GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

プロで生き抜く道

2024-05-22 19:42:57 | 野球

 やや遅れましたが、清川栄治 西武投手育成アドバイザーが、死去しました!プロ全ての登板が、救援での登板・起用であった職人というかスペシャリストでしたね。まぁ、左打者対策・ワンポイント起用だけでなく右打者・イニング跨ぎもこなし、きっちりと抑えた時もありましたが。京都商業高時代は、2年時にエースではなかったが、秘密兵器として平安高校戦に登板し他の強豪校もなぎ倒し、甲子園の出場経験もある。大阪商大に進学し3年までは活躍したものの、最終年の4年で調子を落とし、プロからの評価が下がりドラフト外で広島に入団。しかも!当時の広島は、半端なく強力投手陣が揃っていた為、その能力差に圧倒された末に導き出した結果や目立つ為にはと、左のオーバースローから希少なサイドスローへ転向した。元々飛び抜けてスピードが速い訳ではなかったが、球威はあった方ではあった為、威力は抜群であった。最初の背番号は、48。19のイメージやったけど、最初は48やったんやな。1986年に一軍に本格的に定着。初めて一軍で左専用のリリーフという形になる。プロ初勝利の権利を持って降板した試合に守護神の津田恒実が逆転を許し、勝利投手の権利が消えてしまっても、何も気にしてなかったが、投の津田氏は何度も「キヨ!すまなかった!眠れん・・・」と何度も清川氏の部屋をノックし、謝りに行っていたというシーンもドラマで再現されてたし、有名やわな。それでもチームのリーグ優勝に貢献!翌年5月16日から7月2日まで7試合で29人連続で出塁を許さなかった。しかし、ナゴヤ球場で宇野勝に右翼席に本塁打を打たれて記録が、途絶えた。1988年4月20日の対巨人で登板106試合目にして初勝利を手にした。初勝利の感想は、「とうとう勝ってしまった」。プロで生き抜く為以外は、目立つ事を好まなかった証ですね。また、初登板から114試合連続敗戦なしの日本プロ野球記録を保持していた。1991年シーズン途中に近鉄へトレード移籍、背番号は47。しかも重宝されただけでなく、一旦ファーストの守備に就き再びマウンドに上がった経験もある。下手投げやったのに、フォークも持ってなかったっけ?近鉄では、1992年にプロ野球データ事典やファミスタに載るぐらいの活躍を遂げる!勝ち負け、セーブといった表に出る記録とは無縁の野球人生だったのも確か。シブチンの近鉄の契約更改で好待遇を勝ち取る為、激務の割に給料が上がらないと悩んだ氏は、毎年年俸交渉の際に球団が差し出す、全登板試合の事細かい査定表以上に細かい記録を自分で付けて出し交渉に望んだ。その一例が週べの「記録の手帳」で紹介されていたインヘリテッド率と呼ばれるもので、自分の投球で本塁に返した走者の数を、前の投手が残した走者の数で割ったものであった。これを見せられた球団社長のが興味を示し、球団が譲歩して年俸アップを勝ち取った事もあった!中継ぎのステータス・スポットライトを浴びる夜明け前の時代ですな。1996年に藤井寺球場で僕は、彼の雄姿を観てる!キレイな投球フォームやったなぁ!大阪ドーム元年の翌年の1997年に438試合連続救援登板し、当時のプロ野球記録を樹立しました(チラッとサンデースポーツで取り上げられてたのを観た)!!しかも大阪ドームで。ただ記録達成の為に球団が籍を置いてた感もあり、案の定オフに戦力外を通告される・・・翌98年に古巣の広島に復帰。背番号は47。たださすがに衰えを隠せず、この年に引退しました・・・僕も日テレの巨人戦の中継をたまたま点けてて、高橋由伸にワンポイント対策で登板したものの、ストレートの四球を与えた・何しに出て来たんや?という感じやったんで、「さすがに衰えて来てるかぁ・・・」と思いましたね。ヤフコメによると実は1度先発した試合があったらしいけど、滅多打ちに遭った上、降雨ノーゲームとなった為、記録は取り消しになったようですが(ホッ)。結果的にそれで登板した438試合は全てリリーフのみで、左のスペシャリストとして15年間のプロ生活を全うした。また、自称「本格派の投手」というように、"投球イニング数を上回る奪三振数を記録"している!

