島原爆を省いて抜粋すると、()内は死亡者数

 大阪  三月十三、十四日(3987人)
  六月一日(3112人)
  六月七日(2759人) 
  七月十日(1394人)
 神戸  三月十七日(2598人)
六月五日(3184人)
 呉   七月一、二日(1869人)
 岡山  六月二十九日(1737人)
 高松  七月四日(1359人)
 和歌山 七月九日(1101人)
 福井  七月十九日(1576人)
 松山  六月二十九日(251人)

因に東京の大空襲は、
 東京  三月一〇日(10万人)


 大阪大空襲で使用された焼夷弾は、千七百三十三トンM69油脂焼夷弾で、東京と同じタイプの比較的安価で大量に生産出来るタイプの兵器です。
 
また、爆撃に使用されたB29は一〇トンの爆弾を搭載できるとあるので、大阪で使用された焼夷弾の量からすると、護衛戦闘機などを加えると二百七十四機が飛来したのでしょう、そして約十三万六千戸が灰に成っています。

 神戸の大震災の被害は、死者六千四百三十三名、負傷者四万三千七百九十二名だそうで、今考えると、震災で火災の最中に頭上から焼夷弾が落ちてくるのが当時の爆撃風景と思えば良いのかとも感じます。

 京城師範時代、級友から「アメリカは爆撃前には空からビラを撒くか警告する」と聞いたことがありました。流言飛語と思ったのと、要らないことを言うと憲兵に引っ張って行かれると他の級友から注意され、このようなことは一切口にしませんでしたが、先日愛媛の七十七歳の方が投稿でこのことに付いて書かれていたので、改めて級友の言ったことは本当だと思い、今回初めてこのアメリカの爆撃警告のことを書きました。

 例えアメリカに警告を受けたとしても、市民に退去勧告などすることは戦争に負けると警告するようなもので、国家としては容認するはずもなく、これが本当の戦争の姿でしょう。
 
これをアメリカ側に立って考えますと、アメリカは広島・長崎、それに各攻撃都市に警告して爆撃したのだから、紳士的な攻撃をしたというでしょう。警告して爆撃できるということは、彼我の力の差がハッキリしているということにもなります。

 今朝の報道でもロンドンで射殺された男性はテロとは無関係だったとのこと。これではテロとは関係ないイスラム社会との軋轢が益々増大し、イスラム社会と白人社会の関係は難しくなってしまう。

いつの時代も力で物事を押さえ込むというのはできない相談で、これからの世界は憲法九条の精神を学ぶべきだと思います。



この文章は二年ほど前に書いたものです。
しかし、世界の現状はちっともかわっていません。列強国の軍事費は毎年増えている。
世界ではいろいろな政治に関わる集まりがあります。表面上はマントかお互いのメンツを立てています。
 しかし、素人目で考えると軍事費を増やすということは、本心はどこかの国を敵視しているとしか考えられません。

今朝のテレビでは富山湾のホタルイカが解禁になったが、平成に成ってから解禁時の漁獲量は毎年減り続け、
● 今年の解禁時の漁獲量はたった9匹。
● 黒部のアルペンルートは何時もなら雪の壁の中だが、今年は積雪なし。

これを見ると戦争などしている時ではないと言うことは、政治だけで飯を食っている人類は食物はお金があれば買えると思っているのだろう。

100年いや1000年先のことを考えた政治をするべきだ。国民も不自由なことも我慢すべきだと思う。極論でもうしわけありません


戦前・戦中・戦後に体験談

2007年03月04日 09時08分54秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

  民間船の戦没について

昔、下宿している宿に船員の方が居られ、民間の船舶が軍に徴用されるが、戦争のために作られていない一般の船舶は、攻撃されたら機関砲だけでも沈没するから、魚雷だったらひとたまりも無いと話されていました。

 その方も音信不通になりましたから、海の藻屑となったのかも判りません。

 終戦の時にはまともな船は少なかったのでしょう。私が引き上げの時に乗ったのは生き残りの駆逐艦でした。

 戦争は空しいです。自然や物を、おまけに人の心も破壊します。日本は九条のお陰で心の破壊は免れたと思っていましたら、二十年程前から心も破壊されて来ています。



  小野田 寛郎さんの話
     
今朝ある方が、太平洋戦争終結から二十九年目にしてフィリピンで発見された小野田 寛郎(おのだ ひろお)さんの書かれたWEBアドレスを送ってまいりました。

『私が見た従軍慰安婦の正体』
http://www4.airnet.ne.jp/kawamura/enigma/onoda_ianhunoshoutai.html

