「ヤクルトは、DHを誰にするんかなぁ?」と思ってたら、独立リーグから緊急補強した新助っ人外国人のデニングでしたな。交流戦の醍醐味・楽しみは、"セ・リーグのチームは、DHに誰を起用するか!?考えたり、蓋を開けてみてこの選手か"って思う所も1つですからな(笑)で、外野の中堅に藤井(左)・左翼に三輪(左)を使ってましたね。さらに遊撃は、好調の今浪(左)!まぁ相手先発投手が左なら、西浦でしたでしょうけど。試合としては、5回裏一死、一・三塁で代打・慶三(川島)が送られて、スクイズファール→セーフティースクイズも、三塁走者憤死でしたが、僕はヒッティングで行って欲しかった・慶三のバッティングを観たかったな(落ち込み)ヤクルトでは、中継ぎで投げてた秋吉が、「サイドスロー」の投球フォーム同様いやらしかったですな!ただコントロールも曲者のようで、バラつきありまくりでした(ウインク)"9回表も最初から今季神の防御率0.00のバーネットで行きゃあ良いもの"を、色気を出して「温存」してでのロマン起用が裏目に出て、「ヒヤヒヤ劇場」開演でしたなぁ(汗)ただ今季の交流戦のセ・リーグ、強いっす・・・
それと宮崎剛(<現役時代>大阪・阪神軍・大阪―宇高・熊谷―阪急―大洋・大洋松竹・洋松・大洋<監督>大洋)氏が、亡くなられました。宮崎氏は、1940年に大阪へ入団し翌年まで在籍。1946年に大阪に復帰したが、翌1947年に国民リーグ・宇高へ参加。同年秋季リーグでは首位打者を獲得。国民リーグ崩壊後は阪急に在籍。現役引退後は大洋のコーチとなり、1972年・1974年には監督も務めた(1972年は別当薫監督の代理を務めた青田昇監督の更に代理だった)。僕は、"当然「知識」として名前だけは、知ってる"っていうレベルでしたね(汗)"貴重な「国民リーグ」出身者"とは、知らんかった!!通算成績は、試1049 率.234 28本287点 安949/試204 89勝109敗6分 率.449でした。合掌です(涙)
「LIFE!のスピンオフ番組 第2弾」ですね。ただ今回は、"各グループのネタや即興リアクションでのオーディション"は、無く(落ち込み)いつものLIFE!以上に俳優とのコラボが多く、「ユニットコント番組」でしたね。まぁ普段のLIFE!がユニットコントですけど、あれは殆ど俳優とのコラボなんで、あんまり大きいものは期待してないんですが、そこに多くの芸人が加わるってなると、"僕のハードルは、高くなり"ますわなぁ(汗)僕はユニットコントよりも個々のグループ(コンビ)のネタが好きなんで、やはり前回と同様のオーディション番組が、観たかったですね(困)(少笑)←しかし楽しかった所もあったんで、"ガッカリ半分・嬉しさ半分"って所なんですよ・・・個人的には、「かもめんたる作のコント」が、一番良かったですね(笑)何か不快感が残る所もあったけど、その"微妙な観点を突く所"や「人間の深層心理・会社経営のトップの言動・近年の若者の思考とかが現れてた所」も、彼らの良さやと思うんで(OK)
ベテラン女性漫才コンビの今いくよ(今いくよ・くるよ)さんが、亡くなられましたね。"漫才を観た事がなかった小学生時代の僕でも、名前だけは知ってたぐらいでしたから、外見も含めてかなり「インパクトも知名度(→この点は、今言わないでも良い事ですが、吉本所属やからというのもあったと思います・・・)もあったコンビ」"やったんでしょう。1970年OLを辞め、島田洋介・今喜多代に弟子入り。1973年に初舞台を踏んだが、初舞台以降もスポットライトが当たることがなく、ようやくフジテレビ系『花王名人劇場』に出演するチャンスを得たものの、吉本興業から「これでウケなかったら最後」と通告された。2人共最後の舞台として全力で演じ、見事大爆笑をとり、2人の漫才はカットされずに全国放送された。