キレたり、怒ったりしてでも自分の主張を通そうという気概がない、もっと感情を爆発させろ、そう先日指摘された。その人は物知りで、法律や過去の事例などを持ち出しては、大声で他者を圧倒、正論を持って相手を打ち負かしては自慢げな表情となり、後日みなに言いふらすなどの行為に至福を覚えるタイプの人間である。
たしかに、正論を通して自分の益を守る、というのも人生においては重要なのであろう。しかし、そうはわかっていても、僕にはそれを実行することはできない。
たとえば、価値観てのは人それぞれで、人の数だけ正論てのは導き出るものだと思う。また、頭がよければなおさらで、アメリカの裁判事例よろしく、本当に他愛のないことでも、相手を打ち負かすことが可能だ。実際目にするケースでも、人が相手を言い負かす場合、事の成否よりも、大声と思考速度の差によることがほとんどに感じるのは気のせいだろうか。
また、正論を通すのに相手を選ぶという行為。もし、相手がヤ○ザや権力者の場合、それでも主張をつらぬこうとする人がどれくらいいるだろうか。強い人からは逃げて、弱いものにのみ攻撃。それって小学生のいじめとかと同じに見えて、すごくかっこ悪く見えるのだ。
あとよくいるのが、自分なりに解釈して導き出した正論という名の自信作を、発表したくて仕方なのない輩。たとえば、ある事件を境に「奇麗事だけでは飯は食えない」という結論に到達した人がいたとして、この人は同様のシチュエーションにおかれた人に、これ見よがしにこの自信作を披露、熱弁をふるう。お前等は、ゲームで裏技を見つけて喜ぶ幼稚園児かっつーの。
それらのことを考え、自分に置き換えると、そう簡単には正論による自己主張などできず、真に迫られたとき以外は、じっと感情を押し殺し耐え忍ぶべきなのだと思う。怒りの安売りはせず、しかし、必要にせまられたときは、躊躇なく感情を発現、寸止めはせず、どんな手段を使っても、相手を徹底的に抹殺し刺し違えてでも自己を貫こうと思う。もっとも、これは極論、そんな機会など人生に起こりうる可能性はごくわずか(というか絶対おこって欲しくないが)。でも、それ以外のシチュエーションレベルでの怒りや憤りなんてのは、そんなに必死になる必要なんてないことばかりだと思う。「私憤は他人にとっては純然たるギャグ(町田康)」なのだから。
男の成長ってのは、全てを自分の責任と受け止めて、もだえ苦しみ、昇華させてこそ生み出されるもの。昔憧れたヒーローなんかは、いかなる理不尽な環境に追い詰められても、けして他人のせいにはしなかった。男は黙って爪を研ぎ、背中で語る。
とはいえ、ヒーローでない僕は、やはりどうでもいいような事に腹をたててしまう事しばしだし、押し殺してた怒りや不満が爆発しそうになることも多々。そんなときには、会社の壁の硬いとこなんかをこっそり殴打、八つ当たりに精を出すことを心がける。どんな怒りも、手がすりむけて血がにじむころには、イヒイヒ笑いとばす事ができるはずですよ。イヒヒ。