2011.10.18 東京メトロフリー切符利用東京散策ーその3
散策メモ
今日の散策
南千住駅→ 回向院・小塚原刑場跡(延命寺)・浄閑寺・永久寺
千住は江戸四宿の一つで日光街道の最大の宿場で、その面影をたどってみた。
南千住駅から正面の広い道路を左に移動。突き当りの交差点が回向院だった。
回向院 内を散策
この小塚原回向院は振袖火事の死者を弔うために建立された本所回向院の子院で刑死者のために建立された云う。
寺院名は 「諸宗山 無縁寺 回向院」で宗派に関係ない寺だそうだ。
境内には、有名な罪人の墓や吉田松陰の墓などがあり、あまり広くはないが興味ある墓が沢山あった。
小塚原回向院山門
回向院の説明板
右から 腕の与三郎、高橋お伝、片岡直二郎、鼠小僧の墓
片岡直二郎とは、よく知らないが、江戸時代後期の侠客だそうです
松陰の墓 と 鼠小僧・片岡直二郎の墓
二二六事件の刑死者 磯部浅一の墓
井伊直弼を暗殺した十五浪士の墓や「吉展ちゃん事件」の犠牲者村越吉展ちゃん(当時4歳)の供養のために建立された「吉展地蔵尊」などがあり数多くの歴史上有名人物の墓が建立されている。
その隣にある小塚原刑場後(延命寺)を訪ねて見た。
ここには、刑死者の菩提をともらう為に建てられた「首切り地蔵」があるという。
延命寺入口と境内最前にある仏碑
まず目に付いたのが、下の看板
先方を見ると、あら首切り地蔵がない。台座だけだった。
台座の下まわりには、いろいろな地蔵さまなどが彫られた小さい石仏が沢山並んでいた。
その台座の脇に地蔵の大きな頭部や腕が置かれていた。
地上の首切り地蔵尊
3.11の東日本大地震で腕が落ちてしまい、修理のために本体のお地蔵さんも降ろされてしまったらしい。
お地蔵様も災難に遭っていたのだ。早い修復を願っています。
そこからのんびり三ノ輪の方へ線路伝いに歩いて、投げ込み寺(浄閑寺)に行くことにした。
浄閑寺(投げ込み寺)
吉原からは北に1キロくらいと近かったので、吉原の遊女が病気で死んだ時などに、その亡骸を投げ込んだ寺だという。
また、安政の大地震(1855年)の時にも、多くの遊女が投げ込まれたという。
投げ込まれた遊女の数は、江戸時代に吉原が開業以来25000人に及ぶそうである。平均年齢は21歳という若さだそうで、それ故、投込寺とも呼ばれる」と説明にあった。
浄閑寺境内を散策してみた。
浄閑寺正面
境内史跡目録
新吉原総霊塔
正面右横にある石碑の文
生まれては
苦界
死しては
浄閑寺
永井荷風の文学碑 と
次に、近くに在る江戸五大不動の一つ目黄不動明王が祭られている永久寺を訪ねて見た。
永久寺
小さなこじんまりとした寺で、地方の神社程度の規模のようだった。
不動堂
本尊 目黄不動尊(五色不動の一つ))
狭い境内?にあった石碑、石仏
今日の散策はここまでにして三ノ輪駅から帰宅の途に就いた。
色々ぶらりぶらりと散策して歩いたが、最近こっている時代小説に出てくる地名と地域との関連が少しずつ分かってきて、時代小説を読む楽しみが増えたような気がする。
散策メモ
今日の散策
南千住駅→ 回向院・小塚原刑場跡(延命寺)・浄閑寺・永久寺
千住は江戸四宿の一つで日光街道の最大の宿場で、その面影をたどってみた。
南千住駅から正面の広い道路を左に移動。突き当りの交差点が回向院だった。
回向院 内を散策
この小塚原回向院は振袖火事の死者を弔うために建立された本所回向院の子院で刑死者のために建立された云う。
寺院名は 「諸宗山 無縁寺 回向院」で宗派に関係ない寺だそうだ。
境内には、有名な罪人の墓や吉田松陰の墓などがあり、あまり広くはないが興味ある墓が沢山あった。
小塚原回向院山門
回向院の説明板
右から 腕の与三郎、高橋お伝、片岡直二郎、鼠小僧の墓
片岡直二郎とは、よく知らないが、江戸時代後期の侠客だそうです
松陰の墓 と 鼠小僧・片岡直二郎の墓
二二六事件の刑死者 磯部浅一の墓
井伊直弼を暗殺した十五浪士の墓や「吉展ちゃん事件」の犠牲者村越吉展ちゃん(当時4歳)の供養のために建立された「吉展地蔵尊」などがあり数多くの歴史上有名人物の墓が建立されている。
その隣にある小塚原刑場後(延命寺)を訪ねて見た。
ここには、刑死者の菩提をともらう為に建てられた「首切り地蔵」があるという。
延命寺入口と境内最前にある仏碑
まず目に付いたのが、下の看板
先方を見ると、あら首切り地蔵がない。台座だけだった。
台座の下まわりには、いろいろな地蔵さまなどが彫られた小さい石仏が沢山並んでいた。
その台座の脇に地蔵の大きな頭部や腕が置かれていた。
地上の首切り地蔵尊
3.11の東日本大地震で腕が落ちてしまい、修理のために本体のお地蔵さんも降ろされてしまったらしい。
お地蔵様も災難に遭っていたのだ。早い修復を願っています。
そこからのんびり三ノ輪の方へ線路伝いに歩いて、投げ込み寺(浄閑寺)に行くことにした。
浄閑寺(投げ込み寺)
吉原からは北に1キロくらいと近かったので、吉原の遊女が病気で死んだ時などに、その亡骸を投げ込んだ寺だという。
また、安政の大地震(1855年)の時にも、多くの遊女が投げ込まれたという。
投げ込まれた遊女の数は、江戸時代に吉原が開業以来25000人に及ぶそうである。平均年齢は21歳という若さだそうで、それ故、投込寺とも呼ばれる」と説明にあった。
浄閑寺境内を散策してみた。
浄閑寺正面
境内史跡目録
新吉原総霊塔
正面右横にある石碑の文
苦界
死しては
浄閑寺
永井荷風の文学碑 と
次に、近くに在る江戸五大不動の一つ目黄不動明王が祭られている永久寺を訪ねて見た。
永久寺
小さなこじんまりとした寺で、地方の神社程度の規模のようだった。
不動堂
本尊 目黄不動尊(五色不動の一つ))
狭い境内?にあった石碑、石仏
今日の散策はここまでにして三ノ輪駅から帰宅の途に就いた。
色々ぶらりぶらりと散策して歩いたが、最近こっている時代小説に出てくる地名と地域との関連が少しずつ分かってきて、時代小説を読む楽しみが増えたような気がする。
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