残念ですが、現在はこのサイトは削除されているようです。


 先に書いた体験記では、他人の話されたことは極力避けていましたので余り触れていなかったのですが、この全文を拝見すると、終戦直後に多くの復員軍人から聞いた話、当時、日本人の慰安婦(遊女)をされていた方からお聴きした話と、ほぼ、というか、全く同じでした。

 現在の戦争を知らない年代で、信じられないと言う方が居られると思いますが、私はこの内容はほぼ間違いないと思います。

 日本人の慰安婦(遊女)の方も、沢山のお札(軍票)を持っておられ、朝鮮や中国の女性も、帰国したら一生生きて行けると溜め込んでいたと話していましたが、これを読んで、ほぼ納得しました。



   事実の検証
                             
  従軍慰安婦ですが、級友や我々の年代の者と会ったり電話した時に、戦時中に従軍慰安婦という言葉は有ったかと質問をすると、 百パーセント無かったとの返事です。従軍慰安婦は戦後にできた造語でしょう。一方、戦地に遊郭のような施設が有ったかには、イエスです。そこで働いている女性は遊女でなく私と同じピーさんと言う者が多かった。

私は従軍慰安婦という言葉は使いませんが、遊郭的施設の有ったのは確実。またそこに働いていた女性が居たのも確実。戦後、戦地で遊女をしていた日本人の女性の話は、私が引揚げ直接聞いていましたから、無料奉仕ではなく花代を貰っていたのも確実だと思うのです。

 もし被害者の女性が居れば救済しなければなりません。せめて戦後五年以内でしたら確実な証拠や証言が得られるでしょう。今では当時の関係者が少なくなりました。国家もこのような物は大切に保存しているとは思えません。この問題は終戦直後に表に出るべき問題だったと思うのです。
 
 戦前・戦中・戦後を語るカテゴリの
  続・戦時体験者の証言  第一章~第三章
 に書いていますが、私は、親に売られていく娘さんしか目撃していないのです。


 人から聞いた話とか書いたものを参考にすると、真実が隠れてしまいます。私は、今従軍慰安婦といわれる朝鮮やその他の国の女性と一緒に働いていた日本女性も沢山いると思うのです。この方々が当時のことを話されると、真実も多少は見えて来るのですが、人間、嫌な思い出は話すのをためらいますから、これは百パーセント無理だと思います。
 難しい問題です。

 現在になって、改めて朝鮮時代を検証すると、太平洋戦争が始まってから、朝鮮半島では朝鮮人に対する扱いが違っていたと、当時、京城師範学校時代にふとそう感じたことがありました。
 特に戦時中に朝鮮人を弾圧すると暴動が起こることもあり得ると感じたことが有りますから、両親から聞いた昔の話のように、明治・大正・昭和の初期のように朝鮮民族を粗末と言うか弾圧していると、暴動は起こりうると思います。 

 平等に扱ったその一つの証拠は、お食料の配給を受けるのに、朝鮮人も日本人も同じ場所での順番待ちで差別はありませんでした。これは母と二人で順番待ちをしていましたから間違いありません。

 と言っても私の狭い視野の範囲ですから、朝鮮本土全体ではどうなのかは語れません。



日本とアメリカのお母さんの話

2007年03月01日 11時17分14秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
  昨日は、以前書いた硫黄島戦没者追悼式について書きましたので、一週間ほど前の丑三つ時に放送していた30年ほど前の硫黄島の再放送をDVDにダビングしたのを再生しました。
 その中の日本とアメリカのお母さんの話が胸をうったので書きたくなりました。新聞の切り抜きは編纂に時間がかかりますが文章は時間を要しませんので書き込みます。
      
 硫黄島で息子を亡くした日本とアメリカのお母さんの言葉が対象てきでしたのでご紹介します。

【日本のお母さん】
 《息子さんどんな人でした。》
 優しいいい子でございました。こんなこと申したらおかしいんだけど親孝行でございました
 
 《戦争が終わって30年たちましたがどんなこと思われますか》

 お国のためにあの果てたんだで満足だと思っています。日本の国がこのように栄えてきたのも子供たちがの行ってくれたお陰だとおもっています。ああ言う事がなかつたら今のようなことには行かなかったかもしれない。



