気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その22 大井川第一橋梁へ

2024年04月15日 | ゆるキャン△

 川根温泉ホテルでの朝食の後、屋上の展望所に登ってみました。館内のエレベーターは4階止まりなので、その上の屋上へは階段で上がりました。御覧のようにベンチと縁台っぽい台状の壇がありました。

 

 展望所は、位置的に私が泊まった部屋の真上にありましたから、景色の見え方があまり変わらない気がしました。高さが約5メートルほどあがっただけですから、大井川や赤い鉄橋の眺めも大して変わりませんでした。

 

 川根温泉ホテルにはチェックアウト時刻の11時までゆっくり滞在し、11時37分頃に普通列車が上図の鉄橋を渡るので、その姿を撮影して楽しむ予定でした。

 

 なので、9時半頃に再度浴場に行って、まったりと温泉に浸かって温まりました。その後はずっと部屋で過ごして、上図の大井川の景色をぼんやりと眺めたりしました。旅行の時はいつも過密なスケジュールで忙しく動き回るのが普通なので、こうしてのんびりとプチ滞在を楽しむのも、たまには良いものだ、と思いました。

 10時半頃に、さきほど会った岡山の読者の方からメールがあり、「お先に出発します。どうも有難うございました」とありました。これから山梨県方面の聖地巡礼に行くのだそうでした。お礼のメールに「お気を付けて楽しんで下さい」と書き添えて送りました。

 

 こちらも予定通りに11時にチェックアウトし、とりあえず隣の道の駅へ移動しました。途中で昨日立ち寄った上図の川根温泉カフェenの建物を見ました。

 

 大井川の堤防上の散策路に出ました。

 

 散策路付近から、出てきたばかりの川根温泉ホテルの建物を振り返りました。

 

 もう少し距離をとったほうが良いかな、と川原べり石敷きの脇を少し歩きました。

 

 とりあえず、川根温泉ホテルをバックに記念の自撮り。

 

 その位置で180度回って、今度は大井川鐡道の鉄橋を背景にして自撮り。なぜか笑ってしまうのでした。

 

 道の駅の裏道にあがって南へ進みました。11時過ぎなのに誰も居ませんでした。川根温泉ホテルに泊まっていた大勢の団体客はこちらには来なかったようで、道の駅の周辺にも人影を見ませんでした。おそらく朝早くにバスでどこかへ移動していったのでしょう。

 

 道の駅の駐車場から見えた、一本だけ目立った綺麗な黄色のイチョウの木。いずれ作る予定のNゲージジオラマの季節設定が秋なので、こういうイチョウの景色もアリかと思って撮っておきました。

 

 時計をみると、いつの間にか11時32分になっていました。もう5分もすれば、この日の最初の普通列車が鉄橋を渡る、急いで鉄橋の銘記を撮っておこう、と考えて堤防の下へ急いで降りて鉄橋のたもとへ近寄りました。

 

 鉄橋の北端の銘記を撮りました。御覧のように「第13号大井川第一橋梁」とあります。それがこの鉄橋の正式名称でした。第13号、というのはおそらく金谷駅からの本線上にある橋梁でこれが13番目にあたることを表すのかな、と考えたりしました。

 同時に、大井川第一橋梁の名前も、ちょっと不思議な気がしました。金谷から川根温泉笹間渡までに大井川を何度か渡っていますから、この鉄橋が第一となっているのは別の理由によるものだろうな、と考えたりしました。  (続く)  

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その21 川根温泉ホテルの朝食

2024年04月14日 | ゆるキャン△

 翌朝は6時45分に起床しました。そのまま浴場へ行って朝風呂をゆったりと楽しみ、部屋に戻って休みながら上図の景色を眺めました。

 

 この日の予定は、川根温泉笹間渡駅で12時42分発のEL急行かわね路号に乗り、その後は金谷から静岡へ移動してゆるキャン展を見て、藤枝に戻るコースでした。宿は藤枝のいつもの東横インに予約していました。

 それで午前中は余裕があったので、川根温泉ホテルにはチェックアウト時間の11時までゆったりと滞在しました。

 

 なので、朝食の時間も遅い方の8時30分を指定して入りました。早いほうは7時だったそうですが、御覧のように食堂はそれほど混んでいませんでした。7時台の大混雑のピークが過ぎた後のようでした。

 

 テーブルにあった朝食バイキングフロアマップです。レイアウトは夕食時と変わりませんが料理が完全に入れ替わっていました。

 

 温製コーナーの料理群。いずれも少なくなっていたので、少し待っていたら補充されてきました。

 

 御飯にお粥もありますね。

 

 ソーセージが美味そうでした。食べてみたら、大垣千明の「ぶっちゃけすげえマズい」手製ソーセージとは違いました。

 

 豊富に補充された直後の温製コーナー。よし選んで取って回るか、と皿を取りに行きました。

 

 サラダのコーナー。毎日、野菜は必ず食べます。昔から野菜はけっこう食べるほうなので、2020年11月に結婚した嫁さんも野菜に関しては何も言いません。それよりも「小麦関連はなるべく控えて下さいね」と何度も言います。管理栄養士の視点からみて、私の昔からの花粉症や体調不良の原因が小麦だろう、と言うのです。

 お蔭で、去年も今年も、花粉症のシーズンには以前は酷かった鼻水やクシャミがたまにしかありませんでした。驚くほどの喜ばしい変化でした。

 嫁さんによれば、花粉症はイネ科の食物、特に小麦が症状を悪化させる傾向が強いそうです。花粉の季節にパンやうどん、フライなどを食べると強いアレルギー症状を起こすケースが多いそうです。

 私は昔からパスタやラーメンが好きなのですが、花粉症のシーズンとその前後の時期、1月から4月ぐらいまでの四ヶ月ほどは完全に絶っています。パンやフライ、小麦原料の料理やお菓子も避けています。その効果はてきめんでした。

 

 なので、野菜はレタスやキャベツや玉葱スライスなどを二回食べました。

 

 惣菜コーナーです。夕食時には食べる余裕が無くて一切手をつけませんでしたので、朝食時には最初にとりました。

 

 で、1回目の料理をまたも撮り忘れましたので、上図は2回目にとってきた分です。私の普段の朝食の量の3倍ぐらいは食べましたので、嫁さんが知ったら爆破されるに決まっています。

 

 かくして川根温泉ホテルの美味しい朝食を堪能しました。次は嫁さんも一緒にここへ泊る予定になりましたので、楽しみです。

 

 うん、2年連続ランキング一位は当然ですな・・・!

 

 朝食後は売店で買い物をし、ロビーなどでまったりと過ごしました。昨日会った拙ブログの常連読者の方ともまた会って、二階の座敷ルームで少し話したりしました。

 彼女は岡山県倉敷市在住の30代の方で、拙ブログを10年ぐらい前から読んで下さってコメントも下さっています。オフ会などで三度ほど会っています。もとはガルパンのファンでしたが、去年からゆるキャンにハマり出し、昨日は大井川鐵道に初めて乗り、井川線にも乗ったが時間と便が無くて井川までは行けなかったとの事でした。

 話の流れで、拙ブログへの感想、見解を伺ったところ、「ガルパン、ゆるキャンの聖地巡礼記録が豊富、経験則で毎日書かれるので、女性でも安心して新聞感覚で読める。旅レポとしても面白く、女性の読者もかなり居るのでは?」と言われました。
 確かに拙ブログは女性読者は多いらしいです。嫁さんもそうだったし、モケジョさん達もそうですので。

 さらに拙ブログへの要望、修正点などを伺ったところ「京都関係の記事をもっと欲しい」「他のブログとの統合は出来ないか」「今読めなくなっている過去記事の再掲載は出来ないか」と言われました。どれもこれも、頭がいたくなりそうな課題でした。

 さらに、大井川鐡道のゆるキャン聖地情報のまとめというか集約版が欲しい、との要望もいただきました。実はこの要望を受けたのが、「「ゆるキャン△」聖地巡礼 大井川鐡道エリア編 覚え書き 2024年1月版」を書いた契機でした。この記事は公開直後から凄い勢いでアクセス数を伸ばし、アニメ3期の放送開始日の4月4日にはカウントがなんと58万余りに達し、現時点での拙ブログの最高の人気記事になっています。ゆるキャン人気のすさまじさ、地元島田市や川根本町の情報発信の無さ、がよく分かります。

