GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

偏重チームとキャンプを2/1からしなかったからか?・・・

2024-06-09 18:37:30 | 野球

 今更やけど、西武が松井稼頭央 監督の休養により渡辺久信GMが、代行監督に就任しました。日本では休養っていうのは建前で解任なのは、言うまでもないけど・・・最後2連勝で締めたとはいえ、交流戦開始を節目に事前に決定してたんでしょう(汗)まぁ苦戦する事は見えてたし、あまりに勝てんと打線のひどさだけやなく、良かった投手陣にまで影響して来るからなぁ・・・いくら"投手は防御率が、指標"といえど(涙)ここに来て防御率まで悪化して来たな。投手偏重チームとキャンプの経費をケチって(←冨吉の発言は、ネタやと思うけど)2/1から始めんかったから低迷を招いたんかな?・・・代行監督は、てっきり平石ヘッド兼打撃戦略コーチがするもんやと思ったけど、フロントを含めた編成の責任という事でナベQが全責任を負ってユニホームを着る事にしたんでしょうなぁ。

 ナベQの現役時代について書いた事がなかったんで、また参考になれば・・・高校屈指の速球投手という触れ込みで1983年オフにドラ(外れ)イチで西武に入団。さらに体のバネだけでなく、その容姿の良さも手伝って球界一のプレーボーイ(遊び人)とも謳われる(笑)ほぼ同世代の工藤公康も今年の月ベ5月号で「僕は西武時代、自分をエースと思った事は一度も無い。チームにエースは複数なんて存在しないし、体力や体格や持ち球やスピード全てを持っていた渡辺久信君が、エースと思ってましたよ。当時の西武のエースは、ナベ」と敗北宣言をしていた。ただ現役であった期間や勝利数は、圧倒的に工藤氏の方が上回りましたけどね!プライベートでは、工藤氏・清原和博と共にファッションなどにも気を遣うという価値観を見出す傾向の「新人類」とも呼ばれ、流行語にもなった。快速球とフォークを武器にルーキーイヤーから一軍に定着し、2年目の1985年は先発とリリーフを兼務11セーブを上げ、日シリにも登板。翌年は先発ローテの柱となりチーム最多の16勝を上げての最多勝を獲得、奪三振王も獲得したが、パ・リーグでのタイトルとなったのは1989年からなのでこの年の最多記録のみとなってる(86年から90年までに69勝、15勝以上4回という成績をおさめ、ライオンズ黄金期の中盤を支えた。以降、成績は下降線を辿るが、90年以降は工藤が安定し結果長期にわたるライオンズ黄金期が生まれた)。1988・90年も最多勝を獲得するなど、西武黄金時代の柱としてチームを支えた。88年、中日との日シリ第1戦、第5戦に登板し、第1戦は8回途中を1失点に抑え勝ち投手になり、第5戦は3回途中4失点(自責点は3)で勝ち負け付かずであったが、日本一に貢献した。翌年10月12日、熾烈な優勝争いをしていた近鉄とのダブルヘッダー第1試合で途中登板したものの、ラルフ・ブライアントに勝ち越しソロホームランを打たれた。結局西武は同日のダブルヘッダーを2試合とも落とし、同年の優勝を逃す要因となったが。ナベQは引退の記者会見で最も心に残る場面として「後悔しないように、一番自信があった直球で勝負を挑んで(失投でもなく、今までブライアントに打たれた事のなかったコースに決まったけど)、ものの見事に打たれた」と、この場面を取り上げている。1990年の日ハム戦に先発した彼は、11回途中までノーノーも打線の援護も無くついに安打を打たれノーノーは未遂で終わった。ただ勝利投手にはなった。巨人との日シリも第1戦の先発投手を務め、チーム4連勝の勢いを付ける完封勝利を記録!!91年は、開幕戦を完投勝利で飾った後は不振に陥り、自身初の防御率4点台を記録し、勝敗も初めてシーズン負け越しを記録した。ただ広島との日シリでは経験もあってか、復活を遂げチーム日本一に貢献した。92年は少し復調したものの、防御率は3点台後半で終わった(汗)さらに1993年は、シーズンでは自己ワーストの14敗を記録。日シリで第3戦で勝利投手になったが、第7戦で敗戦投手となり日本一を逃した。