ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

積読本の中に埋もれていた『反=理論のアクチュアリティ』

2005年08月20日 | 読書
 積読本を入れた引き出しをあけて「そろそろちょっと整理しようかな」と何気なく何冊か手に取ってパラパラと読んでみた。読み始めるとつい引き込まれるのだが、なにせ時間がないし、今同時に3冊の本を並行して読んでいるからこれ以上読書はできないのだ。

 その中の一冊に『反=理論のアクチュアリティ』があった。これは大学の同級生馬場靖雄くんが編者になっている本だ。そういえば読んでなかったわ。彼はルーマン研究者で、彼から寄贈された大部な『社会の芸術』もまったく手付かずだ(ごめんなさいごめんなさい)。

 して、その『反=理論』の目次を見ると、馬場さんの名前の次に、先ごろからなぜか話題の北田暁大氏の名前があるではないか。「へー」と思ったので、ついでだわ、と馬場・北田両氏の論文だけ読んでみることにした。あ、フーコー論があるから、園田氏のも読もう。

 馬場論文は社会学理論についての論考。メタ社会理論はものの言い方がおもしろい。しばしば社会システム論は理屈ばかりに走って実証との接点を忘れていると批判されるが、馬場さんはそれに応えてこう言う。

「この本の内容はどんな現実性をもっているのか」との疑問に対しては、「あなたがこうしてこの本を読んでいること自体が、われわれの発話が現実に存在し、現実性をもっていることの証である」と答えておこう。(まえがきより)

 そして、馬場論文の結語は次のように語られる。この結論はなんだかおもしろいというか、よく「わかった」んだけど、そこに至るまでのゲーデル的脱構築だの否定神学だのという哲学概念の操作がけっこう長い。

+++++++++以下、p32より引用++++++++

 かくして社会学理論は失敗することによって、すなわち社会に関する普遍的な言説として流通・浸透し損なうことを通して、自分自身に抵抗しつつ自己を貫徹する。社会学理論が現代社会に対して「批判的」な機能を担うのは、この点においてである。つまり社会学理論は、コンスタティヴな内容においてではなくパフォーマティヴな効果において、現代社会が単一のパースペクティヴからは把握されえないことを、また特定の「価値」「規範」によっては統一されえない分裂した存在であることを、示すわけだ。したがって、もはや理論の内容に準拠して批判的な理論とそうでない理論とを弁別することはできない。社会学理論はその位置価(Stellenwert)そのものによって「批判的」たらざるえをえないのである。
 ただし正義の場合と同様に社会学理論も、失敗を目的としてはならない。あくまで普遍的に語ることをめざしつつ、結果として失敗しなければならないのである(もちろん、こう述べること自体を含めて)。したがって、二重の目隠しが必要になる。ルーマンがよく用いる言い回しをパラフレーズするなら、社会学理論は見てはならないということを見てはならないのである。

++++++以上、引用ここまで+++++++++

 馬場さんはmixiに参加されていて、つい先日友達リストへの招待が来た。「馬場靖雄」っていうコミュニティもあるんだ、初めて知ってしまった。

 この論文を読んで東浩紀『存在論的、郵便的』のことが少し理解できたのが収穫。それにしても理論社会学って難しいね。こんなの毎日やってたら眉間に皺が固まって日本海溝みたいになっちゃうよ(^^;)。


 さて、次は北田暁大論文「政治と/の哲学、そして正義」。これはアメリカのプラグマティストでありリベラリストであるリチャード・ローティに関する論文だ。そういえば北田さんは『嗤う日本の「ナショナリズム」』でも最後にローティを取り上げていたな。宮台真司がローティを持ち上げることに批判的な目を向けていた。

 北田さんのローティ批判は一言でいえば、「ローティは自国文化第一主義者であり、彼がいうところの「文化左翼」にほとんど言いがかりのような批判を加えている」というもの。

 ローティがいうところの「文化左翼」とは「カルチュラル・スタディーズ、フェミニズム、ポストコロニアリズム」を指すらしい。そういえば、ミヤダイが嫌いなのもこの三つだ。

 ローティは、文化左翼どもが哲学の世界で形而上学の理屈をこねていればいいものを、政治に口出しし、しかも哲学が政治より上等なものであるかのように言いふらすことが気に入らないらしい。

 けれど、北田さんに言わせると、ローティが指し示すところの「文化左翼」なるものがそもそも的はずれであり、文化左翼を批判する基盤たる彼自身の哲学=プラグマティズムもまた《思想なき思想》に他ならないのに、自分のプラグマティズムについてはその危険を顧みることはしない。

 「本質はない、というのが本質だ」と語る「文化左翼」は本質主義に陥っている、というローティの批判じたいは正しい。というか、傾聴に値するだろう。ローティがやり玉にあげる反本質主義者は、サルトル、ド・マン、デリダ、ラクラウ=ムフ、ラカン、リオタールなど。

 ローティは自分が信仰するラディカル・プラグマティズムだけは「反本質主義の罠」に落ちていないという根拠のない確信を抱いているらしい。それはつまり、アメリカ式立憲民主主義が最も素晴らしいとする根拠のない信仰と同じだ。


 さて、三つ目の論文「行為としてのフーコー」(園田浩之)について。
 「フーコー主義社会学」なる言葉あるとは知らなかった。言説分析である社会構築主義のことは以前本を読んだから知っているけど、そのときに「フーコー主義社会学」なんて書いてあったかしらん?

 なになに、ラカン派からのフーコー批判とそれへの反批判? ふーむ、「郵便的」ねぇ、また出てくる、「否定神学」。とまあ、ちょっとそそられる内容ではあるのだが、時間がない。これはかなり理屈っぽい話で、わたしが読みたいと思っているフーコーとは違うみたいなので、今回はとりあえずパス。すんません、また今度。

 ※本書の収録論文を挙げておく。

◆二つの批判、二つの「社会」 馬場 靖雄著
◆政治と・の哲学、そして正義 北田 暁大著
◆規範のユークリッド幾何学 竹中 均著
◆社会的世界の内部観測と精神疾患 花野 裕康著
◆行為としてのフーコー 園田 浩之著
◆社会における「理解可能性」と「理解不可能性」との循環 表 弘一郎著


 近いうちに積読本のリストを作ってみよう。いっとき100冊を超えていたのだが、ちょっと減ってきたし、これからは積読本は50冊以内に抑えるように心がける。とゆーか、皆無にしたいもんやわ。最近はとんと本を買わなくなって、ほとんど図書館で借りるようにしているんだけど、それでもジワジワ増える。ときどき在庫一掃やって、古本屋に売り飛ばしたり捨てたりうちの図書館に寄付したりしているんだけど。やれやれ。

<書誌情報>
 
 反=理論のアクチュアリティー / 馬場靖雄編. -- ナカニシヤ出版, 2001