連続私小説
『今日のボルダリング』
【第一話】
眼前に壁がそそり立つ。
薄い木製のボードだが、背面が鉄製の基礎にしっかり固定されているためか、向かい合うと中々に圧がある。
カラフルにペイントされていて、無機質さは感じられず、辺りに楽しげな雰囲気すら醸し出しており、これから挑む試練の困難さを曖昧な物にしている。
意を決して、歩を進める。
踏み出す毎に、靴底のゴムが、我が身の体重の分だけ分厚いマットに沈み込み、緊張で鈍重になる足取りに追い打ちをかける。
壁に取り付けられた岩を模したホールドというブロックを両手で持つ。ザラザラとした肌触り。自重とあいまり、滑り止めをまぶした手にピリピリと食い込んで行く。
ホールドの横には、スタート地点を示すステッカーが貼られている。この広い建物の中で、これから私が挑む試練への扉は、唯一このステッカーが貼られたピンク色のホールドのみなのだ。
「決められたコース」という制限化の戦い。選択という自由意志を無残にも剥奪された事を痛感して、戦慄に手が止まりかける。
そうこうしているうちに、背後には試練を受け入れる覚悟を果たした同胞(はらから)が、一人、また一人と列を為しつつあった。
もはや後戻りはできない。
ピンク色のホールドを両手で掴み、両足も下部に設置されたホールドに乗せ、柔らかい地面に別れを告げる。
重力に抗うように、次の一手を伸ばす。
まだまだ序盤、力はありあまっている。だが私は知っている。壁はそこかしこに意地の悪い罠を仕掛け、こちらの前向きな意思を搾取せんと待ち構えているのだ。
無駄な動きは避けなくてはならない。指先の力強くも繊細な運びに影響が出ないように注意を払いながら、渦巻く脳漿に刺激を与え、神経を張り詰める。
三手ほど進むと、最初の難関が待ち受けていた。現在の地点から次の目的を捕捉せしめるためには、あと少し距離が足りない。
躊躇による停滞は、そのまま両の腕に伝わり、力をみるみる奪って行く。
焦らぬよう、だが迅速に体をあちこちに動かして、我が身の置き所を探る。
ふと、右足を下げた時に、左手がグンと伸びる感覚があった。迷っている間はない。その感覚に身を委ね、グイと右足を下げ、バランスを取りながら左手を伸ばした。
かろうじて指先が次の目標に触れた。人差し指をかけ、次に中指。下半身と足先をねじり距離を稼ぐと薬指と人差し指まで届いた。
手応えの伝わる四本の指に、不退転の意思を込め、ぐっと引き寄せる。
こうなれば、続く足の移動は難しくはなかった。幅三寸、厚みは二分程だったが、しっかりとつま先がかかる場を見つけ、ジリジリと体重を乗せて行く。
ふと、左右の均衡が定まり、手の力を抜く事が出来た。
どうやら、ひとつめの難所は超える事が出来たようだ。達成感が、失われた力をほんの少しだけ取り戻してくれた。
しかし安堵するのはまだ早い。終着点はまだ見上げなければ視認できない高さにあり、たどり着くまでにはまだいくつかの難所を通過しなくてはいけないであろう。
口内に残るスポーツドリンクの残存ナトリウムを舌先に感じながら、まだ達した事のない未知の領域に想いを馳せ、勇気という名のエナジーに点火する。
私はまだやれる。そう信じて、待ち受ける暗闇に手を伸ばし、こう叫ぶのだ。
「こまんたれぶー(^o^)」
(つづく)
『今日のボルダリング』
【第一話】
眼前に壁がそそり立つ。
薄い木製のボードだが、背面が鉄製の基礎にしっかり固定されているためか、向かい合うと中々に圧がある。
カラフルにペイントされていて、無機質さは感じられず、辺りに楽しげな雰囲気すら醸し出しており、これから挑む試練の困難さを曖昧な物にしている。
意を決して、歩を進める。
踏み出す毎に、靴底のゴムが、我が身の体重の分だけ分厚いマットに沈み込み、緊張で鈍重になる足取りに追い打ちをかける。
壁に取り付けられた岩を模したホールドというブロックを両手で持つ。ザラザラとした肌触り。自重とあいまり、滑り止めをまぶした手にピリピリと食い込んで行く。
ホールドの横には、スタート地点を示すステッカーが貼られている。この広い建物の中で、これから私が挑む試練への扉は、唯一このステッカーが貼られたピンク色のホールドのみなのだ。
「決められたコース」という制限化の戦い。選択という自由意志を無残にも剥奪された事を痛感して、戦慄に手が止まりかける。
そうこうしているうちに、背後には試練を受け入れる覚悟を果たした同胞(はらから)が、一人、また一人と列を為しつつあった。
もはや後戻りはできない。
ピンク色のホールドを両手で掴み、両足も下部に設置されたホールドに乗せ、柔らかい地面に別れを告げる。
重力に抗うように、次の一手を伸ばす。
まだまだ序盤、力はありあまっている。だが私は知っている。壁はそこかしこに意地の悪い罠を仕掛け、こちらの前向きな意思を搾取せんと待ち構えているのだ。
無駄な動きは避けなくてはならない。指先の力強くも繊細な運びに影響が出ないように注意を払いながら、渦巻く脳漿に刺激を与え、神経を張り詰める。
三手ほど進むと、最初の難関が待ち受けていた。現在の地点から次の目的を捕捉せしめるためには、あと少し距離が足りない。
躊躇による停滞は、そのまま両の腕に伝わり、力をみるみる奪って行く。
焦らぬよう、だが迅速に体をあちこちに動かして、我が身の置き所を探る。
ふと、右足を下げた時に、左手がグンと伸びる感覚があった。迷っている間はない。その感覚に身を委ね、グイと右足を下げ、バランスを取りながら左手を伸ばした。
かろうじて指先が次の目標に触れた。人差し指をかけ、次に中指。下半身と足先をねじり距離を稼ぐと薬指と人差し指まで届いた。
手応えの伝わる四本の指に、不退転の意思を込め、ぐっと引き寄せる。
こうなれば、続く足の移動は難しくはなかった。幅三寸、厚みは二分程だったが、しっかりとつま先がかかる場を見つけ、ジリジリと体重を乗せて行く。
ふと、左右の均衡が定まり、手の力を抜く事が出来た。
どうやら、ひとつめの難所は超える事が出来たようだ。達成感が、失われた力をほんの少しだけ取り戻してくれた。
しかし安堵するのはまだ早い。終着点はまだ見上げなければ視認できない高さにあり、たどり着くまでにはまだいくつかの難所を通過しなくてはいけないであろう。
口内に残るスポーツドリンクの残存ナトリウムを舌先に感じながら、まだ達した事のない未知の領域に想いを馳せ、勇気という名のエナジーに点火する。
私はまだやれる。そう信じて、待ち受ける暗闇に手を伸ばし、こう叫ぶのだ。
「こまんたれぶー(^o^)」
(つづく)