ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

ライラの冒険 黄金の羅針盤

2008年03月06日 | 映画レビュー
 あー、やっぱりファンタジーは苦手。3本立ての最後にこれをもってきたのが間違いだった。前の2作で泣き疲れたのでこういうめまぐるしいファンタジーだとすぐに寝てしまう。先日の映画サービスデーに欲張って3本見たのだけれど、無理したかいがなかったかも。

 これは原作を読んでいるかもしくは粗筋や物語の世界の社会システムについて予備知識がないと理解できないのではないか。わたしはダニエル・クレイグお目当てで見にいって、彼の無精髭が渋くて素敵だったのでそれで満足だったけど、このファンタジーの世界観を味わうためには原作をおさえておく必要がありそうだ。

 今やCGでなんでもできるけれど、このめくるめく映像の素晴らしさは、一方でめくるめく睡魔の世界へと誘う眼精疲労を伴う。中高年にはご注意あれの映画だ。ノルウェーロケなのか、雄大な雪原には息を呑んだ。これは素晴らしい。しかし、北極圏を舞台とする場面は空が暗くてせっかくの迫力ある戦闘シーンも何をやっているのかわかりにくい。

 ただ、確かな予感としては「ナルニア国物語」より大人向けということ。これは原作を読んだほうがよさそうね。全部読んでから映画を見ようかな。DVDが出たら見直してみます。今回はかなり寝込んでしまったので、レビュー不能です、すんません。

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THE GOLDEN COMPASS
アメリカ、2007年、上映時間 112分
監督・脚本: クリス・ワイツ、製作: デボラ・フォート、ビル・カラッロ、製作総指揮: トビー・エメリッヒほか、原作: フィリップ・プルマン『黄金の羅針盤』、音楽: アレクサンドル・デプラ
出演: ダコタ・ブルー・リチャーズ、ニコール・キッドマン、ダニエル・クレイグ、エヴァ・グリーン、サム・エリオット
声の出演: イアン・マッケラン、クリスティン・スコット・トーマス、キャシー・ベイツ

君のためなら千回でも

2008年03月05日 | 映画レビュー
 期待したほどには大感動する話ではなかったが、子どもの頃の心の傷にどう立ち向かうのか、それが現在の困難な政治とどのように対峙することになるのか、とても考えさせられる映画だ。最後はいきなり涙が溢れ出ました。

 誰もが子どもの頃に小さな罪を犯したことはあるだろう。大人であればそれが「罪」とさえ意識されないような、小さな罪。それは心の傷となっていつまでも残る。ましてや、親友に対して密かに行った裏切りは、誰よりも裏切った本人を傷つける。傷ついた心はどのようにすれば癒されるのか、罪が赦されるのはいつのことなのか、誰によってなのか……


 アフガニスタン、1978年。間もなくソ連のアフガン侵攻が始まる、その少し前のことだ。少年アミールは父と二人、裕福な家庭で暮らしていた。映画では父の職業は明らかにされないが、大学教授などの知識人ではなかろうか(追記:原作を読むと、父は実業家であることが判明)。アミールの親友は使用人の息子、ハッサン。二人はいつも一緒にいた。アミールより年下のハッサンだったが、彼は気弱なアミールの保護者のように振る舞った。いつもアミールのために尽くし、毎年恒例の凧合戦ではアミールのために助手を務め、彼のために奮闘した。「君のためなら千回でも!」と叫んで。

 だがある日、ハッサンは年上の少年たちによって陵辱される。アミールはその場面を目撃しながらハッサンを助けることなく逃げてしまった。その日以来、アミールはハッサンを避けるようになる。やがて、ソ連軍の侵攻が始まり、反共主義者のアミールの父は亡命することを決意した…


 物語は、2000年のロサンゼルスから始まる。大人になったアミールは念願の作家になり、彼の本が出版されることになった。その喜びの場面に、国際電話がかかる。相手は誰だろうか…。そして物語は1978年のアフガニスタンへと戻る。アミールは父と共にアメリカに亡命し、作家となったのだが、前半は彼の少年時代の回想が丁寧に描かれる。ハッサンという勇敢で利口な少年との厚い友情、しかしその友情がいともたやすく壊れる瞬間を映像は少年の心に迫って切り取る。痛いほど迫る、子ども時代の罪・奸計・自責・後悔・絶望・赦し…といっためまぐるしく動く感情が子役二人の素晴らしい演技によって見る者の胸を打つ。