 修正点は、特に思い当たらない、との事でした。修正どころか、文章が上手で読みごたえがあるので楽しく読んでますよ、とお褒めの言葉をいただきました。

 その後は模型の話題になりました。相手は模型は全然やったことが無いそうで、「星野さんのガルパンプラモデル記事はいつも読んでますけど、ああいう模型趣味ってどんなものですかね、私にも出来るんでしょうか」と訊いてきました。

 それで、当方が模型を始めた経緯、今まで続いている理由を簡単に話しました。付帯事情として、昔はストレス発散、今は認知症防止の為、と言い添えたら、大笑いしていました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伏見城の面影6 二尊院総門

2024年04月13日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 二尊院総門の続きです。門脇の立札によれば、慶長十九年(1614)に伏見城の薬医門を角倉了以が貰い受けて寄進移築したものとなっていますが、別の資料では慶長十八年(1613)の事となっています。
 つまりは一年の差がありますが、当時の状況を考え合わせると、おそらく慶長十八年は貰い受けた年、慶長十九年のほうは現地に移築した年ではないかと推測されます。

 

 建物は、いまは京都市指定有形文化財に指定されていますが、伏見城の門だったのであれば歴史的にも重要な建物ですから、国重要文化財になっていてもおかしくない、と思います。そのことはU氏も指摘していましたが、同時に「豊臣期の豪華な門に比べりゃ、こっちは地味で質素だからな、国重要文化財まではいかないかもしれんな」と話していました。

 

 確かに上図の妻飾(つまかざり)の懸魚(げぎょ)以外には全く装飾意匠が見当たりません。棟を支える両側の蟇股(かえるまた)も大きな一枚板であるのみでした。

 

 脇の潜戸(くぐりと)も御覧のように実用本位の造りで、飾りの類は一切みられません。部材も細くて、戦国期の門のような防御性の高い太い木が使われていませんでした。そういう点にも、江戸幕府開創期の平和な気分が伺えます。

 

 天井は御覧の通り、屋根裏まで見えました。屋根の垂木も間隔を開けた疎垂木(まばらだるき)のタイプです。

 

 とにかく質素ですが、必要最低限の構造、堅牢さは備えています。実用本位の門としてはこの程度が普通だったのかもしれませんが、同時に、この程度の構えであれば、城郭以外の寺院や屋敷などの門としても通用したのだろうな、と思います。

 

 門の左の柱には「九頭龍辨財天」の札が掛けられていました。本堂の隣に弁財天の化身である九頭龍大神・宇賀神を祀るお堂があるので、そこへの参詣客も多かった歴史が示されています。

 U氏が「そういやあ、弁財天っての、京都には結構多いよな」と私を振り返って言いました。確かに京都では色んな寺に弁財天が祀られていて、観光名所になっている所も少なくありません。
 思いつくだけでも、近くの天龍寺の慈済院の水摺福寿大弁財天、それから六波羅蜜寺の福寿弁財天、戒光寺の融通弁財天、伏見長建寺の八臂弁財天、本圀寺の九頭龍銭洗弁財天、出町妙音堂の青龍妙音弁財天などが挙げられます。

 

 とりあえず、二尊院総門の見学を終えました。本物の徳川期再建伏見城の城門の遺構ということで、充分に見応えはありました。

 

 この門は、近くでみるよりも、このように少し離れて見るほうが良い感じです。地味で質素とは言え、当時の城郭内の一級格の門でしたから、外観が重厚で力強く感じられるのも当然です。

 

 近くの上図の中国料理レストランの前でU氏が「おい、もう14時前になるぞ、夕食はまたどこかで食うとして、ちょっとここで軽くラーメンでも食べようか」と言いました。朝からずっと歩き回って見学してまわってばかりでしたから、私も異存はありませんでした。

 

 それで、上図のハーフサイズのラーメンをいただきました。ラーメンというより薄味の中華ソバという味わいでした。

 

 その後、もと来た道を引き返して嵐電で大宮まで行き、市バスで四条河原町へ移動して改めて夕食を共にし、祇園四条のU氏の宿の前にて解散しました。

 握手の際に、「ではまた明日。明日の一ヶ所がいちばん重要だからな、楽しみだな」と笑っていたU氏でした。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く38 その9  志摩リンが移動したルートは?

2024年04月12日 | ゆるキャン△

 高ボッチ高原の電波中継塔を見上げつつ、管理棟でもらってきた高ボッチ高原マップを開いて、志摩リンが移動したルートを探しました。

 劇中にて、志摩リンが高ボッチ高原に到着して最初にビーノを停めたのが電波中継塔の下でした。その後、寒いからと温泉を目指して北の崖ノ湯ルートを麓まで降り、「おいまじか」となって再び高原に戻り、第2駐車場の展望所に行き、それから高ボッチ山の山頂に登っています。それからキャンプ飯をどこで作ろうかとあちこち回り、電波中継塔の東を回って南側へ下り、牧場入口まで行き、引き返しています。

 つまり、志摩リンは広い高ボッチ高原を南北へ二度ほど往復する形でウロウロしていたわけです。原付ビーノに乗っていたから出来たことですが、こちらは徒歩なので、全く同じ道順でたどるのは時間的にも距離的にも無理でした。

 

 とりあえず、志摩リンが高ボッチ高原に着いてから景色を眺めていたであろう範囲を歩いてみました。劇中では二ヶ所が登場していますが、原作コミック第2巻12ページ、13ページの描写をみると、一ヶ所しかないような感じでした。劇中では横にビーノが停めてありましたが、作中の一ヶ所はビーノが描かれていないのです。

 

 とりあえず、電波中継塔の下からの園路を上図のように南へ進んでみました。緩やかな下り坂になっています。

 

 まもなく既視感を覚えて立ち止まりました。ああ、ここかな・・・。ここだ・・・。

 

 該当のシーンです。この場所はアニメでも原作コミックでも共通して登場します。

 

 同じ位置から、電波中継塔を振り返りました。70メートルぐらい離れていました。

 

 劇中では、志摩リンが、その後の南北への往復の途中で、この園路をビーノで南へ下るシーンがあります。上図のような、両側に柵が続く園路は、高ボッチ高原広しといえども、ここしかありません。

 

 それで、マップで確認しつつ、その園路を南へ歩きました。右手には高ボッチ牧場の広大な牧草地が広がり、南の谷間へと緩やかに下っていました。

 

 歩きながら西の景色を見ました。志摩リンいわく「のどかな所だな」「なんにもいない」「夏に来れば牛とかいるのかな」でしたが、まさにその通りでした。

 

 しばらく歩くと園路は林道に合流しました。その奥に高ボッチ牧場の入口の施設が見えてきました。原作コミック第2巻21ページ6コマ目のアングルに近い景色でした。
 この高ボッチ牧場の入口の施設が、志摩リンが高原上をウロウロしていた範囲の南限にあたるようでした。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒森峰女学園 パンターG型(3輌目) 作ります!! その2

2024年04月11日 | ガルパン模型制作記

 ステップ2では足回りなどを組み立てます。車輪類は塗装後に組み付ける予定です。
 ステップ3では背面部の各部品を組み立てます。B47は劇中車にありませんので不要です。なお背面部を車体に組み付けますが、上部車体との合わせが先になると考えますので、ここでは保留にしておきます。

 

 ステップ2で組み立てる車輪類などのパーツです。

 

 組み上がりました。

 

 車体に組み付けました。

 

 ステップ3で組み立てる車体背面部、マフラー、ジャッキ等のパーツです。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ4では前部機銃マウントや車体のハッチなどを組み立てます。前部機銃の銃身C55は次のステップ5で取り付けます。ハッチは開閉自在に出来るように内部の部品もありますが、今回の製作ではハッチ類は全て接着固定しますので、内部のパーツA14、A22、A23は不要となります。

 ステップ5では車体前面部の各パーツを取り付けます。組み立てガイドの印刷が重なっていて見にくいので、注意して見て手順を間違えないように心がけました。
 この時点で上下の車体パーツを合わせます。その後に前部機銃の銃身C55を取り付けて、水平にセットします。

 

 ステップ4で組み立てるパーツは、前部機銃マウントだけですが、それに先立って車体にガルパン仕様への変更作業を施します。

 

 車体側面左右の後端にある溶接痕が劇中車にはありませんので、そのモールドをパテで埋めました。

 

 左右とも同じ作業を行ない、最後にサンドペーパーでヤスって平滑に均しました。

 

 ここでステップ3にて保留にしていた背面部を組み付けます。

 

 組み付けました。

 

