ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

『ホモ・サケル』とは聖なる人間 : 読書メモ(1)序章と第1部

2005年08月14日 | 読書
 ギリシャ人の2つの「生」

 ひとつは「ゾーエー」zoe ……人にも動物にも共通の「単に生きている」という事実を指す。
 ひとつは「ヴィオス」vios ……個体や集団に特有の生きる形式、生き方を指す。

 「人は善く生きるために存在する」(アリストテレス)

 アリストテレスは人間を政治的な生き物と定義している。

 フーコーは『知への意志』(『性の歴史』第1巻)の中で次のように述べている。

「人間は数千年のあいだ、アリストテレスにとっての人間のままだった。つまり、生ける動物に政治的な実存の能力を加えたもの、である。近代の人間はというと、政治において、生ける存在としての自分の生が問いただされる動物なのである」

 アガンベンは序章において、自らがフーコーの後継者であることを宣言する。フーコーが『監獄の誕生』においてふれなかった、あるいはふれることができなかったのは「収容所」の問題である。

 本書の狙いは三つ。(監訳者あとがきより)
1.主権権力はもともと例外状態を維持しようとするものだということ
2.例外とされ排除される聖なるもの(ホモ・サケル)は宗教にではなく政治にかかわるものだということ
3.政治の領域が拡大されるにつれてその例外はいたるところに姿を現すようになるということ

第1部「主権の論理」
 カール・シュミット『政治神学』(原著1922年、日本語訳1971年未来社)からの引用が続く。

「主権者は、法的秩序の外と内に同時にある」

 「一般」を説明するためには「例外」を説明するのがよい。例外は実定法を超越する一つの要素である。

 例外化とは一種の排除である。

 ノモスとピュシス

 ノモスの定義がよくわからない。
 ノモスとは「世俗的秩序」とか「法・習慣」と訳されるようだ。アガンベンはしかし、そこにもっと多義的な意味をもたせている。

 ピュシスは「自然で本性的な秩序」とか「聖なる秩序」と訳されるケースがある(ネットでの検索の結果)が、やはりアガンベンはプラトンその他を引用しつつ、この語に多くの意味を含ませている。
 
 プラトンの関心はピュシスとノモスの対立ではなかった。

 主権者とは、暴力と法権利のあいだが不分明になる点であり、暴力が法権利へ、法権利が暴力へと移行する境界線だ(p50)

 アガンベンは「逆接」を強調する。それは意図と結果の乖離という言葉を思い出すように、社会学の出発点たるヴェーバーの視点と同じだ。
 

 4.1 
 
 アガンベンはカフカの説話「法の前」を引用する。法の門は開かれているのに、農民はそこへ入ることができない、という例のあれだ。大澤真幸さんが『文明の内なる衝突』で引用していた(たぶん。『自由を考える』だったかな?)。

+++++以下、p76より引用++++++

 カフカの説話は法の純粋な形式を露出していると言える。その形式をとることで法は、もはや何も命ずることがないということで――すなわち純粋な締め出しとして――最大の力で自らを肯定する。農夫は法の潜精力へと引き渡されるが、それは法が、農夫からは何も求めず、法自体が開かれてあるべしということ以外の何も厳命してはいないからだ。主権的例外化の図式にしたがえば、法は農夫に対し、自らを適用から外すことで自らを適用し、法の外に農夫を遺棄することで、彼を法からの締め出しの内に保つ、と言える。開かれた門は農夫だけに向けられたものだが、この門は農夫を排除することで包含し、包含することで排除する。これこそがあらゆる法の最高の頂点であり、第一の根源である。『審判』で司祭が法廷の本質を「法廷はおまえからは何も欲していない。法廷はおまえが来るときは迎え入れ、おまえが立ち去るときには行くにまかせる」と要約するとき、彼が言い表しているのは、ノモスの本来の構造である。

++++++++引用ここまで++++++++

 アガンベンの「法の門」解釈はおもしろい。農民は法の門からついに閉め出されるのだが、それはひょっとしたら彼の複雑な戦略ではなかろうかというのだ。つまり、結果的に法の門は閉まってしまうわけで、門の効力を断ち切る結果をもたらしたのだと考えられるではないか。門は彼のためだけに開いていた。そして農夫は門前でのたれ死ぬことによって門を永久に閉めさせた。彼は法の力から自由になったのだ。
 「あまりに開けているがゆえに入ることを許さない門に適した唯一の戦略である」(p86)。

 国家の終わりと歴史の終わりとを、一方を他方に抗して動員することで同時に思考できる思考だけが、今日、思考の務めにふさわしいものだろう。(p92)

 第1部章末「境界線」という節で、アガンベンはベンヤミンの『暴力批判』に言及する。

 法権利と暴力の結びつきを保持するもの、それが「剥き出しの生」である(@ベンヤミン)。

 ここまできてやっとアガンベンは本書の主題らしきことを言う。もう100頁近いよ(T_T)。

+++++++以下、p99-100より引用++++++

 生の聖なる性格という原則は我々にはまったく馴染みのものとなっており、我々は次のことを忘れてしまっているようだ。すなわち、我々が倫理的-政治的概念の大部分を負っている古代ギリシャにはこの原則は知られていなかったばかりか、我々が「生」というただ一つの語で差し示している意味上の圏域を、その複雑さをもたせたままで表現する語も古代ギリシャにはなかった、ということである。ゾーエーとビオスの対立、生きることと善く生きることの対立(つまり、生一般と、人間特有の生の様式との対立)は、たしかに西洋の政治の起源にとっては決定的である。

 ………
 人間の生はいつどのようにして、最初に、それ自体聖なるものと見なされるようになったのか? …… 主権において例外かされ補われているのは何なのか? 主権的締め出しの保持者とは誰なのか? ベンヤミンもシュミットも、やりかたは互いに異なるが、生(ベンヤミンのいう「剥き出しの生」、シュミットのいう「反復するうちに錆びついてしまった機構の外皮を破る…実効的な生」)を、例外において主権と最も密接な関係をもつ要素として指し示している。この関係をこそ、いまや明らかにしなければならない。

++++++以上、引用++++++++

 はぁぁ~、やっと本論です。疲れたので続きはまた今度。次はいよいよ第2部「ホモ・サケル」。ここまで読むのにどんだけ苦労したか(大汗)。


◆目次◆

第1部 主権の論理
 1.主権の逆説
 2.主権者たるノモス
 3.潜勢力と法権利
 4.法の形式
 境界線


<書誌情報>
 ホモ・サケル : 主権権力と剥き出しの生
  ジョルジョ・アガンベン著 ; 高桑和巳訳. -- 以文社, 2003