 【一方アメリカのお母さんは】

 《息子さんどんな人でした。》

 息子は不思議な考えを持っていました。
 母さん子の戦いは戦争をなくすための戦争なんですよ、彼はそう言って征きました。不幸にも彼の夢は実現しませんでした。
 最後の戦争ではなかったのです。


 《ご子息の戦士の公報はさぞかし大きなショックでしたでしょう》

 人の一生でこれほどのショックはありません。帰ってくると信じておりました。私の一人息子ですもの、けれども結局は人生の出来事を受け入れないわけにはゆきません。
 
 《しかし、はじめからそのお気持ちでは》

 いえ、日本や日本人を憎いと思ったことは一度もありませんよ、お互いに、不幸にも命令に従っただけですもの。日本の父や母も息子たちを亡くなされたことでしょう。同じ立場の人にどうして敵意を持てましょうか。ただそれだけです。


 【また、硫黄島戦で負傷した海兵隊の兵士に】

 《負傷されたときの心境は》

 本当にほっとしたな。戦争というものは悲惨なものだ、戦う兵隊がどんな目に遭うか、上にいる将軍たちや政治家には分からんのだ。
 彼等が悲惨さを分かったら戦争はなくなるのだろう。
 どの戦争ももうまっぴらだ。

 負傷者や死体がごろごろ転がっていた。もう思い出したくないしはなしたくない。



 戦後30年ほど前に放映された硫黄島の戦争を検証する番組だが、これを見ていると時代の流れを感じる。

 もう、この映像に移ったお母さんは、30年経った今では亡くなっておられないと思う。今の時代だったら、イラクで息子を亡くしたお母さんはどの様な答えが返ってくるのだろうか。



戦前・戦中・戦後を語る  硫黄島戦没者追悼式」

2007年02月28日 11時56分25秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
  このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

「硫黄島戦没者追悼式」
 
早朝のテレビに小泉首相が硫黄島戦没者追悼式に出席したというニュースが放映されていた。

あの小さな島で、彼我合わせて五万人以上の戦死傷者が出た。特に記録では日本軍の殆どの二万一千九百名が戦死、生きて帰った方は僅か千二十三名だそうだ。

 この放送のパネラー木元教子さんが、私が硫黄島に行った時、どなたかトランペットを持ってこられた方が、「海ゆかば」を吹かれたが、その淋しいメロディを聞いていると胸に込み上げるものがあったと話されていた。

 昔人間の私は、知らず知らずに軍歌を口ずさんでいる時がある。反戦人間だが「銀翼連ねて南の戦線」など、私に取っての懐かしのメロディには多くの軍歌が出てくる。しかしこの「海ゆかば」だけは歌ったことがない。戦時中、学校で歌う時も仕方がないから歌っていたのが本音だ。
「海ゆかば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山ゆかば 草蒸す屍 大君の 邊(へ)にこそ死なめ かえりみはせじ」
 
考えてみると、これ程国民を馬鹿にした歌はない。兵士が戦で倒れる時「邊(へ)にこそ死なめ かえりみはせじ」の気持ちで死んで行ったのだろうか。この歌を聞くと、残念だが仕方なく死んで行った兵士の思いが浮かび、知らず知らず涙が出てくるのだ。

 話は違うが、この番組の中で、中国の田舎の小学校で、日本の軍艦マーチを行進の時に使っていたと笑っていた。使った先生は日本の軍歌とは知らなかったらしい。「守るも攻めるも鉄の」なんて、本人が日本の軍歌と判った時の気持ちは計り知れないものがある。判らなければ憎しみも湧かないが、もし日本の軍歌と判っていたら序曲を聴くだけでも腹が立つだろう。

 中国にも日本にも言えることだが、教育が国民にどのように影響するか。中国も被害と恨みばかりを教えていると、未来永劫に日本とは仲良くなれない。歴史は正確に教えるべきだろうが、その時に呪詛までくっ付けるから、被害を被った体験のない、三代目までが恨みを残すことになる日本は何事も曖昧が好きだ。外交や近代史論争では、この曖昧さは不利であるということを認識しなければならない。終わったことだったら隠し立てなく正確な歴史を学びたいものだ。私も歳だ。未だにあの戦争で割り切れないものが残ったままこの世をグッバイしなければならないとしたら、残念至極である。