 引退翌年の1999年から2006年までは、広島の一軍・二軍投手コーチを歴任した。選手時代のひた向きな性格や仕事振りが評価され、選手実績に輝かしさは無かったものの、長くプロ野球界に関われた!2007年から2011年までは、オリックスの一軍・二軍投手コーチを歴任。確かに元々老け顔であったが、失礼ながら二軍で生で見掛けた時はおじいさんに見えました・・・2013年は、解説者兼日立製作所の投手コーチに就任。2014年には、本人も「何故か?俺の所に来た」というこれまで縁の無かった西武の投手コーチに就任。2017年まで。2018年からは、育成担当でリハビリなどを担当。2019~2022年までは、再び二軍巡回コーチやファーム投手総合コーチに就きました。2023年は、育成アドバイザーとなってましたが、ここに来て・・・

 プライベートでは、ゴルフ・歌・料理・裁縫が上手く、何でも器用にこなした。特に歌は上手く、野球オフ期間のテレビ番組のプロ野球チーム対抗歌合戦などには、必ず借り出された。プライベートのカラオケでは、歌が上手いのにあまり歌わずマウンドと同様他人に譲り、聞き上手でもあった。なお恋愛ソングはあまり歌わず、人生を語ったような歌が多かったよう。ずっと独身やったのも、そういう所が出てたかも知れんけど、十分1人で生きて行けましたしな(笑)なお実際にお会いした事はないですが、親父が教師をしていた中学校に当時の近鉄の首脳陣や現役選手が野球教室に来ていた為、現役投手として清川氏も来ていたようです!親父が「吉田(剛)って背番号8でショートでおったけど、身体ちっこいなぁ」と帰宅してから、言ってたりとかもしました・・・その時の寄せ書きの中に清川氏のサインもありました!47番が、そうです。2枚もあったのは今気付きましたが、どっちが氏のか判らん為、ネットで調べたらどっちもそうでしたし、微妙に形が違うようにも見えますが、よう見たら同じですね(謝罪)

 高1になって近鉄ファンに戻った僕は、野球の話をするようになり(→中3の頃は、自身がやってた事もあり、野球があまり好きやなくなってた・・・)清川氏はファミスタで知ってたんで"清川ってリリーフ専門で左の下手投げで、凄いピッチャーやなぁ"と親父に言ったら"清川そんなええピッチャーちゃうで、現に1回も先発投手で投げた事ないやないか!?"と死ぬまで先発投手以外は、イマイチな・先発を失格になった投手がやるポジションという思考は、揺らがなかったですけどね(涙)ともあれヤフコメにもあったけど、この頃の左下手投げ投手は、防御率が悪い投手も居たけど、いかにもスペシャリストっていうのが多かったよな!永射保・角盈(三)男・田村勤・・・救援専門のイメージは、木塚敦志・藤田宗一・弓長起浩(阪神)・現役では宮西尚生(日)とかかな・・・

 清川さん、サインを2枚も書いていただきその節は、大変ありがとうございました!!あなた達の様な職人を僕らは、絶対忘れません!通算成績は、試438 13勝10敗12S 防2.94 でした。お悔やみ申し上げます(涙)

 その清川氏と逆のような記録が・・・松本健吾(ヤ)が、対広島戦でプロ初登板で二桁奪三振・完封は、何人も居ましたが、"無四球・二桁奪三振・完封"は、史上初との事でした!!!本当におめでとうございました!!!彼が今後、どのようなプロ野球生活を送るかは、判りませんが。

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