醍醐猛夫(猛男)[毎日・大毎・東京・ロッテ]氏が、亡くなられました。早実高時代には、王貞治投手の2年先輩で女房役を務め、制球難のワンちゃんを背中で?引っ張り、醍醐氏の世代では、甲子園2回戦までの進出に留まりましたが、この時の経験が活き、ワンちゃんを中心とする3年次の早実センバツ初優勝の礎を築きましたな。その実力を買われたのか、1957年に毎日に入団。2年間は、主戦捕手。1959年には、谷本稔に正捕手の座を奪われるが、打てる捕手としてもエースキラーとして存在感を示す!ただ1960年の日シリへの出場は、ならなかった・・・1964年には、正捕手の座を奪還し、規定打席不足ながら、.273を記録。1965年には、谷本の阪神移籍により不動の正捕手となり、自身初の全試合出場で規定打席にも到達しました!1970年のリーグ優勝にも貢献!!巨人との日シリでは、全5戦スタメン出場したが、1勝4敗で日本一を逃す・・・1971年には7月3日から4日にかけては東映戦(後楽園)で2試合にまたがり、杉田久雄(東映・日拓・日本ハム―南海―広島)・尾崎行雄・金田留広からプロ野球タイ記録の4打席連続本塁打を放つ。同年は前半戦の活躍もあってオールスターに2年ぶり4度目の出場も果たしたほか、6年ぶりとなる2桁本塁打(10本)も記録。リーグを代表するキャッチング技術で投手陣から信頼され、打撃も荒いものの大物打ちで勝負強かった選手でした(拍手)!1974年には一軍バッテリーコーチ兼任となり、4年ぶりのリーグ優勝と24年ぶりの日本一に貢献。ほぼコーチ専任となった1975年限りで現役を引退。 引退後もロッテ一筋で二軍監督や一軍ヘッドコーチやコーチを歴任。スカウトや打撃投手も経験した。他には、苗字は漢字の画数が多い文字であったため、後楽園球場の電光掲示板や東京スタジアムのスコアボードでは片仮名で"ダイゴ"と表記されていた。←Wikiだけでなく、あの頃こんな球場があったにも書かれてる。僕は、二軍監督のイメージ(ただの2002年の名鑑で観たフラッシュバック・爆)ですね・・・通算成績は、試1775率.234 81本472点 安1132 でした。合掌です(涙)
それと未だに破られていない"世界一の代打本塁打数「27」"を持つ高井保弘 氏も亡くなられました(号泣)以前2011年の週ベの読者アンケート欄にこのかたの名を挙げて、掲載されましたが、確か読者アンケート内のランキングでも2位にランクインしてたと思います!http://forever545kb.hatenablog.com/entry/2011/10/14/005200
この時にも言及してますが、間違いなく"数字だけやったら、川藤幸三より絶対上"!!ですわな・・・ただセ・リーグOB・阪神OBとパ・リーグ・阪急OBとの差、印象度の差・・・高井氏は、名古屋日産のイメージが強いから愛知県出身やと思ってたら、愛媛県出身なんですな(驚)!1963年に阪急に入団(当時の阪急はベテランが多い陣容やったんで、直ぐにチャンスが来ると思ったらしいです)。ただプロの壁は厚く、毎年二軍では成績を残すもの、守備難や一塁しか守れないという事もあり、一軍では結果を残せずにいた(涙)のちに福本豊・加藤英司が、「プロの打球は、凄いですな!あの選手は、何という名の一軍の選手なんですか?」と とあるかたに尋ねた所、「あの選手は、二軍の選手やで。」と答えられた時に打撃練習をしていたのが、高井氏と言われている!それを聞いた2人は、「エライ(とんでもない)世界に入ってしもたな・・・」と絶望に近い感情を覚えたようです。元々変化球打ちが苦手であったが、長打力を磨き、一軍では元々"代打で本領を発揮出来るような姿勢"でいた。それに磨きをかけた出来事が、ダリル・スペンサーとの出会いで彼を観察していると、頻繁にメモを取ってる事に気付き、スペンサーにクセ盗みのアドバイスを受け、暇さえあればベンチやネット裏席に変装してまで投手の癖や投球傾向や捕手のリードを観察し分析し、メモを取っていた(燃)!それが実を結び、代打の切り札として君臨するだけでなく異例のオールスターにまでレギュラーの選手でもないのに出場、さらにオールスターでも代打で出場して松岡弘からオールスター史上初の代打逆転サヨナラ本塁打を放った(燃)!!!松岡の傾向をオープン戦の時から分析した成果も出たけど、オープン戦が参考になるとは!さらにある年の日米野球で来日したメジャーリーガーが、"高井ほどの素晴らしい打者が、スタメンで出られない・3打席も高井の打撃が見られないのは、勿体無い!日本でもDH制を導入すべきだ!!"と言わしめたという話もあった!!その因果があるかは判らんけど、1975年にパ・リーグが、DH制を導入し、"パ・リーグのルールを変えた男"とも言われてますよね!?余談やけど、"本当はDH制導入に積極的やったんは、巨人をはじめとするセ・リーグ側の方やった、その機運をいち早く嗅ぎ付けたパ・リーグ側が、慌てて思い切ってセに遅れをとるまいとDH制を導入した"という歴史が、あるんやわ!!ただ直ぐに高井氏が、指名打者に収まる事はなく、同年とその翌年の1976年は守備の衰えが見られた長池徳士が座る事となった(汗)長池氏がコーチ兼任を中途半端な立場では出来ないと引退を決意する前年の1977年から高井氏が、ようやくDHの座に就く事になる。スタメンでも、打棒を発揮しました!この頃になるとレギュラーの為、ようやく給与も上がったとみられる。ただ"代打でファンにインパクトを与えて来ただけに、あまり目立たなくなった。自身のアイデンティティが、なくなってしまったな"とも言ってたとか(汗)しかし1980年になると、再び代打のポジションで起用されがちになる・・・長く二軍選手やレギュラーでなかった為、長年「文化住宅」住まいを余儀なくされたし、給与も低くファンからよく"バッターは、高井。給料は、安い!"という野次が、飛んだようです(汗)体型は、背が低く肥満体型やったんであだ名が、"ブーちゃん・ブータン"でもあった・・・広島から阪急に移籍した水谷実雄は自分のベンツと高井のメモの交換を持ちかけたが、高井は提案に応じなかった!引退後はラジオ関西の野球解説者を長く務めた。その他居酒屋経営、次いでスポーツ整体研究所を開いたが、阪神大震災で被災して店舗を失う。その後、52歳で初めての「就活」を行い、ビル管理会社のサラリーマンとして伊勢丹で働き[19]、その後2013年まではJR立花駅前の商業ビルで警備員を務めていた。 マスターズリーグでは、大阪ロマンズに参加していた。 僕は、あなたの様なポジションの選手・職人を絶対に忘れません!!通算成績は、試1135率.269 130本446点 安665 でした。合掌です(号泣)