 
 追記
 今朝の各新聞の社説に

日本も米国を参考に日本版の国家安全保障会議(NSC)を創設することになった。首相官邸の機能を強化し、一元的な外交・安保政策を進めなくては、北朝鮮の核やテロなどの脅威に的確に対処できなくなっているからだ。



産経
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/shucho/070228/shc070228001.htm
朝日(二段目)
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
読売
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20070227ig91.htm
毎日

http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/news/20070228k0000m070141000c.html
日経
http://www.nikkei.co.jp/news/shasetsu/index20070227MS3M2700327022007.html
東京
http://www.tokyo-np.co.jp/sha/

と各社安全保障に(NSC)ついて述べている。
 
 私は安全保障は、国内の自然災害についての安全保障より、対外的敵国を想定した安全保障を主に論じるために(NSC)と言う横文字を使った法案.言うなれば無知な国民を騙すためにわざと(NSC)なる横文字を使っているとしか思えなく、これに付随した共謀罪、個人情報などの法案が有耶無耶のうちに法案が成立してしまう気がしてならない。

 多くの国民は(NSC)と書かれ、全てを把握している人が何人いるのだろう。多くの国民はこの法案がどのようなものか、なんだろうと見逃してしまう。
 日本の法律を作るときは、小学校を卒業しておれば分かる言葉ではなしてほしいものだ。

安全保障(NSC)の様な法案は、昔から秘密が多いことばかりだ。
 無学な、ごまめより。



ヘリコプターの不正輸出  学生時代の催涙ガスの訓練

2007年02月26日 14時23分29秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
  このコーナーに書くのは、2年前に護憲+の戦時を語るコーナーに、戦前・戦中・戦後に体験したり聞いた事を書いたものですが、再編してお送りしています。

これは2005年11月16日にヤマハのヘリ問題を書いたものです。
24日にヤマハのヘリに付いて書きましたが、以前書いたものですがお暇があったら見て下さい。


   ヘリコプターの不正輸出

豊かになって何不自由ない日々がおくれるようになった社会なのに、毎日の新聞には良いこと明るい事の報道は少ない。特に企業のモラル、社会に対する感覚として、お金さえ儲かれば良いという感覚なのか、余りにも不正な事件が多すぎる。

今朝の朝刊にヤマハ発動機が無人ヘリコプターを不正に輸出していたと載っていた。そしてその一部が中国軍の手に渡っているという。

 テレビでも言っていたが、農薬散布に使うヘリだそうだ。これを聞いて私たちの年代で頭に浮かぶのは、これで毒ガス、今で言う化学兵器を散布したらどうなるか、ということである。

 昔、日本軍が化学兵器を使ったとして批判されている。持っていたことは事実であり、持っていたということは、国際条約で禁止されていたが使用しただろうと、私は思っている。負けた国だからそれが表沙汰になったが、多くの国家、特に軍事に力を入れている国が化学兵器の研究をしているのは間違いない。

以前アメリカがベトナムで枯れ葉作戦に使った薬品も、直ぐには人は死なないがベトナム国民に色々な影響が出たのは周知の事実だ。アメリカがイラクに侵攻した理由に、核兵器の開発そして大量殺戮できる化学兵器を開発があるというのは、化学兵器がいかに恐いものかを物語っている。

 皆さん催涙ガスご存じだろうか。私は小学生と師範学校時代に三度、敵がガス攻撃したときの訓練を受けたことがある。実際に催涙ガスを流して風上に逃げろと誘導するのだが、どこへ逃げても涙が出るということは、毒ガスを撒かれたら逃げられないことを証明していると今だから思うのである。


化学兵器は使う側にも被害が出る機能性がある。しかし無人ヘリだとどうなんだろう。見えないところで操縦できるのである。最近は民生用の機器でもその部品が兵器に転用できるので、知らず知らずにそのようなものを輸出しているかも分からないが、無人ヘリだけはいただけない。

 オウムのサリン事件を思い出すまでもなく、核兵器の持てない国が手っ取り早く作れるのが化学兵器だ。日本のことをとやかく言っている中国も、以前どこかで化学兵器を使っていたのではないかという記事を見たことがある。また世界的に真偽は分からないが、過去の国際紛争では毒ガスを使ったという噂を何度もきいた。そのような疑惑のある所に輸出する企業の体質が問題だ。 