 前部の組み立て状況です。前部機銃の銃身C55をまだ取り付けていません。上下の車体パーツを貼り合わせて初めて車体の水平ラインが判明するので、それに合わせて銃身も水平にセットしようと考えたからです。

 

 そこで、上下の車体パーツを貼り合わせました。さすがはドラゴン製品、寸分の狂いもなくカチッと組み合わさりました。

 

 車体の水平ラインが判明したので、それに合わせて前部機銃の銃身C55を取り付けました。

 

 ステップ5で組み付けるパーツ類です。

 

 組み上がりました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その20 川根温泉ホテルの夕食

2024年04月10日 | ゆるキャン△

 この日の川根温泉ホテルは、平日にもかかわらず団体客が3組入っていたそうで、宿は完全に満室でした。

 そのためか、食堂に大勢が入って混雑するのを避ける意味で、食事の時間を18時からと19時半からのいずれかに指定する形がとられていて、チェックイン時に選択することになっていました。私はまず温泉にゆっくり入りたかったので、19時半を選んでいました。

 温泉にゆっくり浸かって疲れを癒した後、2階の座敷休憩室で少し休んでいると、「あれ?もしかして、星野さんと違います?」と後ろから声をかけられました。振り返ると、十数年前に倉敷で会った、拙ブログの常連読者の方でした。
 この方は、数日前からポストにて大井川鐡道に乗りに行って川根温泉ホテルに泊まる旨を呟いておられたのですが、同じ日だとは思わなかったのでお互いに驚きました。
 挨拶を交わして少し話した後、向こうは夕食を終えてこれから温泉入浴、こちらはもうすぐ夕食、ということでいったん別れました。

 部屋に戻って、しばらくベランダから上図の景色を眺めて過ごしました。20分ほどで夕食の指定時間になったので、エレベーターで一階に下りて食堂へ移動しました。

 

 食堂には19時35分に入りました。入った途端にバイキングコーナーの中央にある上図の大きな蒸気機関車の模型に驚いてしばらく釘付けになりました。D51形ですが、大井川鐡道で走っていた機関車ではないようです。

 

 バイキングコーナーは、係員の方に撮影許可をいただいて撮りました。D51形の模型の前に並んでいたのは茶そばと玉子雑炊とひつまぶし。

 

 グリーンサラダ、野菜は脇の大椀の分とあわせて10種類。

 

 海鮮丼。ネタは10種類。

 

 メインの温製コーナー。7種類のおかずが並びます。

 

 キッズコーナーとドリンクコーナーですが、ドリンクは空になっていて、後で補充分が並べられました。

 

 デザートのコーナー。

 

 茶そばの隣には、ピザやスープ。

 

 この日は玉子雑炊とひつまぶしを最初にいただきました。

 

 パンのコーナー。花粉症対策として小麦の摂取はやらないで、と嫁さんに厳命されていましたので、パンやフライなど、小麦が原料の食べ物には一切手を付けませんでした。上図左端のミルクブレッド食べたかったんだけどな。

 

 惣菜コーナー。ここも食べないままに終わってしまいました。色々あるので、全部の品をいただくのは土台無理なのです。

 

 この日の私の食べた分。最初にいただいた玉子雑炊とひつまぶしを撮り忘れたので、二回目にとった分です。

 

 海鮮丼は、ネタの補充が入ったのをみて、とりに行きました。ネタは7種類ですが、上図に写っているのはまぐろ、烏賊、サーモン、ネギトロ、玉子でした。あと、海老と穴子が烏賊の下に隠れていました。

 

 サラダは上図ではレタス、リーフ、南瓜、ミニトマト、オクラの5種が写っていますが、下にキャベツ、胡瓜、玉葱スライスが入っていました。

 

 温製コーナーからは、揚げ焼売、小海老米粉天ぷら、ポテト、小松菜とタラのソテー、芋クリーム煮をとりました。

 

 シメは茶そばと二回目の玉子雑炊でした。どの料理も丁寧に手間暇かけて作ってあるので、味からして全然違う、本当に旨いとしか言いようがないものでした。こんな美味しいホテルバイキングの食事は初めて食べた気がします。ランキングの食事の朝夕ランチの3部門で1位をとるわけだ、と納得しました。

 

 テーブルに備え付けてあった、バイキングフロアマップです。品名が無いのは、毎日入れ替わっているそうです。このマップは夕食の分で、別に朝食の分もありますが、品ぞろえが全然違っていました。ですが、バイキングコーナーのレイアウトは共通でしたので、料理が朝夕で入れ替わるわけです。

 ランチの時もランチ向けのメニューで組まれるそうですが、それはツアー客や大井川鐡道の観光プログラム客向けの立ち寄り昼食として提供されるのが殆どで、それで予約枠が埋まってしまうので、個人客はなかなか入れない、と訊きました。
 私のように一泊二日で滞在しても食事は夕食と朝食になりますから、ランチのほうは二泊以上でないと食べられないようです。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その19 川根温泉ホテルへ

2024年04月09日 | ゆるキャン△

 15時になりましたので、川根カフェenを辞して道をはさんで斜め向かいの上図の川根温泉ホテルへ向かいました。今回の旅の主目的のひとつがこの宿に泊まることでありましたから、とても楽しみにしていました。

 この川根温泉ホテルには、2023年1月の大井川鐡道ゆるキャンコラボキャンペーンの時に、コラボ特典の無料入浴サービス券を利用して初めて立ち寄りました。当時のレポートはこちら。川根温泉の源泉かけ流しは勿論、施設の印象が大変に良かったので、ぜひ一度は泊まりたい、ゆるキャン聖地巡礼の宿としても楽しめるだろう、と考えていました。

 

 玄関口に立てられている上図の案内板は、この種のホテルには珍しい、水彩タッチの手描きイラスト風でした。実際に手描きイラストだったのかは確かめませんでしたが、印刷イラストの素っ気なさとは対照的な、なにか温もりを感じさせるものが感じられました。

 御覧のように駐車場の位置を案内しています。玄関口の近くにも駐車場があるのですが、隣接する道の駅の駐車場に繋がっている感じで、そちらの利用客が停めていることが多く、また隣に路線バスのバス停もあるので、安全のためにホテルの南側の広い駐車場を案内しているわけです。

 

 チェックイン時の時刻は15時22分でした。上図はカウンター前の売店コーナーです。隣に道の駅があるため、現地の土産物や特産物系はそちらにまかせて、道の駅で扱っていない品々、川根温泉ホテル限定の品などを並べている、という感じでした。なかには家山や千頭のほうで販売されている商品もありました。

 

 手続きを済ませて部屋のカードキーを受け取り、カウンターの左へ進むと上図のように左にはエレベーターがあり、まっすぐ行くと食堂に入ります。右には一休み用の椅子が並べられてありましたが、その上の壁面を見てちょっとびっくりしました。

 

 温泉宿・ホテル総選挙2022の中部エリアランキング、ビュッフェ部門で第1位ですと・・・。噂には聞いていましたが・・・。

 

 ほほう、ファミリー部門でも第1位ですか・・・。家族旅行でも超人気の宿、というわけですか・・・、て言うか、大井川鐡道沿線のエリアでは他に似たようなホテルがありませんから、一人勝ち状態になっているわけですな。

 

 なに朝食自慢部門第1位とな・・・、誰やある、森蘭丸は居らぬか、蘭丸を呼べ!お濃、桶狭間に朝駆け致す故、朝餉じゃ!!  (お前は織田信長か)

 

 なに夕食自慢部門第1位とな・・・、これ日根野備中、日も傾いたし雨もよう降るの。ここらで早めの夕餉と致そうぞ。ここも駿河の内なれば、陣場定めは無用じゃ・・・。  (お前は今川義元か)  

 

 兵庫県より大井川鐡道に譲渡されたC56形135号機の紹介ポスターです。動態復元工事へのクラウドファンディング、微力ながらも出資させていただきました・・・。

 

 エレベーターで4階へあがりました。上図は館内通路で、向こうが南側です。4階からは階段で屋上展望所にあがりますので、4階が客室棟の最上階にあたります。

 

 部屋は403号室でした。1泊2食付きで12800円也。ベッドはダブルで広いです。気持ちよく寝られそうです。広めのソファーが置いてあるのがポイント高いです。

 

 綺麗で立派です。窓からベランダに出られるので、応接セットも壁際に寄せてあります。

 

