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ノブトの平凡日記

備忘録として気が向いたとき更新しています。

懐かしい写真(其の2)

2005年10月10日 | ふるさと 他
 10月7日の記事で山村の風景を載せたが、同じアングルで写した冬景色の写真があったので紹介したいと思う。
                
 子供時代、山肌の獣道のような道で、竹を割って作ったスキーで遊んだが、滑りやすくするため水を撒いて凍らせたところ、仕事帰りの父が滑つて転び、夕食お預けのうえ、鍬で氷を削らされたこともあった。転んだ父は、遠い所へ逝き今はもういない。

昨日に続いて・・・

2005年10月08日 | ふるさと 他
 「ノブト」の生地の理解を深めるため、
 生家から遥か下を流れる穴吹川(高知四万十川に勝るとも劣らないと言われる)を撮ったもので、当時は町に出るにはこの道しか無かったのである。

 今では、上流にある川井という在所から徳島市内へ抜ける道が出来ている。それまでは、がけ崩れになると、陸の孤島となっていた。

 なんの産業も無い山村では過疎になるのも当然と思いませんか?  でも、今は徳島県美馬市の一部なのですよ。(笑)

写真整理していたら・・・

2005年10月07日 | ふるさと 他
 今日も蒸し暑く、午後からシトシト雨が落ちてきた。

  何故か箱に入れて放ったらかしの写真を整理する気になり、開けたものの昔を懐かしみながら見るはめとなった。
 なかでも懐かしい今は無き【小中学校校舎】の写真が出てきたのである。私は男女27名の中の一員であった。


 生地は以前にも書いたように、徳島県剣山の麓に所在する徳島県麻植郡(おえぐん)木屋平村であったが、
途中から徳島県美馬郡木屋平村となり、
更に変わって、今では徳島県美馬市木屋平となったそうである。(市とは・・・まぁー)
 育った貢(みつぐ)という集落は、当時20戸あまりだったのが、過疎化が進み今では2軒を残すのみとのことである。みんな都会へ移ってしまったのでした。
 私の育った生家は、植林した杉や他の雑木に呑み込まれ、今は姿かたちは無く、当時を偲ぶものといえば、モノクロの写真のみとなった。
 同郷人が、この写真を見てくれることを望みたい。(撮影は1962年頃?)
 

彼岸の田舎は今!

2005年09月27日 | ふるさと 他
 
彼岸のある日、久しぶりに妻の実家の墓参りに行く。
途中、既に稲刈りが終っており、切り株から稲の葉が伸びている田圃もあり、かなり以前に刈られたようである。

 又、檜の枝には花芽が成長し「いつでも咲ける」と声を張り上げていた。

どのように使っても美味しいスダチ

2005年09月05日 | ふるさと 他
 今日、徳島の義弟がスダチ沢山送ってくれた。
スダチとは学名Citrus sudachiと言い、ミカン科の樹木で柚子の近縁種だそうだ。また、名前の由来は【酢橘】からスダチと呼ばれているそうな。

 難しいことはさて置き、一番美味しいスダチの食し方はどれでしょうか?焼き魚? 刺身? 松茸に? 酢の物に? それとも吸い物?etc・・・・
 いいいえ、そうでは有りません。そうーれは・・・♪♪♪(なんかの歌詩がありましたね)

 私が本当に美味しいと思うのは、
間引いた大根葉の塩漬けに、シラス干しを入れ、醤油を少し掛けたところに、スダチを絞り掛けたのが一番と信じているのです。
 「お前、あまり良い育ちしてないな?」「ハイハイ、その通りデス」
・・・が・・・ 漬物や野菜嫌いでなければ一度お試し下さい。 (自分で買って・・・・)

 話し変わりますが、一昨日、NHKラジオ深夜便 心の時代をウトウトしながら聞いていたところ、

 《空のように綺麗になれるものなら、
      花のように静かになれるものなら
  値(あたい)無き物として、
      これも捨てよう、あれも捨てよう》
  
と、アナウンサーの方が二回も紹介してたので、枕元のメモ用紙に寝ぼけた頭で慌ててメモしたものです。 

 何かしら私の心に引っかかるので、blogに書きました。歌詞間違っていたらお許しを。 鈴木秀子さんという元大学教授がお話されていたものです。

姪っ子の店はこんなお店です!

