河岸忘日抄
堀江 敏幸著
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「いつまでもこの本と向き合っていたい」と思わせる馥郁たる香りの漂う小説だ。それは、贅を尽くした重厚で落ち着いた調度が安らぎを与えてくれるホテルのラウンジで、軽い酔いにうっとりしながら「いつまでも語り合っていたい」と思わせる心許せる人と飲む、そのような贅沢な時間と同じ。
ストーリーなどはない、エッセイのような小説。登場する人物たちはたった数人だけれど、とてつもなく魅力的だ。
フランスはセーヌ河上流に繋留された船に住む日本人青年が高等遊民の生活を続けていく様子が三人称で語られる。彼の思考のたゆたう先を読者もともに味わう作品だ。声高でない「イラク戦争」への批判が底を流れる。
主人公の「彼」はほんの目の前にある対岸に渡ることを潔しとしない。すぐ近くなのに彼にとって対岸は遠い岸辺だ。それは「彼」と他者との距離でもある。
もう一人の重要人物は、「彼」にその船を貸している年老いた大家。偶然の道行きから主人公が異国で知り合った実業家だ。大家は病院に入院したまま、死の日を待っている。まもなく死ぬというのに異様にエネルギッシュで口の減らないこの病人は、まるで映画「みなさん、さようなら」の主人公みたいだ。大家の口にのぼる処世訓は、一代で財を成した事業家の豪快さやウィットがけれん味なく発揮されて小気味よい。
もう一人の客人は、西アフリカ出身の郵便配達人。いつのまにかすっかり知己となった郵便配達人は「彼」の数少ない友人の一人だ。いつもゆっくりとコーヒーを飲んで行く。郵便とはすなわち外界とのコンタクト。「外」を「彼」に運んでくる人が西アフリカ出身の長い足の持ち主というのも素敵だ。
そして最後に主人公「彼」の友人、枕木という男。枕木が日本からフランスの動かない船宛にファクスをたびたび送ってくる。メールでやりとりすればいいものを、彼らはファクス通信で繋がっているのだ。その枕木さんからのファクスがまた会社勤め人間のやるせなさを感じさせてどこか切ない。
本書にはさまざまな古い本——ミステリーであったり寓話であったり——がふんだんに引用されていて、それがまた興味をそそる。引用される物語じたいがおもしろいと同時に、何度も「彼」のなかで反芻されてこの小説の大きなモチーフの一織をなす。
異国に暮らす孤独な「ためらいの人」の主人公は作家が生んだ、現代社会へのアンチテーゼだ。このような知性のありかたを好ましく思ういっぽう、その「踏み出せない」彼岸への一歩を「彼」はどのように運ぶのだろう、と不安を感じもする。何の起伏もなく淡々と綴られるかのような小説だけれど、きちんと起承転結、いや、起と結はある。
その「結」に一風の爽やかさを感じるのはわたしだけではあるまい。
とぎれのない上品で知的な文体は全編アフォリズムにあふれていて、どこからでも引用可能なほど、深い人間洞察に満ちている。
作家とともにゆったりとした思考の時間を分かち合いたいなら、この小説はお奨め。ぜひ熱い珈琲を飲みながらどうぞ。クレープも添えて。
堀江 敏幸著
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「いつまでもこの本と向き合っていたい」と思わせる馥郁たる香りの漂う小説だ。それは、贅を尽くした重厚で落ち着いた調度が安らぎを与えてくれるホテルのラウンジで、軽い酔いにうっとりしながら「いつまでも語り合っていたい」と思わせる心許せる人と飲む、そのような贅沢な時間と同じ。
ストーリーなどはない、エッセイのような小説。登場する人物たちはたった数人だけれど、とてつもなく魅力的だ。
フランスはセーヌ河上流に繋留された船に住む日本人青年が高等遊民の生活を続けていく様子が三人称で語られる。彼の思考のたゆたう先を読者もともに味わう作品だ。声高でない「イラク戦争」への批判が底を流れる。
主人公の「彼」はほんの目の前にある対岸に渡ることを潔しとしない。すぐ近くなのに彼にとって対岸は遠い岸辺だ。それは「彼」と他者との距離でもある。
もう一人の重要人物は、「彼」にその船を貸している年老いた大家。偶然の道行きから主人公が異国で知り合った実業家だ。大家は病院に入院したまま、死の日を待っている。まもなく死ぬというのに異様にエネルギッシュで口の減らないこの病人は、まるで映画「みなさん、さようなら」の主人公みたいだ。大家の口にのぼる処世訓は、一代で財を成した事業家の豪快さやウィットがけれん味なく発揮されて小気味よい。
もう一人の客人は、西アフリカ出身の郵便配達人。いつのまにかすっかり知己となった郵便配達人は「彼」の数少ない友人の一人だ。いつもゆっくりとコーヒーを飲んで行く。郵便とはすなわち外界とのコンタクト。「外」を「彼」に運んでくる人が西アフリカ出身の長い足の持ち主というのも素敵だ。
そして最後に主人公「彼」の友人、枕木という男。枕木が日本からフランスの動かない船宛にファクスをたびたび送ってくる。メールでやりとりすればいいものを、彼らはファクス通信で繋がっているのだ。その枕木さんからのファクスがまた会社勤め人間のやるせなさを感じさせてどこか切ない。
本書にはさまざまな古い本——ミステリーであったり寓話であったり——がふんだんに引用されていて、それがまた興味をそそる。引用される物語じたいがおもしろいと同時に、何度も「彼」のなかで反芻されてこの小説の大きなモチーフの一織をなす。
異国に暮らす孤独な「ためらいの人」の主人公は作家が生んだ、現代社会へのアンチテーゼだ。このような知性のありかたを好ましく思ういっぽう、その「踏み出せない」彼岸への一歩を「彼」はどのように運ぶのだろう、と不安を感じもする。何の起伏もなく淡々と綴られるかのような小説だけれど、きちんと起承転結、いや、起と結はある。
その「結」に一風の爽やかさを感じるのはわたしだけではあるまい。
とぎれのない上品で知的な文体は全編アフォリズムにあふれていて、どこからでも引用可能なほど、深い人間洞察に満ちている。
作家とともにゆったりとした思考の時間を分かち合いたいなら、この小説はお奨め。ぜひ熱い珈琲を飲みながらどうぞ。クレープも添えて。