市川(日)が、ソフトバンクへ金銭トレードで移籍です。髙谷が復帰したんやが、それでも甲斐と髙谷ぐらいしか一軍クラスの捕手は、居ませんからなぁ(汗)2015年には、2打席連続本塁打か2日連続サヨナラ安打か何か打ってたけど、たまにビックリする様な打撃を見せる時が、ありますねぇ(笑)日ハムは、逆にまだキャッチャーをよそに出すかぁ・・・
ただこれはツカミ・・・衣笠祥雄 氏が、急逝されたようです!引退後には、『午後は〇〇おもいッきりテレビ』にもレギュラー出演してたんで、国民栄誉賞も受賞されてたんで"野球を知らない人でも、知ってるかたも多いかも知れません"と書いたんです・・・愛称は、キヌ、キヌさん、サチ です。キヌさんは、平安(現:龍谷大学平安)高校時代に捕手として甲子園に出場しました。1964年オフに広島に入団。入団後、内野手(一塁手)に転向。1968年からとして一軍レギュラーに定着。1974年までの背番号28から、「鉄人」の異名で親しまれており、またその愛称が示す通り、野球選手の中でも小柄な体格でありながら、正反対に飛び抜けて体が頑丈でもあった。負傷しても休まず試合に出場する事も多かった。
1975年にはジョー・ルーツ監督によって「ウチには巨人の長島茂雄を越える三塁手がいるじゃないか」と励まされ、サードにコンバートされる(本当はゲイル・ホプキンスが「一塁手が良い」と言ったのがコンバートの原因だった)。この年、5番打者として4番の山本浩二と共にクリーンナップの一翼を担い、球団初のセ・リーグ優勝に大きく貢献した。特に、オールスターにおける浩二との二打席連続アベックホームランは、オールスター屈指の名場面として語り草になっている。1976年に盗塁王のタイトルを獲得。1970年10月19日の対巨人戦から始まった連続試合出場記録であったが、1979年はシーズン序盤から極度の不振に陥った。5月27日の時点で打率が.198と落ち込んだために古葉竹識監督が翌28日の試合に先発メンバーから外す決断に踏み切った。このために三宅秀史が保持していた700試合の連続フルイニング出場日本プロ野球記録はあと22試合というところで断念させられた。この年は代打、代走、守備固めによる途中からの試合出場が21試合もあった。8月1日の対巨人戦では西本聖から死球を受け、骨折する重傷を負ってしまう。1122試合で連続試合出場記録がストップしてしまう危機が訪れたが、翌2日の試合で代打として姿を見せた。江川卓の投球にフルスイングで挑んで三球三振という記録を残した。試合後には「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにスイングしました」「それにしても江川君の球は速かった」とコメントしている。衣笠が代打で打席に登場した瞬間、広島ファンのみならず、巨人ファン・ベンチからも大きな拍手が起こった。続く3日の試合では2番三塁手としてフル出場をして、その不死身ぶりで周囲を驚愕させた。1980年飯田徳治の保持する1246試合の連続試合出場記録に並ぶ出場タイ記録、8月2日の対巨人戦で飯田を抜く1247試合の連続試合出場の日本プロ野球記録が達成された。1982年も12年連続全試合出場を果たし、王貞治の皆勤11シーズンの記録を破った。1983年8月9日の対阪神戦で史上16人目となる通算2000本安打を達成。
1984年には37歳にして自己最高の打率.329・31本塁打・102打点の成績を残した。打点王を獲得し、同年のチームのリーグ優勝・日シリ制覇に伴ってMVPにも輝いた。1986年6月7日の対阪神戦で2000試合連続出場を達成したが、この時点で打率は.224と低迷。7月の月間打率は.188(64打数12安打)、8月の月間打率は.145(83打数12安打)。7月29日から8月3日までの無安打でついに打率は1割台に転落してしまい、チームもほぼ同時期に首位の座を巨人に譲った。ベンチは衣笠の打順を5番から6番、更には7番と下げながら、それでも使い続けた。終盤は盛り返して優勝したが、苦戦の一つの原因となってしまった。メジャーのルー・ゲーリッグが保持する2130試合連続試合出場世界記録まであと45試合まで迫り、1987年の開幕を迎えることとなった。開幕戦は4打数3安打の猛打賞、2戦目は勝利打点を叩き出すなど好調な滑り出しとなった。