GRの戯れ言日記2

途中まで元々閉鎖された別会社のブログを引用して来た物。2017年2月から本格始動。それ以前は、はてなブログに書いてます。

同じ姓が多いんやが・・・

2024-06-12 19:02:55 | 野球

 若生智男(毎日・大毎―阪神―広島)氏が、亡くなりました。若生氏は1955年オフに毎日へ入団し、2年目の1957年に初勝利を記録。60年には初の2桁となる13勝を挙げ、規定投球回にも達しリーグ優勝に貢献!大洋との日シリでは第2戦に先発、第3戦は2番手で登板。大柄でがっちりとした体格からあまり体に負担をかけない投法で、小野正一に次ぐ投手として活躍。打たれて悩んだ時には荒巻淳が支えとなり、若生氏も一軍で荒巻氏のゲーム運びや、投げる姿を参考にして、自身の成績に繋げた。当時は球界屈指のスピードで「火の玉投手」と言われた荒巻の球速がありながら、力任せに投げない姿は参考になった。62年には2年ぶりの2桁で自己最多の15勝を挙げる。64年には阪神との大トレードで移籍。5勝にとどまるが、南海との1戦目・6戦目に2番手で登板。投手王国・阪神では、先発と中継ぎの両刀使いで活躍し、首脳陣から重宝される存在であった。1966年には4年ぶりの2桁となる10勝をマークし、防御率は自身唯一の1点台でリーグ3位の1.96を記録。翌年もリーグ2位の防御率2.14の好成績を挙げる。1969年~71年まで3年連続2桁勝利をマークし、その間の70年からは投手コーチを兼任。72年には5試合登板で1勝、選手専任に戻った73年には25試合登板と盛り返すも0勝5敗に終わる。1975年広島に移籍し、先発ローテーションの谷間を埋めて初優勝に貢献!!初セーブも記録し、阪急との日シリでは第2戦・6戦共に5番手で登板。翌年の1976年に1Sを挙げ現役を引退。大毎・阪神・広島でリーグ優勝を経験しており、3チームから日本シリーズに出場。これはプロ野球史上初めてであったが、日本一には1度もなれなかった。引退後は広島一・二軍投手コーチ、ロッテ一軍投手・一軍チーフ投手コーチ、阪神一・二軍投手コーチや編成、ダイエースカウト・二軍投手コーチ、横浜二軍投手コーチを歴任。そのごも全日本女子チームの臨時コーチや大阪ロマンズでマスターズリーグでも最年長投手としてプレー。千葉のクラブチームの選手兼監督やプロ野球OB戦にも登板して、1回無失点で抑えるなど、村田兆治ばりの元気というか奮闘ぶりを見せつけた。中学生や高校生への指導も並行しながら、解説者も務めた。2020年からは高校の外部特別コーチを務めました。コーチ時代は選手時代からの実績・体力・理論・人間性を兼ね備え、「投手育成名人」として知られた他、評論家時代のノムさん曰く「ローテーション堅持保持者」であった。若生忠泰(忠男)[西鉄―巨人]も同じ若生姓とあり彼とごっちゃになるのは、僕だけやないやろうけど、西鉄に居たか大毎に居たか巨人に居たか阪神に居たかの違いで見分けられるかも・・・通算成績は、試267 121勝120敗2S 防2.71 でした。お悔やみ申し上げます(涙)

 それと鈴木隆(大洋―東京―大洋)氏も亡くなられました・・・社会人時代は鳴り物入りの存在で12球団全てからスカウトされたが、好待遇の巨人を断り1957年オフに大洋に入団。シャイで職人肌の反面マウンドでは非常に気性が荒く、キレの良い球で内角をグイグイ突くピッチングで、ルーキーイヤーの1958年から主戦投手として活躍。2試合目にしてプロ初勝利を初完投・初完封で飾る。同年はエース・秋山登に次ぐ58試合に登板し15勝、防御率2.72(リーグ8位)の成績を挙げた。また同年からオールスターにも3年連続出場を果たす。60年からは三原脩 監督の意向により先発からリリーフに転向。当初は「先発完投こそ投手」と転向に対して不満を持っていたが、次第に三原野球における自身の役割を理解し、最終的にはやりがいを感じるようになる。6/1の巨人戦では、8者連続奪三振のセ・リーグ記録を達成した。シーズンの成績は5勝11敗だったが、大洋は6年連続最下位からチーム初のリーグ優勝を果たす。大毎との日シリでは第1戦に先発するが、1回にいきなり1安打1四球を与え秋山登に交代。第3戦にも先発し今度は4回まで無失点に抑える。5回にツーランを喫し降板するが、チームの4連勝に貢献、日本シリーズ初優勝に力を添えた。64年にはリーグ最多の70試合に登板。1966年に東京へ移籍。68年には大洋に復帰したが、無勝利で現役を引退。引退後は、大洋で1969・70年は一軍投手コーチ、1971年・ 72・75・76・85年は二軍投手コーチ、1973年は二軍チーフコーチ、1974年は二軍監督、1986年は二軍チーフ兼投手コーチ、1987~93年はスカウトを務めた。その間、1971年には黒い霧事件で謹慎処分を受けた。77~84年まではニッポン放送・テレビ神奈川で解説者として活動。87年からはスカウト兼任で再びテレビ神奈川に解説者に就任し94年からは専任となる。2005年に勇退。また、ホエールズのOB会副会長も歴任しました。中大時代に早実高とよく練習試合をしていて癖を知っていたこともあり「王貞治キラー」であった。上記8連続奪三振も8人目は王だった。また、鈴木氏が登板している試合で初回にチャンスを迎えた時に第1打席から代打を送られたり、ワンちゃんが22年の選手生活で唯一のスクイズバントをしたのも鈴木相手である。1962年7/1の対大洋戦でワンちゃんが一本足打法を試合で使う決心をするきっかけも、前日鈴木氏に抑え込まれた事がきっかけであった。一本足打法によってワンちゃんは大ブレイクを遂げ、鈴木氏もこの年初めて王に本塁打を許した。また、1964年9月6日の対巨人戦でノムさんが持っていたシーズン本塁打記録に並ぶ第52号を許した(ちなみに新記録の53号は同じ試合で、2013年にウラディミール・バレンティンに更新されるまでのシーズン記録55号も、いずれも大洋の同僚投手が被弾された)。しかしながら、それでも鈴木氏が移籍するまでの4シーズンでワンちゃんに許した本塁打はわずか6本、通算対戦成績は85打数21安打22三振で、対戦打率は.247、安打より三振がわずかに上回っており、ワンちゃんに対し好相性であった。通算成績は、試519 81勝102敗 防3.21 でした。お悔やみ申し上げます(涙)

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