 特筆すべきは凧揚げの場面。どうやって編集したのか気になるほど、凧の飛翔感が素晴らしい。糸が付いているとはいえ、まるで自由に空をゆくような凧の舞、そしてその凧を自在に操る少年たちの表情を追うカメラと編集が素晴らしい。そして、凧合戦で糸を切られて落ちてゆく凧を追いかける「カイト・ランナー」(凧追い)の名人がハッサンであった。


 後半、大人になったアミールがハッサンの息子を救出すべくタリバン政権下のアフガンに入るところから、ちょっと現実離れしたような展開になるのが不可解だが、これが実話ベースなら、こういうこともあったのかもしれないと納得せざるをえない。おそらく原作はそのあたりを丁寧に描いているのではなかろうか。

 この映画は少年時代の罪と向き合うのに遅すぎる時はないという美しく痛い教訓を描くと同時に、アメリカにおける少数エスニック、とりわけ難民となった人々の境遇についても描く社会派作品である。故国では裕福に暮らしたインテリ階層の人間がアメリカでは一介の物売りになるという境遇の激変が主人公達への同情をそそる。しかしそれは故国での特権的な立場にあった人の傲慢と慈悲という、「上から下への目線」を意識させる場面でもある。「召使いの子」であったハッサンのほうが「主人の息子」アミールよりもずっと勇敢で知恵のある子どもだったという逆転が形を変えて亡命先で経済的格差の逆転という形で描かれる。そういう意味では、この映画では身分・階層といった属性の脆さが印象的であると同時に、そのようなアイデンティティよりもさらに心の気高さのほうこそが大切なのだと見る者に訴えてくる。アミールの妻となる女性が「将軍」の娘であることも一つの象徴としてとらえられる。故国では将軍であった保守的な上層階級の人間に対してアミールが寄せる断固たる反発の視線が眩しい。


 まったく奇をてらったところのないマーク・フォースターの演出は、このヒューマンドラマの作風に相応しい。これまで監督のいずれの作品も標準以上に素晴らしいものだったが、特にこれはお気に入りになった。テーマが多すぎて消化不良の面も否めないが、これを機会にアフガン関係の映画をたくさん見てみることもお奨め。


 空を舞う凧は、無限の可能性へと開かれた少年たちの未来を象徴する。その未来を阻む権利は誰にもない。

 

 ※アフガン難民やタリバン政権の悪行について考えるヒントとなる映画。すべて「ピピのシネマな日々」にレビューを書いていますので、興味をもたれたかたは五十音順インデックスから捜してください。

 「少女の髪どめ」
 「カンダハール」
 「アフガン零年」

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THE KITE RUNNER
アメリカ、2007年、上映時間 129分
監督: マーク・フォースター、製作: ウィリアム・ホーバーグほか、製作総指揮: シドニー・キンメルほか、原作: カーレド・ホッセイニ、脚本: デヴィッド・ベニオフ、撮影: ロベルト・シェイファー、音楽: アルベルト・イグレシアス
出演: ハリド・アブダラ、ホマユン・エルシャディ、ゼキリア・エブラヒミ、アフマド・ハーン・マフムードザダ、ショーン・トーブ、アトッサ・レオーニ、アリ・ダネシュ・バクティアリ

明日への遺言

2008年03月03日 | 映画レビュー
 「責任」と「赦し」について考えさせる優れた作品。後半はほとんど泣きっぱなしでした。


 岡田資(たすく)中将は名古屋空襲を実行した米軍機の搭乗員を斬首した罪でB級戦犯として巣鴨に囚われていた。この映画は岡田の法廷闘争=「法戦」を描いて岡田の高潔な人間性を讃える。