6月11日の対大洋戦でついにゲーリッグの記録に並んだ。6月13日の対中日戦で2131試合に到達。この試合で小松辰雄から左翼へ8号本塁打を放って記録に花を添え、広島市民球場を満員にした地元ファンの祝福に応えた。9月21日には満足に守備が出来なくなった事を理由に現役引退を表明した。最終出場試合となった対大洋戦の10月22日に2215試合連続出場を果たした。1976年に盗塁王を獲得するなど史上3人しかいない500本塁打、200盗塁(他は張本、山本)を記録し、ゴールデングラブ賞を3度受賞した屈指のオールラウンド・プレーヤーでもある。山本・衣笠のYK砲は球史に残る強力なコンビであった。2人のアベック本塁打は86本を数え、巨人の王貞治・長島茂雄(ON砲)の106本に次ぐ日本プロ野球史上2位である。打順は、5番を打つ事が多かったが、1976・77年のメインは1番、78・79年はこんな強打者が7番打者が、メイン!82年は2番打者(←現に79年の日シリでも2番でしたもんね)、85年は、6番をメインに打ちました。
引退後は、1988年からTBSの解説者を務める。一方で、朝日新聞嘱託で運動面のコラム(「鉄人の目」)を受け持つ他、コメンテイター等タレント活動も行う。1996年、野球殿堂入り。1970年、最大の恩師というべき関根潤三が打撃コーチとして広島に入団。根本陸夫監督は「衣笠をリーグを代表する打者にしてくれ」と頼み、それを受けて関根は、衣笠にマンツー・マンの過酷な練習を課した。朝・昼・夜の練習が終わり、他の選手が休んだり遊びに行ったりする時間に入っても、更に宿舎の屋上でバットを振らせていた。あまりにも厳しい練習に耐えかね、ある晩衣笠は、関根を無視して飲みに出かけた。そして夜中の3時過ぎ、もうそろそろ良いだろうと宿舎に帰ってくると、何と玄関で関根が待ち構えていた(寮の全てのドアに施錠をしないのは、全部閉めると、また遊びに出掛けてしまうから、敢えて1箇所空けておく)。関根は怒りもせずに「さあ(分かってるな、サチ)やるぞ」とバットを手渡し、観念した衣笠は、泣きながら朝まで素振りを続けた(但し関根は2008年のフジテレビ739『プロ野球ニュース』において「素振りさせたけど、最初は反抗的な目だったからこっちも意地になって朝まで付き合った」と語っている)。後年衣笠の野球殿堂入りが決まった時、関根は『プロ野球ニュース』に出演し、この時の出来事を思い出話として披露。「いやあ、あの頃は僕も若かった」と照れ笑いを浮かべていた。1979年の「江夏の21球」で知られる日シリ第7戦では、古葉竹識監督の投手起用に不満を抱きモチベーションが上がらない江夏を「お前がやめるなら俺も一緒にやめてやる」となだめた。チームメイトだった江夏豊とは無二の親友で、プライベートでは常に行動を共にしていた。現役時代は「当てる」バッティングを全くせず、常にフルスイングで打席に臨んでいた。そのため本塁打や打点が多い反面、三振や凡打も多く、これほどの通算成績を残しているにも関わらず、シーズンを通して打率が3割を超えたことがたった1度(1984年)しかない。通算三振数は1587個(当時日本記録)、通算併殺打は267(セ・リーグ記録)に上る。田淵幸一が1970年8月26日の対広島戦で外木場義郎から左こめかみに死球を受けて病院へ搬送されるほどの重傷を負った事を切っ掛けに耳あて付きヘルメットが導入された際に、「視界が遮られ、逆に頭部付近のボールから逃げられなくなる」と反対した。この主張が認められ、プロで一定年数活躍した選手には例外的に耳なしヘルメットが認められた。←これは、知らんかったし、載せておきます。 19日のDeNA×巨人では、かなりの体調の悪さで解説をしていたようです・・・これが、最後の公の場になりました(号泣)亡くなる4日前まで現場に居たなんて、"引退後も鉄人"でしたな!なお、「背番号3」は、"広島の「永久欠番」"である!かつて野茂英雄も敬愛した"衣笠さんの様な人が、何故監督になれないのか?"と評する・人格者であったかたが、亡くなったんですな・・・通算成績は、試2677率.270 504本1448点 安2543 でした。504本塁打は、張さんと同数です。→こんなんは、覚えてます(爆)合掌です(涙)