ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

潜水服は蝶の夢を見る

2008年03月16日 | 映画レビュー
 42歳という働き盛りに脳梗塞で倒れ、左目以外はどこも動かせなくなってしまった”ELLE”編集長の自伝の映画化。唯一動かすことのできる瞼によって瞬きだけで本を書いたという驚異的な話。20万回の瞬きを書き留めた筆記者の忍耐力には感動する。アルファベット表を読み上げてもらって、自分が表示したい文字のところで瞬きをするという信じられないぐらいじれったい方法で書き上げた本の文章も、素晴らしく思索に満ちて詩的な響きを持つ。人間の能力の限界のなさに感動すると同時に、驚異的映像の力によって、どうしようもない肉体への苛立ちをも観客は主人公と共に味わう。指一本動かせなくてもなくならないエロス的身体のざわめきを、自由への渇望を、わたしたちは主人公ジャン=ドミニク・ボビーと共にする。


 映画はいきなり、身動きできないジャン=ドミニク愛称ジャン=ドゥの視点で始まる。巻頭十数分は主人公の主観カメラによって、彼の身に何が起こっているのかをジャンと共に知るのだ。どうやら発作で倒れたらしい。目の前に見える人々は白衣の医療関係者たち。自分の声は発しているはずなのに周囲の人間には聴き取ることができない。おまけに彼らは患者本人の意志など無視して治療に当たる。ジャンはまったく身体が動かせない、まるで重い潜水服に包まれているかのような「ロックト・イン・シンドローム」に罹ったわけだが、意識も記憶もしっかりしているだけに、苛立ちは大きい。そんな彼の主観カメラで2時間重苦しい場面を見続けさせられるのかも、と危惧し始めた頃、画面は突然踊り飛ぶ。ジャンは自分の世話を焼いてくれる美しき治療者達を相手に妄想にふける。それはえもいわれぬほど美味しい牡蠣を思う存分彼女と食べて唇を重ねること。そう、どんな姿になっても人は食欲と性欲は忘れない。これこそ生命力の根源なのだ。

 この映画は身動きできないジャンの姿を写し、彼の視点で周囲を見、なおかつ時として自由にジャンの追憶や妄想に身を委ねる。自在なカメラの動きによって、わたしたちはいっそう、思うようにならないジャンの不自由な身体へと想像力を馳せ、彼の苛立ちと焦りと絶望とそれでも失わない希望を共にする。

 元気な頃は大勢の女たちと関係を持ち、自分の子どもたちの母親とは同居せず、好き勝手に暮らしていたドンファンだったのに、今やジャンは涎を垂らして片眼を剥く「醜い」存在だ。彼は瞬きで意思表示した、「死にたい」と。しかし自殺すらできないジャンは別のことを考えた。自分のことを本に書くのだ。

 ジャンには本を書くという知性と才能があった。このことが彼を生かし続けたのだ。それだけではない。彼は病になって初めて子どもたちやその母親の愛情にしみじみと接することになる。何人もの医療関係者が手厚く彼を介護し、リハビリさせる。こういうとき、ほんとうに人は人に助けられて生きているということを実感するものだろう。

 ジャンを世話するのは美しい女性たちばかりではない。男性の介護士もまた彼をプールに入れて、「気持ちいいですか?」と訊く。その場面はとても印象深い。静謐な力の溢れる不思議な場面だ。水着姿の中年男が二人、抱き合ってプールに浮かんでいる。一見、妙な感じを与えるのに、そこには優しい信頼感がある。

 ジャンの父親役がマックス・フォン・シドー! やっぱりこの人の演技は確かです、画面に登場するだけで観客のほうがかしこまってしまうような威厳がある。父親もまた老人ホーム(?)に入っていて、車椅子生活だ。ジャンと父親とのやりとりは切ない。

 身動きできないジャンの元に恋人から電話がかかってくる。その電話を受け取るのは別の女性だ。ドンファンはこんな姿になっても女を泣かせる。その場面もまた切ない。

 どんなときも希望を持って生きるということの意味、そして日々の何気ない生活の中で築いてきたものの大切さ、なくして始めてわかる数々の自由のありがたさ。この映画は多くの哲学をわたしたちに語ってくれる。




 潜水服の中でジャンは蝶の夢を見た。それはわたしたちもまた見る夢かもしれない。

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LE SCAPHANDRE ET LE PAPILLON
フランス/アメリカ、2007年、上映時間 112分
監督: ジュリアン・シュナーベル、製作: キャスリーン・ケネディ、ジョン・キリク、製作総指揮: ジム・レムリー、ピエール・グルンステイン、脚本: ロナルド・ハーウッド、撮影: ヤヌス・カミンスキー、音楽: ポール・カンテロン
出演: マチュー・アマルリック、エマニュエル・セニエ、マリ=ジョゼ・クローズ、アンヌ・コンシニ、パトリック・シェネ、マックス・フォン・シドー