ホリエモンもそうだが、分からなければ何でもありの日本。何時も言っているが、政治家・官僚政治に関わる人々が不正をしても逮捕されない。これでバレなければ何でもあり、捕まれば運が悪いという考えを人心に植え付け、最近の社会の腐敗に繋がっているのではないだろうか。

 ニートが多いという。しかし政治献金、天下りの高給、有名スポーツ選手の巨額な契約金、座っていても金儲けのできる投資とうい名の錬金術。テレビでは富豪の邸宅や一本何百万円のワインパーティをこれ見よがしに流されたら、汗水たらして真面目に働いても報われない者はたまらない。  
 
私も下積みの仕事をしていて、汗水たらして働いても評価をしてもらえない仕事だったので、仕事をする意欲は湧いてこなかった。しかしこの入れ歯を入れたら患者さんが喜ぶだろうなとの思いだけを支えに仕事を続けられた。

苦労をしても私のように何か支えるものがあれば良いのだが、低賃金ということは、自分の職業が世間から蔑ろにされていると感じるのは当たり前で、職種に上下がなく真面目に働いて居る者が報われるようにならなければ、正常な国家には絶対ならない。

このことは護憲と関係は無い様に見えるが、人心が安定して正常になると、戦争がいかに無益なものかが見える国民が増えると思うのである。



07年2月21日・水曜日 第三部  死刑囚が100人  映像をねつ造。山梨日日は盗用

2007年02月21日 16時46分39秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 07年2月21日・水曜日 第三部

 宝石店放火殺人の上告棄却で死刑執行されない死刑囚が100人になったという。
        
 私は、基本的に人が人を殺すことには反対だから、死刑廃止でなく、終身刑を提唱するのだが、これだけ凶悪犯人が増えると考えさせられる。

 私は被害者の立場でないのだから簡単に死刑廃止を言えるのかも分からない。難しい問題だ。

 人間が人間をさばく。先日、えん罪が有った。死刑にあたいしない犯罪の冤罪でも後戻りができない。死刑執行して冤罪が分かった時には、日本官僚一流の手法で隠すのだろうかと考えると、本当に頭の痛い問題だ。

 でも昨年は44人の死刑の判決があったと言う事は、月に4人弱の、死刑に相当する犯罪が起きていると言うことなのだ。

 まず、日本を犯罪のない社会にする事だが、あまり社会に格差の出来るのは好ましい現象ではない。

    
 昨日テレビの切り抜きに書いたが。入所者を手錠で拘束。今日番組でこの施設の人が弁明していた。
 老人の多い町内に住んでいると色々な事例を見る。家族で手にあわないので施設に入れるのだから、施設でも持て余すこともあり得ると思う。
 無届と書いてあるが、行政で対応していないから無届の施設ができるのだ。政治は弱いところに責任を転嫁する。

 テレビ東京、映像をねつ造。山梨日日は盗用16本。
 収賄の元刑務官。日本列島犯罪行為に麻痺してしまっている。



残留孤児のことで弟と論争した話・弟の話編

2007年02月06日 08時47分17秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 本題に入ります。
弟は
 俺が阿吾地からリユウセイ、×子(妹)と二人で満州を縦断して葫蘆島までの長い間に、わが子を食料と交換する親はいくらでも見ている。その子供は中国人に育ててもらって居ることは間違いない事実だ。(地図を御覧になれば、阿吾地から葫蘆島までがどのくらいの距離かお分かりと思う)
 その育ての親をほったらかして帰ってくる精神が嫌いだ。
育ての親も一緒に連れて帰って、其れら家族に国家が保障するならば、俺は何にもいわない。

 拉致家族でも心情は分かるが、余りにも手厚く扱い過ぎだ。俺などは国に何にも助けてもらえず,今はあべこべ少しばかりの年金から税金を取りあがって、このまま死んでいくのは腹が立つ。

(拡大満州地図)
 考えると弟の心情はよく分かる。兄弟の中から12歳の歳で一人だけ遠くの所に丁稚奉公に行かされた気持ちは、当時は自分のことだけしか考える余裕のなかった時代で、弟の心情が分からなかったが、この年になり兄として何にもできなかった事は言い訳はできない。
 弟は未だに当時を引きずっている感じかあり、もう少し心にゆとりが出来ればと思っているが、それも生まれた時から決まってしまった人生だからと見守っている。
 ここで少し整理すると、弟妹はソ連の戦車にひき殺されそうになり命の危険を体験している。それが弟妹がどのように彼たちの心に影響を及ぼしたのかわからない。