 1945年3月の名古屋空襲の折、東海軍司令官として任務にあった岡田は、パラシュートで降下してきた米軍搭乗機の38人を部下に命じて斬首させた。これが「捕虜虐待」に当たるとして戦後、戦争犯罪人として裁かれることになった。岡田は名古屋空襲が無差別爆撃であり、軍事施設への爆撃のみを認めたジュネーブ条約違反であると主張し、搭乗員たちは捕虜ではなく戦犯であるから処刑はやむをえないと断じた。さらに、当時は毎日が混乱の極みにあり、とてもではないが正式の軍事法廷を開けるような状況ではなく、略式の決定によって処刑したのはやむをえないこと、斬首の指令を下したのは自分であり、責任はすべて自分にあると強調して斬首を実行した部下の命を救おうとした。

 空襲がいかに残虐なものであったかということを証言するために孤児院の院長や電車の年若き車掌など、女性たちが法廷に立つ。その場面では静かに女性達が証言するだけのことなのに、聴いているだけで涙が出てくる。

 軍法務局の将校たちが責任逃れに汲々とする一方で、岡田資はすべての責任を自分一人で負おうとした。しかし、ここで徐々に明らかになるのだが、彼の論旨一貫した理性的な証言が、実は戦争責任をめぐって重大な矛盾に満ちていることがわかる。岡田は、無差別攻撃を行った責任はたとえ直接爆撃したわけではない無線員であっても負わねばならない、それは連帯責任であると述べる。バーネット検察官は「操縦士でも爆撃手でもない、単なる無線士であっても戦争犯罪人だと言うのか? 基地で搭乗を命じられて彼が拒否できるとでも?」と追及するが、岡田は「確かにそうだが、それでも空襲は搭乗員全員が有機体となって行われたことだから」と反論する。一方岡田は、「斬首した部下に命令したのは自分であるから、責任はすべて自分にある」というのだ。これは矛盾した論理である。

 戦争責任はいったい誰にあるのか? 無差別爆撃の責任者は誰なのか? 実際に手を下した末端の兵士達が責めを負うべきなのか、それとも彼らには責任はないのか? 広島長崎への原爆投下を命じたのは誰なのか? 岡田は原爆投下を命じたのが誰なのか、「知らない」と答える。映画ではこのあたりが微妙な描写になっていて、注意深くない観客は気づかないかもしれない。岡田が本当のところ、誰の責任を回避しようとしているのか。岡田が潔く「戦場でのすべての責任は司令官にある」と断言することによって、戦争の最高責任者が一切責任をとることなく生き延びた事実が浮かび上がるのだ。この映画は一言も天皇の戦争責任について言及していない。言及がないからこそかえって行間の意味が明らかになる。

 戦勝者が戦敗者を一方的に裁く不当な裁判であった戦犯裁判だが、この横浜法廷に限って言えば、岡田の弁護に立ったフェザーストン主任弁護人は米軍の攻撃が無差別爆撃であったことを立証しようとし、実に誠実に岡田の弁護に当たった。舌鋒鋭く岡田を追及した検察官までが最後は岡田に同情を示す発言を行ったし、裁判長は岡田を助けるべく「処刑は報復だったのか?」と訊ねた。しかし、岡田は断固として「いや、報復ではない、処罰だ」と主張を翻さなかった。映画の中では描写されていないが、判決後、フェザーストンも検察官も岡田の助命嘆願を行ったという。

 岡田は深く仏教に帰依して、処刑を待つ間、他の囚人たちの心の支えになった。岡田は自分の死刑判決の後、同じく死刑判決を受けた部下達の助命のために尽力し、彼らは結局処刑を免れた。岡田がかくも超然と死に向かい、凛として生きていられたのは宗教心のゆえなのだろう。今の世の中、責任逃れの人間が多すぎることを思えば、かつてこのように気高く生きた人がいたことが奇跡のようにも思える。

 この映画、惜しむらくは抑制の効いた法廷場面に比べて最後にお涙頂戴節になったところ。音楽がちょっとうるさすぎるのと、ナレーションもやりすぎ。巻頭の説明実写フィルムといい、わかりやすくしすぎたところが減点だが、法廷場面の緊迫感や静かな迫力には感動した。