なお自身のシリーズ敗戦投手は86年の日シリ以来の11試合ぶりの敗戦投手(リリーフ登板)で先発登板での敗戦投手はこれが最初で最後だった。ただ翌年は、4シーズン振りに勝ち越し、自身最後の規定投球回をクリアしたシーズンとなった。9勝8敗の成績でチームの5年連続リーグ優勝に貢献した。巨人との日シリでは2年ぶりに開幕投手を務め、自身最後のシリーズ勝利投手となったが、チームは日本一を逃した。翌年東尾修が監督に就任した辺りから、衰えが見え始め中継ぎに配置転換もされ、それでも結果が出ず二軍降格。終盤に一軍に昇格し抑えを経験した。復帰後抑えに回ってからは11試合2勝0敗5S防御率1.65の好成績だったが、本人の先発志向が強かったため、翌年も先発投手としてシーズンを迎えた。さらに翌年には、対オリ戦でノーヒットノーランを達成!!シーズンでは、開幕からローテーションに入り、チームが下位に低迷する中でノーヒットノーランを記録した6月まで、西口文也の9勝に次ぐ6勝(4敗)と奮闘していたが、そのあと失速し、チームが若手主体に切り替えたことにより二軍降格し、そのままシーズンを終える形になった。翌1997年は主に谷間の先発を務めたが、プロ入り初の一軍未勝利に終わっただけでなく、ヤクルトとの日シリでも第3戦に救援登板したが、捕手が出した変化球のサインを見間違えストレートを投げた結果、古田敦也に勝ち越しホームランを打たれ、さらに投手の高津臣吾に適時打を打たれるなど不本意な結果となった。同年オフ、チームの若返りを図る球団方針で戦力外となり、同級生の古田とバッテリーを組んでみたい・配球の勉強もしたいという想いからノムさんが監督を務めるヤクルトへ移籍。1998年は「野村再生工場」での復活を期待されたが、速球にこだわるが故に速球を痛打される機会が目立った。この年優勝する横浜戦で3年ぶりの完投勝利を挙げたが、結局この1勝に終わり、19試合の登板で1勝5敗、防御率4.23の成績で終わった。ただ、本人は後に「野村さんの下で1年やってみて、指導することの面白さを感じていました」とも語っており、ノムさんの下で自らの野球経験を理論化し整理する良い機会になったとしている。同年オフ、再び戦力外通告を受けた。そのまま引退するつもりでいたが、トンビ(東尾)の"海外の野球を経験した方が、引退後直ぐに解説をするより絶対に役に立つから、海外で現役を続けなさい"というアドバイスを受け、台湾球界に挑戦。投手兼コーチに就任した。緩いカーブやシュート等緩急を駆使した投球の結果、入団1年目から18勝で最多勝・最優秀防御率のタイトルを獲得(奪三振も1位だったが当時の台湾大聯盟では最多奪三振のタイトルは存在しなかった)するなど、台湾球界を代表するエースとして活躍した。また、西武在籍当時の同僚であった郭泰源や、台湾に来た石井丈裕らとともに台湾球界の発展に努め、日本で活躍の場に恵まれない選手にも道を開いた。2001年シーズン途中に現役を引退し、コーチ業に専念した。台湾での経験について、ナベQは自著『寛容力』の冒頭で「指導者としての原点は台湾での3年間にある」と語っている。

 2002年には日本に戻り、野球解説者。2004年に二軍投手コーチとして西武に復帰。翌年から二軍監督兼投手コーチ、2007年からは二軍監督専任となる。2008年に前年チーム5位となった西武の一軍監督に就任!口説き落として入閣させたデーブ・大久保打撃コーチとともに作り上げた1番に片岡易之・2番に栗山巧と攻撃的2番や6番に石井義人、9番にヒラム・ボカチカと続く重量打線の「ノーリミット打線」を引っ提げ、就任1年目でパを制覇する!投手も2年目の岸孝之を筆頭に中々の成績を上げ、巨人との日シリも4勝3敗で日本一に導いた!!が、優勝したのは唯一この年だけであった・・・しかし!2009年の4位以外は、2013年で退任するまで毎年の様に優勝争いをしAクラスに入っていた!2011年以外は、ほぼ優勝争いに近かったんやないかな(汗)?まぁ前回の監督時よりも、随分苦戦する陣容やけど、どうなるやろな?前途は厳しいけどなぁ・・・

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