 しかし考えると私も当時の引揚者の援助は働いていたお店が取り上げてしまっていたり、父の終戦直後の銀行からの援助金も親戚の従兄弟が、終戦時、銀行の本店で受け取っていた事が、戦後10年ほど経って銀行の整理機構からの知らせで分かったり、長い間、朝鮮からの引揚者なので、名前は言われず朝鮮・ちょうせんと呼ばれていて、孤児の悲哀は嫌というほど味わっていた。

 だから、孤児を作る戦争は絶対に許すことがでないのかもわかりません。

 不思議なことに同じ親から生まれ同じ環境に育っていながら、人間形成の固まった年代と其れでない少年から青年期を命を落としそうになった辛い経験や長い孤独な時代を過ごした弟は
 「日本は再軍備して、どこの国家にも負けない国になって、俺をばかにした奴らを見返せなければ」と
 私の護憲論には耳も貸さない弟が出来上がってしまっているのは、私は一番悲しい。


残留孤児のことで弟と論争した話

2007年02月05日 20時47分02秒 | 戦前・戦中・戦後を語る
 07年12月31日の残留孤児のことで弟と論争した話の前編を入れます。

 残留孤児支援義務はないと東京地裁判決が出た翌日弟が、どうだ、俺がいった通りだろうと我が家にやってきました。
満州地図参照(クリックすると拡大)

       
 初めて読む方に私たち兄弟の履歴を紹介します。
 私たちは引揚者で、私を含めて現存している弟妹たちは全員北朝鮮の元山で生まれています。私は幸町という小川の橋を渡ったところ。弟は春日町のお化け屋敷。妹は春日町の当時としては瀟洒な4軒並んだ文化住宅で生まれてました。

地図中の・①②③④⑤は父の歩んだ朝鮮の都市の順位葫蘆島は弟たちが引き揚げ船に乗船した港
 父は朝鮮商業銀行に奉職して,その生涯で4度転勤しています(地図参照)。転勤した所は現在問題になっている都市ばかり、言うなれば、銀行の支店があると言う事は、近代工業の有り金融機関は必要な都市なので、北朝鮮が支配後ロケットや核実験する要素は含んでいる都市なのだろう。

 終戦の時は私は京城師範学校に通っていました。ごまめ家はソ連が参戦する10日ほど前に
恵山鎮という白頭山の裾野で鴨緑江の上流の朝鮮と満州の国境の町から、
ソ連と満州と朝鮮の接点にある
阿吾地という無煙炭を液化する工場のある町に転勤の辞令がでました。この辞令が我が家の運命を狂わす辞令になったのです。

 詳細はこのブログの戦前・戦中・戦後を語るに書いてあるか、後ほど書きためたものを逐次書きますので省きます。

 兎に角、私たち兄弟妹は、孤児にも関わらず日本に上陸してから行政から何の援助も受けていません。小学校6年生と3年生の妹も引き上げ最終の船で敦賀に上陸しても子供二人だから家族単位にないからと言うことて家族の義援金はもらえていなく、さりとて孤児だから施設に収容することもなく、ほったらかされて途方に暮れていましたが、引き揚げ船の中で、ごまめ家が終戦直後の逃避中。肺炎で命も危なかった開拓義勇軍の青年を両親が看病して助けたそうで、その青年に巡り会ったのが幸運だったのでしょう。命の恩人の子供だと云うことで仙台までつれてかえってくれたのです。
 ですから弟は国家に助けてもらった覚えはないと思っています。私も同じくで甲種予科連帰りの兄と二人で小さなお店で働かせてもらえ生きていけるだけ本当にありがたいと、製粉業で夜しか電気灯らない時代でしたので毎晩朝まではたらいたものでした。
 今考えると、国家が孤児の面倒を見てくれるなどとは考えてもみなかったと思います。

 弟は今でいう中学一年生の年代で敦賀の昆布問屋に丁稚奉公。妹は私たち兄弟と同じお店で働くことになりましたが、給金はなしで働くからと妹は小学校に入れてもらいました。しかし学校はあまり行っていなく出席日数は半分ほどだと記憶しています。また小学校卒業後、中学校は行政から義務教育だからと何度かお店に来ていましたが、結局新制中学には行くことができませんでした。
 だから、私のお給金は、盆と正月に小使い銭をもらうだけでした。
 おそらく現代の人には想像はつかないでしょう。