 窓際よりドアの方向を見たところです。西日がドアまで差し込んでいまして、そのせいかエアコンも付けていないのにポカポカしていました。秋や冬には良いでしょうけれど、夏場だとちょっと暑いかもしれませんね・・・。

 

 ベランダに出ると、御覧の通り、大井川の雄大な流れの景色を堪能できます。

 

 右手には大井川鐡道本線の大井川第一橋梁も見えました。SL急行かわね路号に乗ってあの鉄橋からこちらのホテルを見たわけです。窓からSL列車が見える宿、というのが川根温泉ホテルのウリだそうです。

 ですが、この日はもうSL急行かわね路号の運行は無く、夜になってから普通列車が鉄橋を渡ったようですが、その時刻には浴場の露天風呂にて源泉かけ流しのお湯を楽しんでいました。浸透圧が高いのか、スーッと体に湯が入っていって疲れが抜けてゆくのでした。さすがに静岡県ではトップクラスと謳われる川根温泉だけのことはあります。

 浴室の更衣室の案内文によれば、湯量も静岡県内でトップクラスで、全浴槽が源泉掛け流しであり、湧出量は毎分545リットルです。泉質は、約2万年前の地下水と古海水が混じり合ったナトリウム塩化物温泉で、きめ細かい湯により肌への浸透力も高く、保湿効果もあります。温まりやすく、湯から出た後に塩の微細な結晶が汗腺をふさぐため、湯冷めしにくいのも特徴であるそうです。

 ちなみに隣の道の駅「ふれあいの泉」の温泉も同じ湯を使用しており、ゆるキャン聖地巡礼の途中で立ち寄って温泉を楽しむ事が出来ます。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伏見城の面影5 二尊院へ

2024年04月08日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 常寂光寺を辞して、もと来た道を「歌仙洞の碑」の辻まで戻り、北へ折れてこの日の最後の目的地へ向かいました。途中で右手に上図の嵯峨天皇皇女 有智子内親王陵墓が見えてきました。

 

 U氏が「ちょっと見ていくか」と陵墓の前まで行って小さく一礼し、その東隣の落柿舎の門前まで行って道から中をのぞいていましたが、すぐに戻ってきました。寄らないのか、と尋ねたら「いや、落柿舎は前に行ってきたんだ、全然変わっていないね」と答えてきました。

 

 それで戻って目的地への道を北進しました。右手には小倉山墓地と呼ばれる古い墓地がありますが、上図のように樹木と草藪に包まれていて見えませんでした。

 その辺りには、かつて室町幕府管領の細川右京太夫持之が、永享元年(1429)に天龍寺の開山である夢窓国師の法孫にあたる玉岫禅師を開山に迎えて創建した弘源寺があったといいますが、いまは移転して天龍寺境内地内に塔頭として存在しています。さきに訪れた常寂光寺の境内地も、もとは弘源寺の寺域に含まれていたらしく、広大な寺院であったことがうかがえます。

 

 ほどなくして、最後の目的地である二尊院に着きました。U氏は夏にここに行ったそうで「どうする?中も見てゆくかね?」と訊いてきましたが、私が「この総門だけ見れれば充分」と答えたので、満足げに「だろうな、今日のテーマは伏見城からの移築建築の検証、だしな」と言いました。

 

 その通り、今日のテーマは伏見城からの移築建築の検証、でしたので、二尊院においては上図の総門を見学すれば事足りました。

 

 御覧のように、脇の立札には、「伏見桃山状 薬医門 1614年 角倉了以により移築」とあります。ここまで肯定的に書かれるのは、確たる証拠つまり古文献とかの移築記録などがあるからでしょうか。

 この二尊院は嵯峨の豪商であった角倉家の菩提寺でもありますから、もしかすると角倉家の古文書類のほうに移築の記録が残されているのかもしれません。いずれにせよ、他ではこの種の建物の移築を伝承としてつたえている場合が殆どなので、こちらの肯定的な記述は印象的ですらあります。

 

 つまり、この門は本物であって、もとは旧伏見城の薬医門であったわけです。問題は、この門が豊臣期の伏見城のそれなのか、徳川期再建の伏見城の建物か、という点に尽きますが、これについてもある程度の解答は既に得られているのだろうと推察します。

 

 解答の鍵は、立札にある「1614」という年です。慶長十九年にあたります。当時の伏見城は徳川家が慶長二年(1602)に再建しており、一国一城令の主旨に則って元和五年(1619)に廃城が決定するまで二条城とともに京都の徳川家の拠点として機能していました。

 ただ、城郭の整備とくに作事(さくじ・建物などの建設のこと)は、駿府城の改築が優先されたために慶長十一年(1606)頃には停止され、建物の一部は解体され、器材や屋敷も駿府城へ運ばれたといいます。そして徳川家康が駿府城へ移った後、慶長十二年(1607)より松平定勝(徳川家康の異父弟)が城代となっています。

 なので、二尊院に薬医門が移築された慶長十九年は、伏見城廃止の五年前にあたり、既に作事は慶長十一年(1606)頃に停止されています。建物の一部は解体され、器材や屋敷も駿府城へ運ばれたといいますから、城郭としての実質的な役割は終わりに近づきつつあったということでしょう。

 以上の経緯から考えて、徳川家康とも懇意にしていた角倉了以光好(すみのくらりょういみつよし)が門の建物を譲り受けたのは、おそらくは作事が停止された慶長十一年(1606)頃以降のタイミングと思われます。二尊院への寄進移築がその後になりますから、慶長十九年という年は時系列的にみても辻褄が合います。

 

 したがって、この門は徳川期再建伏見城の薬医門であったもの、となります。移築に際しての改造の痕跡が見当たらないので、建物自体はそのままの構えで現在に至っているようです。

 御覧の通り、立派に頑丈に造ってありますが、装飾が一切みられず、内向きの実用的な門であったことをうかがわせます。例えば大手門とか唐門というような、外に誇示する意図で豪華に飾る傾向がある門とは違う性格の門であった、と推測出来ます。

 

 内向きの実用的な門であったことは、上図の門扉のしつらえを見れば分かります。釘隠しの金具も一般的な丸型と方形のみで、蝶番の金具にも彫り込み意匠は一切見られません。城内の通用門であったか、解体されて駿府城へ運ばれた屋敷に関連する門であった可能性が考えられます。

 慶長十一年(1606)頃に伏見城の作事が停止されて後、建物の一部は解体されたといいますから、この門も含まれていた可能性があります。当時の寺院の門よりも立派で堅牢な一級の建物ですから、角倉了以が菩提寺の二尊院の玄関口に相応しいと考えて、徳川家より譲り受けたか、買い取ったのかもしれません。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く38 その8  志摩リンが見た高ボッチ高原の景色

2024年04月07日 | ゆるキャン△

 11時45分、ようやく高ボッチ高原の上空にも青空が広がり、陽光が一帯を照らし始めました。強い横風もなぜか止みました。次第にあたたかくなってきたので、志摩リンが回ったルート、志摩リンが見た景色を探しに行きました。

 

 とりあえず、劇中に見える園路をそのままたどって、南に見える中継塔を目指しました。管理棟のでいだらボッチ館で読んだ案内文によれば、上図左が長野県防災行政無線中継局、右がSBC高ボッチFM補完局のタワーであるそうです。

 

 劇中でも志摩リンが同じ園路を中継塔へと向かっています。原付ビーノを中継塔のそばのスペースに置いて、管理棟や山頂などを歩き回っていたようなので、上掲のシーンは管理棟からビーノへと戻る場面であるようです。

 

 歩くうちに、右にもう1基の中継塔が見えてきました。中部電力の無線中継塔があると聞きましたが、それでしょうか。

 

 周囲の地形が傾斜面に転じて、下の景色がよく見えるようになってきました。上図は西側の眺めです。中継塔が並んでいる場所が一つのピークになっていますが、高ボッチ山山頂よりは南に位置し、北を除く三方に地形が開けて見晴らしも良いです。電波の送受信にも適しているのでしょう。

 

 こちらは北側の景色です。一帯は牧場で放牧地となっているそうで、いまの季節は麓の牧場に移されているそうですが、春から夏にかけてはこちらに牛を戻して放牧するそうです。

 

 周囲の景色を眺めていて、西側の上図の木柵に既視感を覚えました。あれ、ここは・・・?

