「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」は伊勢神宮を参詣した西行がうたったとされる有名な歌だ。ここにどのような神がいらっしゃるのかは知らないが、身にしみるようなありがたさがこみ上げてきて、思わず涙がこぼれてしまった、という意味である。
伊勢神宮の神々しいただずまいに触れた折りに、紀行文などでこの歌が引かれるのはよく見かける。が、そのいっぽうで古来、この歌は西行の真作であったかどうかの議論もある。ちなみにこの歌があげられているのは、「西行法師歌集」の三系統ある系統中、「板本系」のみなのだそうで、これだけでもちょっと怪しい感じがする。
私も昔はこの歌が好きだったが、今は偽作じゃないかと考えるようになっている。そう考える理由はこうだ。「かたじけなさに 涙こぼるる」とあるが、ではどうして作者がそんなにかたじけなく感じたかがここでは全然、言葉で説明されていないのだ。
むろんこれに対しては、「ここでのテーマは伊勢神宮のあの神々しいたずまいのことで、どうしてかたじけなく感じたかなんて説明されなくてもただちに共感できるし、ましてやそのことで欠落感など感じない。」という反論があることだろう。
だが、ここは意見が別れるところかもしれないが、私はやっぱり欠落感を感じる。それも大いに。そもそもこの歌のテーマとなっている神宮の神域の神々しさを率直にうたうとすれば、神宮を訪れたらそこにある「○○」に触れていたく感動した、というふうになるとおもう。この場合、「○○」のところには「神々しさ」とか「神さびた趣き」とか「床しさ」とか色々な言葉が入るのだろう。それは歌人が自分の言葉でさがせば良いことだ。
だが、この歌のどくとくな点は(そしてそのことが印象的にさせ、さらにはこの歌を有名にしているのだが)、言葉で伊勢神宮の神々しさを説明することをあえて放棄してみせていることにある。「どういう方がいらっしゃるのか分からないが、身にしみるようなありがたみがこみ上げてきて、思わず涙がこぼれた。」── 、ここには「○○」に入る言葉を探そうなんて気持ちははじめからない。ただ何が何だか言葉では説明できないありがたみに圧されて落涙してしまった、というだけなのだ。
普通の人が作ったのだったら、これでも良いだろう。だが、詩人である西行がこれを作ったというのならば問題がある。というのも、これでは言葉で処置できないことがらの存在を認め、あまつさえ大いにそれに心動かされて涙まで流してしまった、ということになるからだ。言葉をもって世界と渡り合うことを本務とする詩人にとって、これは敗北宣言に等しい。だから私は、この歌は西行のような本物の詩人の作ではなく、ディレッタントのそれであり、もし西行が生きていてこの歌が自分のものだとされていることを知ったら気を悪くしてもとうぜんだとおもう。
内宮
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