芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」の意味には諸説あるようです。
・蛙が飛びこむ水の音を聞いて心の中に古池の幻が浮かんだ。
・芭蕉に追いかけられて飛び込んでいた蛙は、冬眠から覚め「春の訪れを喜ぶ心を表現したくて」飛び込んだ。
初句は、「山吹や蛙飛んだり水の音」だったそうです。
山吹は春の花。山吹と蛙は、和歌では春を表す組み合わせです。
和歌の世界では、蛙はその鳴き声が詠まれていました。
芭蕉の俳句では、山吹と蛙の「飛び込み」が組み合わされています。
「飛んだり」という表現には、談林風の滑稽さがあるという理由で「飛び込む」に修正されています。
ここからは、私の感想になりますが、「山吹や」が「古池や」に替わることによって、まず明るさの印象が違ってきます。
季節は晩春。
山吹の小判のようなカラフルな花の色から、庭の池の水墨画のような、色があったとしても暗い緑色のように、「山吹」が「明」であるとすれば、「古池や」は「暗」。
「山吹や」であれば「明るい」視覚的な句になるのに対して、「古池や」では視覚的ではない、あるいは視覚に訴えるものが弱い感じを持ちます。
私は、この句は、聴覚の句だと思います。
「水の音」を聞くためには、「山吹や」ではなく「古池や」がより相応しいと私は思いました。
・蛙が飛びこむ水の音を聞いて心の中に古池の幻が浮かんだ。
・芭蕉に追いかけられて飛び込んでいた蛙は、冬眠から覚め「春の訪れを喜ぶ心を表現したくて」飛び込んだ。
初句は、「山吹や蛙飛んだり水の音」だったそうです。
山吹は春の花。山吹と蛙は、和歌では春を表す組み合わせです。
和歌の世界では、蛙はその鳴き声が詠まれていました。
芭蕉の俳句では、山吹と蛙の「飛び込み」が組み合わされています。
「飛んだり」という表現には、談林風の滑稽さがあるという理由で「飛び込む」に修正されています。
ここからは、私の感想になりますが、「山吹や」が「古池や」に替わることによって、まず明るさの印象が違ってきます。
季節は晩春。
山吹の小判のようなカラフルな花の色から、庭の池の水墨画のような、色があったとしても暗い緑色のように、「山吹」が「明」であるとすれば、「古池や」は「暗」。
「山吹や」であれば「明るい」視覚的な句になるのに対して、「古池や」では視覚的ではない、あるいは視覚に訴えるものが弱い感じを持ちます。
私は、この句は、聴覚の句だと思います。
「水の音」を聞くためには、「山吹や」ではなく「古池や」がより相応しいと私は思いました。