 

 ここだったのか、志摩リンがビーノを停めた横でもたれていた木柵は。アングルをやや南寄りにすれば、奥の景色もほぼ一致しました。

 

 同じ場所を、木柵の反対側から見ました。木柵が北で途切れていて人がやっと通れる程度の狭い通路があったため、牧草地に出られたのでした。電波中継塔が並ぶ場所の東側にあたります。

 

 劇中での同じ場所のシーンです。志摩リンは東山からのルートで登って高ボッチ高原に入り、最初にこの場所でビーノを停めています。それから北の管理棟へ歩いて行き、閉まっていたので引き返してきています。

 問題は、そのあと再びビーノに乗ってどういうルートをたどっているか、でした。劇中では、そのへんがいまいち分かりにくく、いったん南へ戻って牧場入口へ行き、そこから電波中継塔の東側へ回っています。そのあと第2駐車場の展望所へ行き、高ボッチ山山頂へ徒歩で登っていますから、ビーノは第2駐車場に停めたようです。

 

 志摩リンの居た場所付近から電波中継塔を見上げました。SBC高ボッチFM補完局のタワーであるそうです。いま3基ある中継塔のなかで最も早くから建てられたもののようで、昔の高ボッチ高原の写真を見るとこの中継塔のみが写っていました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒森峰女学園 パンターG型(3輌目) 作ります!! その1

2024年04月06日 | ガルパン模型制作記

 今回は、黒森峰女学園チームの車輛を作ります。パンターG型を上図のプラッツ公式キットにて製作します。このキットは、二年ほど前にサークルの交換譲渡会にてAFV部会のM氏に「長い事積んでいたけど作る気が無くなったのであげます」とタダでいただいた品です。お礼として、我が家でも愛用している静岡焼津産「やまじゅう」の「削りたて鰹節セット」を贈りました。

 このパンターG型は、今までに2輌作りました。1輌目はタミヤ、2輌目はグンゼ産業のキットを用いましたので、今度の3輌目はプラッツの公式キットを初めて利用します。

 この公式キットの中身はドラゴンの新製品なので、2輌目のグンゼ産業の中身のドラゴン旧製品とどのように違うのか、も今回の製作を通して体験出来ます。旧製品が思ったよりも組み立て易かったので、今回の新製品はさらに組み立て易くなっているだろうか、という期待感もありました。

 

 中身です。ドラゴン系列のキットとしては、ランナー、パーツ数ともに割合に少なめである印象を受けました。ドイツ軍では中戦車に分類されますが、世界的基準からみると大型に属する戦車です。それでパーツも大きなものが多いのですが、分割を抑えているのか、不要となるパーツを削っているのか、パーツ数そのものはタミヤキットとあまり変わらない気がしました。

 履帯は、個人的に嬉しいベルト式履帯でした。現在でもドラゴンのキットはベルト式パーツを入れてくる傾向がありますが、それがユーザー目線に基づいての配慮であれば、有り難い限りです。

 

 組み立てガイドの表紙は、プラッツ公式キット定番のガルパンコミック仕様でした。

 

 ですが、御覧のように一部に印刷の重複が見られました。ステップ4とステップ5の組み立て図が重なっていますが、プラッツのことですから、この程度ならまだ見られるから許されるだろうと安直に考え、コスト削減のために意図的に行っている可能性があります。

 他メーカーならば、ユーザー目線での配慮を色々施してサービスを図りますが、プラッツは昔からそういうスタンスが希薄であるようです。それで、ガルパンブーム初期においては、様々なキットの不具合をそのままにし、劇中車仕様とうたって劇中車仕様とは全く異なるキットを提供する、等の偏った販売を展開してさんざんに批判をあびていました。

 ですが、その企業的性格は十年余り経った今でも改善されていないようです。公式キットのリニューアル版においても、ドラゴンの製品をそのまま入れているケースが普通で、劇中車仕様に配慮してパーツを完全に揃えて販売する、という事例はいまだに見かけた事がありません。

 それでユーザーも敬遠気味にしているのか、いまではどこの模型店へ行ってもプラッツの公式キットが大量に積まれて売れないまま、パッケージも退色劣化しているのを見かけます。ここ数年は複数の海外メーカーが魅力的な新キットを次々と発売していることもあり、プラッツ公式キットの商品価値は低下する一方であるようです。

 

 ステップ1では、下部車体の足回りの軸部を組み立てます。パンターG型はガルパンの戦車のなかでは珍しく実車準拠の3Dデザインであり、劇中車仕様がテレビシリーズから最終章に至るまで変わっていないため、1、2輌目を製作した時と同じ外観、仕様に作ることになります。

 

 左右の車軸を片方ずつ順番に組み付けます。これは左側の分です。

 

 組み上がりました。

 

 続いて右側のパーツも同じように組付けます。

 

 組み上がりました。

 

 作業を続けました。上図のパーツE1およびE8は何のパーツが知りませんけれども、車軸に関連する動力機構の一部の軸棒であるように思われます。

 

 組み上がりました。組み立てれば完全に見えなくなる範囲ですが、ここまで細かく再現しているのは、本来はインテリアキットとしての構築も見据えた製品だったからなのかな、と思ってしまいます。

 ですが、パンターのフルインテリアキットは、私の知る限りではドラゴンからは発売されていません。近年に、後発メーカーのタコムやライフィールドモデルからより精巧な製品が出ています。  (続く)

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その18 川根温泉のカフェ

2024年04月05日 | ゆるキャン△

 川根温泉の道の駅施設がこの日は定休日でしたので、県道77号線をはさんで反対側にある上図の「川根カフェen」に行きました。県道より一段下の低地の、広い駐車場に囲まれた、二階建てのカフェです。

 御覧のように二階部分の外壁に握手のイラストがペイントされ、クリエィティブハウスのロゴが入っています。これは普通のカフェじゃないな、何らかのコンセプトを有したカフェみたいだな、と感じました。

 

 入ると一階部分は宿泊施設で、つまりはゲストハウスを兼ねていることがうかがえました。玄関口の左の階段を登って二階の上図のカフェに入りました。やっぱり普通のカフェとは違う雰囲気でした。

 とりあえず、川根温泉ホテルのチェックイン時刻の15時までの二時間ほどをここでのんびり過ごすことにして、コーヒーとトーストを注文し、店主の田澤さんに色々と話をうかがいました。

 

 このお店は、田澤さんが、田澤さんの祖母の妹さんが経営していたお店「えん」が空き家になっていたのを改修して、新たなゲストハウスとカフェとして2022年にオープンしたものだそうです。

 川根温泉道の駅の向かい、という好適地に位置するので、ゆるキャン聖地巡礼での立ち寄りスポットにも良さそうだ、取材を兼ねて寄ってみようと考えて今回の予定に入れておいたのですが、結果的には正解でした。既にゆるキャン聖地巡礼の途中で立ち寄る方が何人か居て、泊まられた方も居る、とのことでした。

 やっぱりここは便利だな、金谷から車かバイクで井川方面や寸又峡方面へ行く場合、距離的にはだいたいここらで休憩しよう、となるからな、と思いました。大井川流域では少ない宿泊施設があるのが大きなポイントです。

 それで、ゲストハウスの詳細を尋ねると、上図のメニューのページを示されました。ホームページとかはやっておられないのですか、と訊くと「ええ、そうなんです、いずれ作らないと、とは考えてますけれど」と答えてきました。

 

 なので、宿泊施設の案内と詳細も上図のメニューのページに記してありました。素泊まりで3300円、カフェのモーニング付きで3800円、はリーズナブルでゆるキャン聖地巡礼でも気軽に利用出来ます。拙ブログで紹介させてください、と申し出て、快諾をいただきました。

 

 こちらはカフェのメニューです。今回はコーヒーをいただき、ゆるキャン聖地巡礼の動向や川根本町の観光状況などの話をして長居となったため、さらにカフェオレをいただきました。

 田澤さんは芸大出身なので、同じく芸大出身の私とは色々な点で話が合いましたが、2024年4月からアニメ3期がスタートするゆるキャンに関しては殆ど知らないそうで、私が概要と大井川キャンプ編のストーリーを簡単に説明したりしました。聖地スポットの最奥が畑薙大吊橋だと言ったら驚かれて、地元の人もあんまり行かない奥地だ、と話されました。

 

 トーストのメニューです。私がいただいたのは右ページ下左の「3種のきのこペースト」でした。

 

 あと、上図左ページ上左の「ほうじ茶プリン」もいただきました。川根茶のほうじ茶を用いているそうです。

 