 この映画を見て「大日本帝国軍人は偉かった」という単純な軍人礼賛を唱えるような者がいたらそれこそ愚か者だ。岡田中将は稀有な存在だったからこそ威光を放っていたのだ。その岡田であっても戦争の是非については何も述べていない。映画の中では岡田は平和主義者のように描かれているが、それが事実なのかどうかはわからない。大岡昇平の原作も読んでみたいものだ。

 ちなみにバーネット主席検察官を演じたのはスティーブ・マックイーンの息子です。いかついところがよく似ている。

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日本、2007年、上映時間 110分
監督: 小泉堯史、プロデュース: 原正人、原作: 大岡昇平『ながい旅』、脚本:小泉堯史、ロジャー・パルヴァース、音楽: 加古隆、主題歌: 森山良子『ねがい』
ナレーション: 竹野内豊
出演: 藤田まこと、ロバート・レッサー、フレッド・マックィーン、リチャード・ニール、西村雅彦、蒼井優、田中好子、富司純子

地獄の英雄

2008年03月01日 | 映画レビュー
 カーク・ダグラスが高名をあせる下卑た新聞記者を怪演。登場したいきなりからとっても嫌なヤツで、その嫌な男の雰囲気のまま観客を敵に回して傲岸不遜に振る舞う。こんな嫌な男の自信たっぷりな嫌みさを最初のセリフから実にうまく描くのは、さすがにビリー・ワイルダーの脚本だ。

 辣腕記者を自負する傲慢な男カーク・ダグラスがあのしゃくれた顎で癖のある役をイメージぴったりに演じているので、ますます不快感が高まる。これほど主人公が嫌な男という話もそれほど多くない。東部の大新聞社を首になった記者が流れてきたのは南部の田舎町。田舎をバカにしきっているくせに、失業者である彼を拾ってくれるのはその田舎の新聞社なのだ。カーク・ダグラスはなんとか特ダネをものにして大新聞社の記者へと返り咲こうとしている。そのためなら手段は選ばない。記事の捏造だってへっちゃら。

 そんな彼の前に美味しいネタが転がり込んできた。洞窟に探検に入った男が生き埋めになってしまったのだ。カーク・ダグラスは生き埋めになったレオを助ける振りをしてうまく取り入り、独占取材権を握る。救出をわざと遅らせ、生き埋めレオの扇情的記事を配信して全米の耳目を集めることに成功する。レオの美しい妻は腹黒い女で、レオの救出劇を見に来た山のような野次馬相手にちゃっかり土産物売りの商売に精出す。

 今ならテレビの中継車が出てワイドショーが大騒ぎするようなネタのお話が、当時なら新聞記事でデカデカと掲載されるわけだ。「大事件」を欲望する人々を描いた社会批判もので、そのようなマスコミ批判は今では既に陳腐なのだが、その陳腐な構造が未だに変わっていないところに震撼してしまう。事件を欲望するマスコミ、大衆、あろうことか被害者の家族さえもが、誰も本気で可哀想なレオを救おうと思っていない。

 この映画の中で、ビリー・ワイルダーはいったい誰を批判しているのだろうか? カーク・ダグラス演じる記者に代表されるような品のないマスコミなのか、事件を喜ぶ大衆なのか。この時代からさらに十数年後、日本も本格的にテレビ時代に入る。スペクタクル社会にあっては事件は祝祭であり、事件に浮かれる大衆は非日常を日常の中に求め続けるどん欲な消費者だ。醜い者どうしの邂逅の中で、憐れなレオは死んでいく。悲劇の責めを負うべき人物もやはり自らが「事件」の餌食となっていくのだ。かくして笛を吹き人々を踊らせた人間が最後はその笛で喉を詰まらせる。皮肉な物語を鮮やかにまとめあげたワイルダーの隠れた佳作。(レンタルDVD)

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THE BIG CARNIVAL
ACE IN THE HOLE
アメリカ、1951年、上映時間 112分
製作・監督・脚本: ビリー・ワイルダー、音楽: ヒューゴ・フリードホーファー
出演: カーク・ダグラス、リチャード・ベネディクト、ジャン・スターリング、ボブ・アーサー、ポーター・ホール