翌日よりテレビ、ラジオその他からの出演依頼が殺到。苦難の末、ようやく本格女流漫才師として日の目を見る事となった(ここまでWiki参照)。経歴はさておきそういえば、「金ちゃん焼豚ヌードル(徳島製粉)」のCMにも出てたし、KBS京都・サンテレビのローカル番組の『吉本はまぐり御門劇場』はレギュラー番組で加えて番組内では、当時若かった事もあり、当時妻子持ちを隠してた高山(現:ケツカッチン・当時はピン)さんを「アイドル芸人」扱い(鼻が高くて、イケメンやしね!)していくよさんは"高山さんと腕組んでの恋人気分"で京都の街を歩きながら、「高山君、高山君。」って言いながら後輩芸人を可愛がってましたなぁ(少笑)その後も中川家がレギュラーになる前の『満開!ハッスル家族』では、高山さんの母親役が、くるよさんで、くるよさんが体調不良で一時期番組を降板した時は、いくよさんが代役で母親役をした時もありましたなぁ、何かと高山さんといく・くるは、縁があったんですね!さらにベイブルースと境遇が似てた(共に野球部とソフトボール部でコンビの片割れの一方が、レギュラーでもう一方が補欠)から、高山さん出演のナンバ壱番館もいく・くるがゲストやったしな。
彼女らに対して謝らないとイカンのが、やはり"くるよさんの衣装がネタ時間が経つにつれ、下にズレ落ちて行き、ネタの進行が悪くなるが、特に年配の客層には大ウケする"という もしかしたら「狙ってでの笑いの手法」やったんかも知れませんが、一時この手法を"僕が批判してた所!!"ですわ(すいません)"ベテランやから、優遇されてて、手抜きやがって!!"なんて思ってました・・・彼女らの漫才も嫌いにもなり、喜味こいし師匠が「嫌いな漫才も観る事(は、凄く大事)。」という格言を聞くまで、僕は"いく・くるの漫才を早送りしてた時もありました"!でも!こいし師匠の教えを旨に彼女らの漫才を再び観るようになったんです。しかし"舞台裏では、芸人の皆さんは、闘病しながら、ヘド・ゲボなどを吐きながら、それらをおくびにも出さず舞台上では、必死にネタをやってる"んですね!!!だから安易に我々客が、「ああだ、こうだ」批判するのは、こういった点を見過ごしがちなんですな(落ち込み)
加えて暁照雄(暁照雄・光雄)師匠も亡くなったようです!つい数ケ月前までラジオ関西の『角座演芸アワー』に普通に出てたのに(涙)照雄師匠のスタートは、"宮川左近ショー"やったらしい(←まぁ宮川って入ってるからなぁ[汗])。元宮川左近ショーの1人という事ですね。当初のコンビ名は、「暁照夫・光夫」!いつの間にか色ものではなくなった"しゃべくり漫才"は、殆どやる事がなく典型的な"三味線を使った「音曲漫才」"を披露していたコンビでした!!ネタの約8割が、黙ってでの三味線演奏の時間(ウインク)余談ですが、"昔は「音曲漫才」が、正統派で「しゃべくり漫才」が色もの扱い"やったんですよね(燃)今や"完全に立場が入れ替わって、逆になってしまいました"が(汗)"近代漫才の祖"・「しゃべくり漫才」の元祖は、横山エンタツ・花菱アチャコ、いとこい先生らなんですよ!!←うっ!いつの間にか知識のひけらかしが(困)"三味線ばっかりで飽きるしいつも同じパターン(演奏8割)やから、ウザいって思った時もありました"が、「(演奏能力は)凄いなぁ」といつも面白いというより感心させられてましたわ(拍手)ほんで、それも愛おしく思えてただけに、残念です!で、いつも同じオチの照雄:「もう何でこないに上手いんやろう」光雄:「自分で言うーんかい(時には、自分で言いな・自分で言うな)!」も"聞かないと、彼らのネタを聞いた気がしない"域にまで達してました(ウインク)両者とも、本当にお疲れ様でした!!!!