 カフェの一角のテーブルにあった数枚の丸キャンパスには、色々なペイント模様がありました。お店での体験プログラムに茶染め体験やペインティング企画があるそうで、そのペインティング企画の参加者の作品であるそうです。

 

 なので、カフェコーナーの一角には上図のように各メーカーのチューブも陳列されていました。これはほんの一部で、室内の各所に様々な種類の絵具が並べてありました。私自身も絵画が趣味でしたから、色々な絵具を持っていますが、こちらのは大型チューブなので、こうやって並べるだけで、一個のカラフルなインテリアに見えてしまいます。なかなかオシャレでいい感じです。  (続く)


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ゆるキャン△」に登場しない大井川鐡道を巡る その17 川根温泉笹間渡にて

2024年04月04日 | ゆるキャン△

 大井川鐡道の看板列車であるSL急行かわね路号に初めて乗り、新金谷駅から川根温泉笹間渡駅まで移動しました。38分の短い列車旅でしたが、機関車も客車も、そして窓からの景色も存分に楽しめました。

 

 折り返し運転に向けて準備待機中のC10形8号機。時々白い水蒸気を噴き上げていました。

 その先にも線路は続いていますが、災害不通区間となったままですので、本当の終点である千頭駅までは行けません。現時点ではここ川根温泉笹間渡駅が暫定的に終点となっています。

 不通区間の復旧に関しては、この3月下旬に、静岡県が「全線復旧を前提に」として早期復旧へ支援の方針を示したと報道されましたので、今後は何らかの動きがあることと思われます。いつの日か、SL急行かわね路号で千頭駅までの全線を乗れるようになれれば、と思います。

 

 このC10形8号機は、Nゲージのマイクロエースの製品を手元に置いていて、しばらくデスクの横の棚に飾って毎日眺めていた時期がありましたので、実物を見るとNゲージ模型そのままで、同時に模型の精巧さに驚かされます。

 そういえば、上図の大きなサイズのナンバープレートは、川本氏に教えられた通り、近年に付けられたもので、昔の写真を探してみると、通常の細長いナンバープレートが付いていました。Nゲージ模型でもそうなっていますので、現在の大きなサイズのナンバープレートのほうが少し異様に見えたりします。

 

 乗ってきた7号客車、スハフ43-2です。

 

 その車体側面中央の「かわね路」プレートと車番表記。

 

 駅ホームの中央、改札口付近の南寄りの位置、上図のオハフ33-469の横に、とりあえず立ち止まって時計を見ました。

 この列車は、川根温泉笹間渡駅に着いてから12分後の12時42分に、新金谷行きのEL急行かわね路号として、電気機関車E31形に牽引されて出発するので、それを見送る積りでした。時刻はすでに12時41分になろうとしていました。

 

 その1分後、するすると動き出していくEL急行かわね路号。ホームでカメラを構えて見送るのは、私の他に一人、複数のカメラを首に掛けた撮り鉄らしき初老の方だけでした。

 新金谷駅にて、大勢乗り込んできた300人余りの団体客は、大部分が到着後にサーッと降りて次の目的地へ四散してしまったようで、駅の周辺には全く人影を見ませんでした。ちょっと不思議な気がしました。

 

 ホームを出ていくEL急行かわね路号。今度は補機となって最後尾から客車を押してゆくC10形8号機。

 

 さよーならー、明日また乗るからなー、と誰も居ないホーム上でただ一人、去り行く列車に手を振り続けて見送りました。

 

 静寂が戻ってきた川根温泉笹間渡駅の古い駅舎のたたずまいです。昭和がいまも息づいている空間です。無人駅ですが、駅舎の一部がカフェ「Higurashi(ひぐらし)」となっています。

 

 駅舎をみたのち、ホームに戻ってその南端の出入口から下の道に降りました。この道は線路に沿って南の道の駅のエリアまで続いています。

 

 ホームの端からはこんな感じで線路が見えますので、列車撮影には最適のポイントだなと気付きました。明日はこの駅からEL急行かわね路号に乗るので、その際にここから車輛を撮影したりするのも良いな、と考えました。

 

 で、線路沿いに道の駅の駐車場へ出て、「川根温泉ふれあいの泉」の本館に寄ってみましたが、事前に調べた通りの定休日でした。この施設には明日立ち寄る予定でしたので、この日は入れなくても問題はありませんでした。次に行く場所も決まっていたからです。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伏見城の面影4 常寂光寺本堂

2024年04月03日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 常寂光寺の本堂の前に進みました。U氏が、屋根を見上げ、その軒先を見上げながら「お寺の本堂にしては変わってる屋根だな」と言いました。画像では写っていませんが、本堂の屋根は二層形式で、上部は緩やかに盛り上がった「むくり屋根」、下部は反り返った屋根の形に造られます。

 確かに、寺社建築としては大変珍しい形ですが、伝承通りの旧伏見城客殿であれば、この二層形式の屋根はむしろ一般的な城郭殿舎のそれとなります。古文献資料などで城郭関連の建物の屋根に関して「二層」とあるのを見かけますが、これは二階建てという意味ではなくて、常寂光寺本堂のように上下に屋根を重ねた形態を指すものと解釈されます。

 

 本堂に向かって右側にある式台です。この玄関口も寺院の本堂には基本的に有り得ない施設です。城郭関連の建物で客殿だったのであれば、こうした式台は必須の要素となります。

 寺伝によれば、この本堂は、慶長年間(1596~1615)に小早川秀秋の助力によって伏見城の客殿を移築した、とされています。昭和初期の大修理で本瓦葺から平瓦葺に改修されましたが、風雨の浸食により老朽化が進み、平成28年に開山日禛上人の四百年遠忌事業の一環として全面的な修理が行われ、移築当時の本瓦葺に戻されたということです。

 

 なので、全体的に建物が真新しく見えるのも、全面的な修理が行われたことによるものです。破損していた木材は交換され、白壁は新たに塗りなおされ、屋根は殆ど新調に近い状態になっています。慶長年間(1596~1615)に小早川秀秋が移築した頃の状態がよくうかがえます。

 U氏は「これは間違いなく本物だろうな」と、寺院の本堂にしては立派過ぎる構えの建物のあちこちを見て撮りつつ、小声で言いました。内部は一般公開されていませんでしたが、檀家の法要が行われていて、東と南の戸口が開かれて読経の声が聞こえていました。

 それで内部の様子がある程度見えたので、その間取りや書院造の間も少し見る事が出来ました。ここの本堂となった後も内部空間は殆ど変えられていないようで、北側に上段の間があって座席も北向きに並べられているのが見えました。

 この本堂は、建物の本来の正面がいまは東に向くので、現在は北側にある式台から直結する空間が上座になります。これは移築時に改造せずにそのまま活かして寺院の本堂にした結果であり、上座を北に向けて上段つまり仏壇に変更した形です。そのため、建物の向きを変えて、本来は南面していたであろう正面を東向きに変更しています。伏見城下にあった頃は現在の東側の正面が南向きだったと思われますので、いまは向きが左回りに90度変えられているわけです。

 

 U氏はしばらく手元のコピー資料を読み、再度建物の外回りを一瞥し、「問題はいつの時期の伏見城の建物であったか、だな。小早川秀秋が関与したのであれば、慶長七年(1602)からの徳川の再建の建物ではないことになる」と言いました。その通り、小早川秀秋は慶長七年(1602)に病没しているからです。

 したがって、それ以前の豊臣期に建てられた伏見城の建物であった可能性が高くなります。周知のように豊臣期の伏見城は文禄二年(1593)より本格工事が始まった指月伏見城、それが三年後の慶長伏見大地震で壊滅した後、その残余建材を木幡山に運ばせて改めて築城工事が再開されて慶長二年(1597)頃に竣工した木幡山伏見城、の二つに分かれます。

 常寂光寺が現在地にひらかれたのは文禄五年(1596)といい、権大納言日野輝資の養女である延壽院が開基となり、六条堀川の本国寺の日禛(にっしん)が隠棲の地として寺を築いたといいます。常寂光寺の寺号は、日蓮宗で説かれる「永遠で絶対の浄土」を意味する常寂光土(じょうじゃっこうど)の語句に由来しています。

 開山の日禛(にっしん)は、当時の日蓮宗でも清廉孤高の人として名をはせた高僧で、豊臣政権期には京都の日蓮宗の総本山であった本国寺(のち本圀寺)の第十六世住持を勤めていました。つまりは京都の日蓮宗の代表者であったわけです。