2005年08月26日 | ふるさと 他
 母が昼食で病室を離れている間、姪夫婦が22日開店した店を訪ねた。

 場所は、吉野川大橋を渡ったところを左折し、川の南岸沿いに走ること僅か、末広への交差点1つ手前を曲がったところであった。歳を取ると勝手な都合主義になるのか、 【末広】への入り口とは「末広がりに繁盛すること間違いない」と、つい思いたくなる。
 
 店に先ず入って直ぐの所に、地元の酒のほか他府県の日本酒(店長はアルコール弱いのに)を陳列し、反対側は水槽を設け、中では活魚が達観した顔で迎えてくれた。
 
 聞くと、昼食時2時間半食堂として開き、夕方から夜10時まで居酒屋として開店するそうで、若いとは言え健康を損ねないようにと願うのみである。

 昼食を頂いたが、「どうだった」と言う前に、
 鳴門から国道11号線を高松に向かって行くと、【びんびや】という地元の人やドライバーには名の知れたドライブインがある。(長い間行ってないので現在営業中か否かは分からないが・・・)

 そこで何度か食事したが、質・量・全てにおいて、このお店に優るとも劣らないと言えば、【びんびや】さんをご存知の方なら理解されるだろう。
 徳島の方は勿論、徳島市を訪問された方々に愛される店になって欲しいと、遠い奈良から祈っている。

 



 

 

眉山と城山です

2005年08月25日 | ふるさと 他
 76日ぶりに逢う母は、想像していたより元気であった。
しかし、普通の会話が出来ていた回数が減り、病室の窓から吉野川越しに見える町並みに立つ鉄塔を指差し、「あれ、五重の塔見えるやろ。あれ奈良の五重の塔や」と言ったかと思うと25㌔西に所在するが見えもしない、「川島町が見えるやろ」と言って驚かせ、「そやなあ」と返事すると納得し話題を変える。

 このように、時折変わった話をするかと思うと、母の孫夫婦が飲食店を開店した事を話すと「そうよ。○○ちゃん、○○○は偉い」と名前を出して褒めたり、ひ孫の名前をあげ「△△は賢いんでよ。先が楽しみや」と嬉しそうに話してくれる。

 私が「誰か分かる」と尋ねると、ニコニコしながら少し考え「次男や」と言ってくれるものの、名前が出なかったのは少しばかり悲しい。
「まともな会話のできる母よ戻れ」と念ずるも、すぐ変な話をする母になる。

 テレビだったと思うが、
(過去の健康な時の患者を思い浮かべて現在の患者に対処するのでなく、今現在の症状(病)を素直に受け止めて対処するように)との事であったと思うが、
シッカリして尊敬していた母の姿を、頭の中から消せないのはどうしようもない。
 割り切って簡単に消せるのだろうか?



 ※画面は母の病室から見た徳島市中心部の景色。
吉野川北岸から南方を写したもので橋は国道11号線の吉野川大橋。川の左方約1キロで海。中央のなだらかな山は眉山、手前の小高い山は、お城があった城山。この山の裏がJR徳島駅。

大阪湾は凪いでいた

2005年08月24日 | ふるさと 他
 母の見舞いと、姪夫婦の飲食店開店御祝いのため帰省した。悲喜半々の気持ちを知るかのように、曇天で時折雨の中、約1時間で泉佐野港に着いた。
 
 午前6時40分の便のためか、自動車甲板は7~8割の利用であり、大阪湾はベタ凪ぎで95分の船旅を楽(?)しんだ。 

 ブログに添付しようとカメラを持ち頑張ったが、海・船・飛行機のイメージを膨らませるのを撮れなかったのは、天候の所為だけだったのだろうか。

  


息子が転勤・・・・。

2005年08月14日 | ふるさと 他
 朝、泉佐野市で働いている息子から「9月に今治へ転勤の内示」と、深夜に発信したメールが来ていた。
「今でも年2回程しか帰らないのにもっと帰らんな」と妻は言う。 何処でいてくれても健康で、人に迷惑をかけず生活してくれれば何も言う事は無いとは思うが・・・・。

 自分も徳島で育ち、大阪市西区・福岡博多と転勤し落ち着いたところが奈良県。 親はいろんな事を考え心配したのだろうか?。 今思うに、親の心情が分かっていたのかどうかは記憶に無いが、便り(ハガキ)には嬉しかったこと、楽しかった事しか書かなかった気がする。

 息子よ! そのような気苦労は無用です。独りで悩み、鬱症にでもなられたらそれこそ心配だ。 また、大変だ!

 妻は「転勤先がどんな土地か見に行く。何度何処へ転勤しても・・・」と言って、盆休みの街へパワフルにパートに出かけた。

 今日の気分を庭のライムで表現しておこう。

ふるさとの妹からのメール

2005年08月12日 | ふるさと 他
 母(88歳)が、この春転倒し病院暮らしとなった。兄弟姉妹が毎日覗きに行っているが、昨日も帰ろうとすると娘なのに何度も頭を下げ「良かった。ありがとう」と何度も礼を述べる母を見るのは悲しい。落ち込まず前向きで行こうとの内容であった。

 また、何を思ったのか母は妹に
     「若きとて、末を遥かと思うなよ。 無情の風は 時を嫌わず」
と言ったとのこと。「誰のお言葉なん?」と聞くと弘法大師のお言葉だとか。

 元気でいた時の母の表情が見られなくなり、同じことを何度も繰り返すようになった今、時折見せる元気な母の状態がずーっと続いていて欲しいと祈るのみとのことであった。