ただ"自己陶酔"かも知れませんが、芸人さんを含め拙ブログをご覧の皆さんにも言いたいのは、"僕はそれだけお笑いの事を想ってる・お笑いを愛してる・お笑いの世界がもっと良くなって欲しいと願ってるから、色々言いたくなる"という事だけは、理解してください!!
"大してええ番組もないのに、「視聴率三冠」とかいって浮かれてる"日テレに抗議メール送った所で眉一つ動かしてへんねやろな!!「ぐるナイのおもしろ荘のコーナーのテロップ廃止」の抗議メールを送りましたが、全然廃止されてへんし、改める気配すら無い!まぁエンタみたいな番組を臆面も無く流してるような放送局に期待する方がアホでしたし、僕の意見が通る訳ないわな(激怒)(怒)(激怒)こんなクソコーナー、さっさと止めちまえ!!僕がレッドカーペット・エンタへのバッシング訴えやテロップ廃止を求めてる事は、"お笑い界の世直し"なんだよ(燃)
「法政三羽ガラス」と謳われ、鳴り物入りでプロ入りした富田勝(南海―巨人―日本ハム―中日)氏が、亡くなられました・・・ちなみに"法政三羽ガラス"とは、法政大学を指すのは当然の事ですが、「東京六大学野球」の名門大学の1つですが、この年の選手達は、法大に限らず逸材だらけで凄かったんです!!何しろ富田氏の他に法大には田淵幸一・山本浩二(浩司)、明大・星野仙一、亜大・大橋穣、近大の藤原満・有藤道世(通世)など錚々たる顔触れが(燃)富田氏は、1968年オフにドラフト1位で南海に入団しました。1年目から75試合に出場。翌1970年はレギュラー三塁手に定着、23本塁打を放ち、規定打席にも到達する。翌年は外野手も兼ねるが打撃面で伸び悩み、1972年のシーズン後半は故障もあって欠場が多かった。同年オフに、「長嶋茂雄の後継三塁手候補」として、川上哲治監督からの強い要望があり、トレードで巨人に移籍。ノムさん曰く南海は、"富田を出すんやから、かなり大物でないと釣り合わん。そう考えてたんで、新浦壽夫(寿夫)とのトレードを要求した"が、「新浦はエース候補、出せん!」とあっさり断られたんは、ケチである川上さんらしいとの事 という話も!(困)1973年は、あまり成績は奮わないながらも、9連覇達成に貢献した。僕としては2007年にハマスタで隣の席に居た横浜ファンのおじいさんが「法政の富田は、巨人に来て長嶋と同じポジションだったから、活躍出来んかったんだ・・・」とおっしゃてたんで、僕も"そのイメージが強かった"ですね(落ち込み)翌1974年は三塁手、二塁手として43試合に先発出場、打撃も復活し活躍する。1975年には、成績不振などから出番が減り、同年オフ日本ハムに移籍(汗)最初の2年間はレギュラー三塁手、1978年に二塁手・外野手に回る。中心打者として活躍し、打率3割を2度記録した。1981年に中日へ移籍。1981年は92試合に出場したが、翌1982年はレギュラー陣の好調や若手の台頭もあり出場機会がなく、同年限りで現役引退した。ちなみに1981年8月26日の宇野ヘディング事件と同日の対巨人戦にて史上2人目の「日本プロ野球全球団から本塁打」を記録している。引退後はテレビ東京、中京テレビで野球解説者を務める傍ら、『ビートたけしのスポーツ大将』内で野球チーム「たけし軍」の助っ人として活躍するなど、タレントとしても活動していた。その後球界から遠ざかり、大阪で警備会社を経営していました。他の同世代の選手に比べると、通算成績で見劣りしてますし、僕としてはどうしても「立教三羽ガラス」の本屋敷錦吾同様"プロに入ってからは、あんまり活躍せんかった選手"の印象が、在りましたなぁ(すいません)通算成績は、試1303 率.270 107本451点 安1087 でした。よう見たら!通算1000本以上もヒット打ってるやんけ!!!合掌です(涙)
そういやぁ法政で思い出したけど、法大が相手やって東大がこないだチームとして100敗目前で久々に勝利を挙げたんやったなぁ(大笑)