 文禄四年(1595)に秀吉は方広寺大仏殿の千僧供養会に際して、諸宗派から僧の出仕を求めましたが、日禛はこれを拒否して秀吉の怒りを買いました。日蓮宗では、他宗の信者の布施を受けてはならず、また法施をしてはならないという宗の掟があったため、日禛はこれに従って受けず、施さずの「不受布施」を貫きました。

 しかし、当時の京都に存在した日蓮宗の十六の本山の寺院は、秀吉の怒りを恐れて千僧供養会への出仕に応じましたので、日禛と同じく「不受布施」を貫いたのは妙覚寺第二十一世の日奥(にちおう)のみでした。秀吉の怒りを受けて二人は寺を出て、日禛は嵯峨に、日奥は丹波小泉に隠棲しました。

 嵯峨に隠棲した日禛には、多くの帰依者が居ました。京都の町衆はもとより、秀吉の姉の瑞龍院日秀(ずいりゅういんにっしゅう)、その夫の三好吉房(みよしよしふさ)、北政所の兄の木下勝俊、その弟の小早川秀秋など、豊臣家の人々も含まれました。さらに加藤清正、小出秀政など、秀吉の家臣の多くが帰依していました。
 それで秀吉も日禛の出仕拒否に激怒したものの、瑞龍院日秀や北政所や小早川秀秋らの懇願説得もあり、それ以上の処罰には至りませんでした。

 その日禛に、文禄五年(1596)にかねて親交のあった嵯峨の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)とその岳父の栄可(えいか)が小倉山麓の土地を寄進しました。その地域は藤原定家や西行ゆかりの場所でもあったため、和歌にも造詣の深かった日禛はことのほか喜び、ここに寺を建てて隠遁の地としました。その寺がいまの常寂光寺です。

 常寂光寺の創建に際して、小早川秀秋が慶長年間(1596~1615)に伏見城の客殿を移築して寄進し、本堂としました。小早川秀秋は慶長七年(1602)に病没しているので、本堂の移築の時期は慶長七年以前となります。

 

 そうなると、本堂の建物は、慶長七年以前に伏見城内に存在したことになります。したがって慶長七年(1602)から再建が始まった徳川期伏見城の建物は対象外となります。

 豊臣氏一族の小早川秀秋が移築に関与したとされる以上、その伏見城とは、慶長伏見大地震で壊滅した指月伏見城、およびその建材を用いて文禄五年(1596)より建設が進められ、慶長二年(1597)頃に竣工した木幡山伏見城以外にはあり得ません。要するに豊臣期の伏見城です。

 

 U氏は、指月伏見城が地震で壊滅して建材を木幡山に移し始めたのが文禄五年(1596)であることに注目し、同じ年に常寂光寺が創建されている点を指摘したうえで、伏見城の客殿を移築するには絶好の機会だろう、との推測を話しました。

 その推測はたぶん当たっているだろう、と考えます。指月伏見城が地震で壊滅した時点で残っていた建物は、当時の記録である「慶長記」や「当代記」によれば、台所御殿のみだったらしく、秀吉が地震直後の夜をそこで過ごした経緯が知られています。
 ただ、火災が発生していなかったため、崩壊した天守以下の諸建築群の大部分の建材が再利用可能で、すぐに木幡山への運搬が地震の二日後に指示されています。それで木幡山に改めて伏見城の建物が築かれていったわけですから、小早川秀秋が客殿の建物を移築するならば、このタイミング以外に有り得ない、と思います。

 しかも常寂光寺の創建の時期と一致しており、その文禄五年は10月に改元となって慶長元年に転じましたから、慶長年間(1596~1615)に小早川秀秋が移築したとする寺伝とも符合します。おそらく、客殿の移築は慶長元年ぐらいになされたのだろう、と推測しています。木幡山伏見城は慶長二年(1597)5月に天守閣が完成してほぼ竣工しているからです。

 

 U氏はさらにもうひとつの可能性を述べました。木幡山伏見城が竣工した翌年に秀吉が亡くなる、その後に何らかの理由で客殿を小早川秀秋が貰い受けて常寂光寺へ寄進移築するというのは、可能なんだろうか、と。

 私は「可能かもしれないけれど、ちょっと難しい。たった二年しかないし、内府(徳川家康)が絡むだろうからな」と答えました。

 秀吉の死後、慶長四年(1599)に伏見城へ、徳川家康が豊臣秀頼の代理を務めて留守居役として入城していますが、半年足らずで秀頼の大坂城に移っています。翌慶長五年(1600)6月には東西手切れとなり、徳川家康に代わって鳥居元忠が預かる伏見城へ、小早川秀秋、島津義弘らの西軍が攻め寄せて合戦となり、城は炎上し落ちました。

 このときの石田三成の報告で「城内悉火をかけやけうちにいたし候」とあるように、伏見城内の建物をことごとく焼き払ったことが分かります。つまり、秀吉時代の主要建築はすべて焼亡したものと見なされるわけです。

 

 このように、秀吉の没後の伏見城は、徳川家康が留守居として預かり、さらに鳥居元忠が家康の命令によって城代として入っていますから、伏見城合戦で炎上落城するまでずっと徳川家の管理下にあったことが理解されます。

 そのような時期に小早川秀秋が客殿を貰い受けて常寂光寺へ移築寄進する、というのはちょっと考えにくいです。時期的にも符合性がありません。
 その時期に客殿を移築するのであれば、所有者である豊臣秀頼や留守居管理者の徳川家康の許可承認が必要となるでしょうし、そうなったらそうなったで、常寂光寺側の記録にも移築寄進の関与者として豊臣秀頼または徳川家康の名が付記される筈ですが、実際には「小早川秀秋の助力により」となっています。

 以上の事柄をふまえて、私自身はこの本堂の移築時期を、慶長元年ぐらい、と推測しています。最終的にはU氏も「それが妥当だな、いや、それ以外に有り得んな」と同意しましたが、つまりは二人ともこの常寂光寺本堂を豊臣期伏見城の建築遺構と見なすことで一致したわけです。

 この私たちの推測は、重要なポイントです。豊臣期伏見城の建築遺構は京都市内においてはまず残っていないと思われるなかで、稀な同時期の建築遺構が見いだされた形であるからです。しかも文禄五年という年次によって、地震で崩壊した指月伏見城の建物であった可能性も浮上するからです。

 つまり、文禄五年の慶長伏見地震で壊滅した指月伏見城の建物の建材を木幡山へ運び移して新たに城郭を築くさなかに、客殿の建材を、小早川秀秋が心の師とも仰ぐ日禛に寄進し、常寂光寺の本堂となした経緯がひとつのストーリーとして浮かび上がるわけです。史実かどうかは分かりませんが、当時の情勢を考えれば充分に有り得る話です。

 この推測に立つ場合、常寂光寺への客殿の寄進移築に関して、伏見城のあるじの秀吉の許可は得られたのか、という問題が生じます。先に述べたように、方広寺大仏殿の千僧供養会への出仕を拒否した日禛に対して秀吉は激怒しましたが、日禛に帰依していた姉の瑞龍院日秀や北政所、小早川秀秋ら豊臣一族の懇願説得もあり、それ以上の処罰には至りませんでした。

 なので、常寂光寺への客殿の寄進移築は、秀吉の日禛への「詫び料」であった可能性が考えられます。小早川秀秋は秀吉の義弟であり、当時は秀吉の養子になって北政所が養育し、猶子となっていましたから、小早川秀秋が客殿の寄進移築をするというのも、秀吉の意を受けての代行であっただろう、と考えられます。第一、客殿という伏見城内でも格式の高い重要な建物を他へ移すというのも、秀吉の許可が無いと出来ない筈です。

 だから常寂光寺の寺伝にて「小早川秀秋の助力にて」と、あたかも秀秋がサポート役であったかのように書かれ、実の寄進者が別に居たことを暗示しています。おそらく秀吉その人だったでしょう。

 おそらく、秀吉としては、豊臣一族も帰依している京都法華宗トップの日禛に対して、方広寺出仕拒否の件で怒ってしまったが、日禛は宗の掟を忠実に守ったので罪は無い、非は怒った自分のほうにある、それで日禛が本国寺を退いて嵯峨に隠棲してしまったのも自分のせいだ、と反省していたのでしょう。
 そして角倉了以らの土地寄進による常寂光寺開創のことを聞き、それならばこちらもお詫びして支援しよう、と思いつき、たまたま工事中だった伏見城の建物の一つを寄進することに決めたものの、怒鳴りつけた相手の所へ自分が出向くのは恥ずかしく情けないから、猶子の小早川秀秋に代行させた、ということではなかったかな、と思います。

