第6部 京城と総括編 この2
終戦の玉音放送は師範学校の講堂。それから進駐軍が京城に入って、武装解除が終わるのは敗戦後3日ほどだと思います。
その間、空には日本の戦闘機が乱舞し、地上には戦車が走り回っていました。
下宿の外の総督府前の大通りに朝鮮民族が、「バンセー・バンセー」とどこともなしに大勢集まり其れを軍隊が戦車で蹴散らかしていた光景は今でも瞼の中に残っています。
それと、将校が抜刀して群衆の中に切り込んでいくのを見ましたが、恐くなって下宿に帰り結果は見ておりません。
8月の終わりに、京城在住の親類が一所に集まることになり、新聞記者の従兄弟のところに集まりました。
ここで、一つの出来事がありました。ある日、数人の屈強な朝鮮人が訪ねてきて家を明け渡せと言うのです。記者の弟の従兄弟か対応していましたが、何か一言二こと言った途端に袋だたきに遭いました。
彼が総督府に勤めていたと言うだけだそうですが、一月ほど起き上がれませんでした。
この従兄弟は、病弱で独学で高等文官試験をとり、4月に奉職したばかりなので、殴った朝鮮人の顔も知らないと言っていました。
此所で,朝鮮に入植した日本人の分析をしてみます。
1・明治に植民地に成って入植した人たち。
これは私のお爺さんやお婆さんがこれに当たります。
2・そして日本生まれで親に連れられて子供の頃親と一緒に朝鮮に渡った者。
それは、私の両親がそれに当たります。
3・それから私のように朝鮮で生まれて朝鮮で育ち本土を全く知らない子供たち。
4・植民地として安定してから朝鮮に渡ったグループ。
日本の行政が定着し、仕事のために初めて朝鮮に足を踏み入れた、このグループは朝鮮人を蔑視していたグループだとおもいます。この人々は戦後、朝鮮人を軽蔑していたのが恐かったのでしょう慌てて、そそくさと引揚げていきました。
子供の頃から入植している2・の私の両親のグループは、上流社会の朝鮮人と下層階級の朝鮮人との付き合い方を分けていたように感じます。しかし、気心がしれると誰でも普通に付き合っていたようです。
3・のグルーブ朝鮮で生まれた朝鮮二世、所謂私たちのグループは、朝鮮語は分からなくても、物心付いたときから二つの民族の住っている中にいるので、何の違和感もなく日朝混在の中に溶け込んでいるので、そう違和感はありませんでしたが、心の隅っこには日本人だという自負はあったと思います。
其の朝鮮二世の日本人の中に、都会でなく日本人の少ない田舎育ちの子供の中には朝鮮語をは話せる者も居たようです。朝鮮の子供たちと遊んでいたからでしょうか。
考えると、私でも、オンマ(お母さん)アボジ(お父さん)コウマブソ(ありがとう)など20語ほどの単語は遊びの中で覚えています。
4・のグループがなぜ朝鮮人を蔑視していたか。
その原因が、日本に帰って分かったのです。それは上流社会族ほど朝鮮人を蔑視している。それは,引揚げて帰ってきた日本人の私にでも,朝鮮で生まれたのだからと、名前を呼ばずに・朝鮮、朝鮮・と結婚してからも呼んでいた人間がいましたから、本国の日本人の朝鮮人に対する扱いがどのようなものかは分かった感じです。
これは、私が孤児だったからかも分かりません。普通の方々は、孤児だからと大切にしてもらいましたが、上級教育を受けた人物ほど私を馬鹿にしていたのは今でも忘れられない思いです。
だから、この4・のグループは、日本本土で朝鮮人を軽蔑した中で生活していた人物が、朝鮮に渡っても日本に居る時と同じ感覚で朝鮮人と接触していたと推測がつきました。
以下次回
終戦の玉音放送は師範学校の講堂。それから進駐軍が京城に入って、武装解除が終わるのは敗戦後3日ほどだと思います。
その間、空には日本の戦闘機が乱舞し、地上には戦車が走り回っていました。
下宿の外の総督府前の大通りに朝鮮民族が、「バンセー・バンセー」とどこともなしに大勢集まり其れを軍隊が戦車で蹴散らかしていた光景は今でも瞼の中に残っています。
それと、将校が抜刀して群衆の中に切り込んでいくのを見ましたが、恐くなって下宿に帰り結果は見ておりません。
8月の終わりに、京城在住の親類が一所に集まることになり、新聞記者の従兄弟のところに集まりました。
ここで、一つの出来事がありました。ある日、数人の屈強な朝鮮人が訪ねてきて家を明け渡せと言うのです。記者の弟の従兄弟か対応していましたが、何か一言二こと言った途端に袋だたきに遭いました。
彼が総督府に勤めていたと言うだけだそうですが、一月ほど起き上がれませんでした。
この従兄弟は、病弱で独学で高等文官試験をとり、4月に奉職したばかりなので、殴った朝鮮人の顔も知らないと言っていました。
此所で,朝鮮に入植した日本人の分析をしてみます。
1・明治に植民地に成って入植した人たち。
これは私のお爺さんやお婆さんがこれに当たります。
2・そして日本生まれで親に連れられて子供の頃親と一緒に朝鮮に渡った者。
それは、私の両親がそれに当たります。
3・それから私のように朝鮮で生まれて朝鮮で育ち本土を全く知らない子供たち。
4・植民地として安定してから朝鮮に渡ったグループ。
日本の行政が定着し、仕事のために初めて朝鮮に足を踏み入れた、このグループは朝鮮人を蔑視していたグループだとおもいます。この人々は戦後、朝鮮人を軽蔑していたのが恐かったのでしょう慌てて、そそくさと引揚げていきました。
子供の頃から入植している2・の私の両親のグループは、上流社会の朝鮮人と下層階級の朝鮮人との付き合い方を分けていたように感じます。しかし、気心がしれると誰でも普通に付き合っていたようです。
3・のグルーブ朝鮮で生まれた朝鮮二世、所謂私たちのグループは、朝鮮語は分からなくても、物心付いたときから二つの民族の住っている中にいるので、何の違和感もなく日朝混在の中に溶け込んでいるので、そう違和感はありませんでしたが、心の隅っこには日本人だという自負はあったと思います。
其の朝鮮二世の日本人の中に、都会でなく日本人の少ない田舎育ちの子供の中には朝鮮語をは話せる者も居たようです。朝鮮の子供たちと遊んでいたからでしょうか。
考えると、私でも、オンマ(お母さん)アボジ(お父さん)コウマブソ(ありがとう)など20語ほどの単語は遊びの中で覚えています。
4・のグループがなぜ朝鮮人を蔑視していたか。
その原因が、日本に帰って分かったのです。それは上流社会族ほど朝鮮人を蔑視している。それは,引揚げて帰ってきた日本人の私にでも,朝鮮で生まれたのだからと、名前を呼ばずに・朝鮮、朝鮮・と結婚してからも呼んでいた人間がいましたから、本国の日本人の朝鮮人に対する扱いがどのようなものかは分かった感じです。
これは、私が孤児だったからかも分かりません。普通の方々は、孤児だからと大切にしてもらいましたが、上級教育を受けた人物ほど私を馬鹿にしていたのは今でも忘れられない思いです。
だから、この4・のグループは、日本本土で朝鮮人を軽蔑した中で生活していた人物が、朝鮮に渡っても日本に居る時と同じ感覚で朝鮮人と接触していたと推測がつきました。
以下次回
事後承諾でごめんなさい。^^;
これからも、貴重な体験記を
綴っていってください。
よろしくお願いします!^^
ありがとうございました。
また、アジア各地には点々と滞在してきましたが、欧米諸国の人々は、特にアングロサクソンは、知的に高いレベルの人々が多く滞在し、医療や芸術、生活において、一定の地域の生活向上を果たしてきたと思います。或る意味で、相互に尊敬されていたと思います。
日本の当時は、日本で食えない人々が出て行った、出て行かされた、という現実が在ると思います。