 U氏も同じ推測をもって、常寂光寺本堂の本当の寄進者は秀吉だろう、と話していましたから、小早川秀秋を代理として詫びを入れるしるしに、京都法華宗トップだった日禛に相応しい建物として、伏見城内では最高の格式を持つ客殿を「馳走」したのだろうとする私の推考にも「そういうことだろうな、秀吉らしいやり方じゃないか」と同意してくれました。

 それでいい、その推測が真実に最も近いようだ、と言わんばかりの満足げな表情でした。それをみて私も満足でした。

 

 本堂の前庭からは、東に眺望が開けて嵯峨の里、遠くの京都市街が広く望まれました。その景色を、二人とも大満足の気分でしばらく眺めました。

 

 さて、次に行くか、とU氏が上図の石段を降りかけて、あっ、帰りは北からだな、と気付いて北側からの斜めに下る石段をたどりました。

 

 再び仁王門のところまで来ました。もとは六条堀川の本国寺客殿の南門であったものを、開山日禛上人の晩年の元和二年(1616)に移して、寺の整備が完了したということのようです。その翌年に日禛は入滅しています。

 その三年後の元和六年(1620)に多宝塔(国重要文化財)が、京都の大呉服商の辻藤兵衛(つじとうべえ)によって寄進されました。
 この辻藤兵衛は、かつて日禛とともに方広寺大仏殿の千僧供養会への出仕を拒否して「不受布施」を貫き通した妙覚寺の日奥(にちおう)の父親であったといいます。かつて秀吉の怒りを買った二人の日蓮宗の高僧の縁は、ずっと途切れないままであったのでした。

 

 参道脇にいわくありげな祠があるので、そこへ行って境内散策をしめくくりました。祠の前からは、仁王門が上図のように見えました。

 U氏が、ここ常寂光寺は、歴史的にけっこう深みがある穴場だな、印象に残る寺の一つになりそうだ、と言いました。私にも似たような感慨があり、豊臣期伏見城の建築遺構の可能性を間近に見られたのも大きな成果でした。

 日蓮宗のお寺は京都にも数多いですが、常寂光寺のような豊かな四季の樹木に囲まれた、日蓮宗で説かれる「永遠で絶対の浄土」を意味する常寂光土(じょうじゃっこうど)をそのままうつしたような自然環境に包まれる寺は稀だと思います。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆるキャン△の聖地を行く38 その7  でいだらボッチ館

2024年04月02日 | ゆるキャン△

 高ボッチ高原の第2駐車場の南側にある管理棟です。正式名称は「でいだらボッチ館」といい、高ボッチ高原の自然管理保全の事務所およびキャンプ場の管理室を兼ねている施設です。館内では、高ボッチ高原にまつわる写真の展示や書籍の閲覧が出来、キャンプ用のアウトドア調理器具、イスやテーブル等のレンタルを行なっています。

 塩尻市観光ガイドHPにおける「でいだらボッチ館」の案内情報はこちら

 

 館内に入ると、各務原なでしこと志摩リンのパネルがありました。上図は各務原なでしこの側。

 

 そして志摩リンの側。いずれも日清カレーメシの販促イベントで使われたもののようで、ここへはおそらく寄贈か何かによったのでしょう。こういった企業関係のコラボイベントにはあまり行きませんから、この種のパネルは初めて見ました。

 

 信州名物おやきとピッツァの価格差にびっくりしました。普通、逆じゃないか、と思いました。郷土料理のほうが高価格というイメージがありますが、ここでは違うようです。

 おやきは信州を代表する郷土料理のひとつで、「焼き餅」とも呼ばれます。関西で言う「回転焼」に近い食感と風味があり、長野県ではお盆などでいただくそうで、ルーツはなんと縄文時代の雑穀使用焼き餅にまでさかのぼるといいます。

 

 しっかりカレーメシも置いてありました。これ、ゆるキャンフードの最初に登場した「カレーめん」のパロディを意識してるのですかね・・・? 普通にカレーヌードルを置けばいいんじゃない、同じ日清の製品なんだし・・・。

 

 高ボッチ高原グッズの販売コーナーには、さりげなくゆるキャンステンレスマグカップも並んでいました。

 

 というか、ここでもブームにあやかってゆるキャングッズ類が大量に売られていました。それだけ大勢のゆるキャンファンがこちらにも来るようになったということですね・・・。

 

 こちらは、レンタル出来るキャンプ用のアウトドア調理器具、イスやテーブル等の見本展示です。こういったギアはレンタル可能ですが、食材は扱っていないので、高ボッチ高原に登る前に付近のスーパーかコンビニで調達しておく必要があります。

 

 館内は二つの空間に分けられています。こちらが玄関から入れる南側の空間で、これまで紹介したキャラクターパネル、信州名物おやきとピッツァの販売ケース、ゆるキャン商品の販売コーナー、管理事務所のカウンターなどがあり、上図左奥には、高ボッチ高原にまつわる写真の展示や書籍の閲覧が出来る閲覧席が設けられています。

 

 もう一つの空間は北側の上図の多目的ギャラリールームで、高ボッチ高原にまつわる展示や季節ごとの自然観察イベントの開催展示、イベント時のガイダンスルーム等に供されるそうです。

 

 書籍の閲覧が出来る閲覧席のテーブルには、しっかりと、るるぶの「ゆるキャン観光特集号」が置いてあります。ここ高ボッチ高原の案内記事も掲載されていますから、置いてあるのでしょう。

 実は私は、この種のコラボ刊行物は一冊も持っていません。これらが刊行される前に聖地巡礼を済ませているケースが殆どなので、こういったガイドブックにて紹介される内容よりも更に多くの知見、情報を持っており、この種のコラボ刊行物を買う必要がありませんでした。

 

 さて、それでは志摩リンの回った所を探しに行きますか、と思い立って館外に出ました。車を第2駐車場に置いてゆっくり歩いて回る積りでしたので、最後にまたこの管理棟に戻ってくる予定でした。

 既に南側の空は御覧のように雲が流れて行って青空が見え始めていました。晴れて行くので良かった、もう雨の心配は無い、と確信して園路を歩き始めました。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伯爵高校 Ⅳ号戦車G型(1号車)(樅の木と鉄の羽の魔女版) 作ります!! その6

2024年04月01日 | ガルパン模型制作記

 ステップ21では砲塔のシュルツェンを組み立てます。ステップ22では車体のシュルツェン架を組み付けます。全てガイドの指示通りに進めます。

 

 ステップ21で砲塔に組み付けるシュルツェンおよびシュルツェン架のパーツ類です。

 

 組み上がりました。

 

 ステップ22に進みました。シュルツェン架を組み立てます。

 

 同時に組み付ける前照灯のパーツです。

 

 シュルツェン架を車体に取り付けました。

 

 前照灯を組み付けました。

 

 ステップ22の工程が完了しました。

 

 ラストのステップ23では、車体左右のシュルツェンを組み立て、砲塔を車体にセットします。

 

 このキットでは、シュルツェンのパーツが透明プラ板です。これをガイドの指示通りに貼り合わせて、シュルツェン架のフックに穴を通してセットしますが、私の製作では接着しないで取り外し自在にします。

 

 ステップ20にて追加するのを忘れていた、上図の機銃ガードをジャンクのドラゴンパーツにて補完しました。これで作中車の仕様になりました。

 

 続いて作中車仕様への追加工作として、今回のキットには無い車体前端の予備履帯とラックを追加しました。パーツはジャンクにあったタミヤのパーツを転用し、上図のように取り付けました。

 

 予備履帯もタミヤのパーツを転用し、作中車に合わせて上図のように作りました。ラックにひっかけているだけですので、取り外しも自在です。

 

 製作中にサークルの定期会合があり、キットやジャンクパーツの交換譲渡会もあったので、懸案だった起動輪の前期型のパーツが運よく入手出来ました。AFV部会のメンバーは、大半がドイツ戦車を作りますから、車輪関連のパーツもめいめいが豊富に持っています。私自身も過去に色々と頼まれてパーツを譲った事が度々でしたから、交換譲渡会というのは本当に便利だなと思います。

 

 おかげで起動輪も作中車と同じになり、足回りも作中車仕様でまとめることが出来ました。次は塗装ですが、これは別のタイミングで他のキットとまとめて行なう予定です。  (続く)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする