神社の世紀

 神社空間のブログ

(2)伊勢津彦探しは神社から【風間神社】

2010年07月03日 19時56分22秒 | 伊勢津彦

 と言うわけで、私は伊勢津彦の原郷は洋上にある大気の王国で、天日別命に敗れた彼はそこに帰っていったと考える。あるいは帰還後の伊勢津彦は日神として再生し、東海を輝かす太陽を司るようになったかもしれない。その場合、彼のことが迂遠なルートをたどって皇室神話に取り入れられ、やがてアマテラスという別の太陽神が誕生するきっかけとなった可能性もある。

 だが、そのいっぽうで『伊勢国風土記』逸文には国譲りした伊勢津彦が「逃れて信濃に往来けりといふ。」とある。
 この一文は割注の形をとっていて、後世に挿入されたものと言われている。しかし伊勢津彦の退去先が信濃であったという伝承にはそうおうの根拠が感じられ、興味ぶかい。

 この伝承はタケミカヅチ神と闘って敗れ、出雲から信濃の諏訪まで逃走したタケミナカタ神のことを思い出させる。タケミナカタ神と伊勢津彦には、他にも風神であるとか出雲とのつながりがあるとか機能とか内性面において似ているところがあり、ここから本居宣長をはじめとする諸家によって、伊勢地方から放逐されて信濃に入った伊勢津彦がタケミナカタ神になったという説が唱えられてきた。

  •  伊勢外宮の神体山ともいわれる高倉山には岩屋があり、神話の中でアマテラスがこもった天石戸ともされるが、伊勢津彦の住居とする伝承もある。
     いっぽう、高倉山とつづいている高神山には客神社というのがあり、弘安八年(1285)の『神名秘書』によればタケミナカタ神を祀る神社である。宣長はこうしたことを根拠に伊勢津彦=タケミナカタ神、同神説を説いた。

     現在、高倉山の岩屋は7世紀代に築造された古墳の巨大な横穴式石室であることが分かっており、また、伊勢津彦とタケミナカタ神を同一視する言説が隆盛するのは江戸期以降で、それ以前では中世の『詞林采葉抄』が「建御名方神は伊勢より風神と共に信濃国諏方郡へ遷り給ふ。然者、風神は伊勢・諏方両所にをわします ── 。」などと両神を関連づけているものの(それでも同一神とは言っていない。)、上代以前にこうした言説はみられない。こうしたことから、両神を同一神とする説は現在、ほとんど否定されているといって良いだろう。

 こうした「伊勢津彦=タケミナカタ神、同神説」は現在、ほとんど否定されているが、しかしそうであるとしても、伊勢で伊勢津彦を祀っていた勢力の信濃入りというような史実がここに反映している可能性はある。すなわち、信濃は山国でありながら『和名抄』に安曇郡をはじめとした海人族にゆかりのある地名が多く見いだせ、またその安曇郡には式内明神大社の穂高神社があり、祭神として中殿に穂高見命を祀っている。穂高見命は『新撰姓氏録』などにワタツミ神の神子として名前が見えており、海人族の祖神だった。このように信濃は、古代において海洋民族が進出し、活発に活動していたことをうかがわす事例に事欠かない地域なのである。

穂高岳と明神池

前穂高岳とその姿を映す明神池。
穂高岳は穂高神社の神体山であり、この池のほとりには当社の奥宮として小さな社殿が鎮座している。
明神池は穂高見命の神霊がミアレする最高の聖地だったのだろう。
周辺は上高地でもっとも高名な観光スポットであり、異常なほど美しい。

 

 いっぽう、伊勢地方も海人族の一大拠点だったのであり、伊勢津彦もほんらいは彼らによって祀られていたことが考えられる。したがい、大和王権の圧力を逃れた彼らの信濃入り、といったような史実がこの割註に反映している可能性は否定できないのである。さて、その信濃に伊勢津彦を祀った神社がある。長野市大字風間にある風間神社である。信濃国水内郡の式内社だが、伊勢津彦を主祭神とする全国で唯一の神社である(『平成の祭CD』調べ)。 



風間神社

  •  長野県長野市大字風間字宮河原にある風間神社は、信濃国水内郡の、同名の小社に比定されており、『平成の祭CD』で調べると伊勢津彦命を祀る全国で唯一の神社である(『式内社調査報告』では祭神として、伊勢津彦の他に級長津彦命と級長戸辺命もあげられている。)。長野駅の東方、3kmほどのところに鎮座。

 風間神社の祭神を伊勢津彦と考証したのは有名な国学者の伴信友であるが、当社で伊勢津彦が祀られるようになったのは信友のこの説を取り入れた結果だろう。それ以前に当社で伊勢津彦が祀られたことがあったかどうかは分からない。
 ちなみに信友は、やはり水内郡の式内社、伊豆毛神社の祭神のことも伊勢津彦だとしている。彼によるこうした考証にはどういう根拠があったのだろうか。おそらく、伊勢津彦が信濃に退去したという『伊勢国風土記』逸文の割註をふまえ、風間神社は風神を祀っているからで、伊豆毛神社は出雲系の祭神を祀っているから祭神は伊勢津彦だ、というふうに考えたのだろう。しかし、それでは根拠が薄弱で憶説のようにしか感じられない。



伊豆毛神社。長野市豊野町豊野下伊豆毛にある。現在の祭神は、素戔嗚尊と大己貴命。

 

 ということで、風間神社の祭神として祀られている伊勢津彦については、かなりの留保が付くが、やっぱり興味深いので私は数年前、ここを訪れた。

 風間神社は古い農家集落の中央に位置しており、周囲には低い石垣だけで柵もなく、すこぶる開放的なたたずまいである。私が訪れたのは8月3日の日曜日だったが、ちょうど夏祭りの日に当たっていたらしく、境内には祭りの準備でたくさんの地元の人があふれていた。中央に太鼓を載せるやぐらを組み、そこから四方に電灯のぶらさがるコードを張って、夜店も何軒か出るという、まあ日本中どこでも見かけるいたってありふれた夏祭りである。
 『平成祭りCD』には例祭日として、7月20日の祇園祭りがあげられている。日付が違うが、たぶん私が見たのはこの祭りの準備だったのだろう。なお、当社にはほかに祈年祭や例祭があるとともに、9月2日には風鎮祭があって、いかにも風神を祀る神社を感じさせる。


 それはともかく、こういうありふれた神社なので、特筆に値するようなこと、なかんずく伊勢津彦と関係がありそうなことには全く気が付かなかった。ただ、強いて言うならば境内社に伊勢を連想させるものが多い。

 『式内社調査報告』によると当社の境内社としては、①伊勢社、②金刀比羅社、③天村雲社、④猿田彦社、⑤天神社、⑥三宝荒神社、⑦伊勢社の7社があげられている(他にも蚕社というのを隣接地で見かけたが、これは載っていない)。このうち①と⑦は言うまでもないが、③の祭神である天村雲命は『先代旧事本紀』によると、ニニギが天降った際に供奉した三十二神のなかの1柱で、「度会神主等の祖」とある。すなわち外宮祇官である度会氏の祖神だった。ちなみに『度会氏系図』などによれば、伊勢津彦を征討した天日別命は天村雲命の孫である。そういう意味では、伊勢津彦を祀る神社の境内にこういう祭神が祀られているのはあまり適切ではない。
 また、④の祭神である猿田彦命は、『神道五部書』で伊勢神宮創建に大きな功績のあった神とされており、その後裔の宇治土公氏は代々、神宮に「玉串大内人職」として仕えている。さらにまた、伊勢一宮である椿大神社の祭神であることも名高い。

 これら境内社はもともと当社きんぺんで祀られていたものが、明治初年の神社合祀令のときに集められたのだろう。このうち、③の祭神である天村雲命などありふれたそれとは言えない。こうしてみると、この地域はもともと伊勢とのつながりが強いところであり、そのことがこうした境内社の顔ぶれに反映しているのかもしれない、などと憶測してみるのも一興かもしれない。

 

風間神社の境内にある猿田彦社

 

(1)伊勢津彦探しは神社から【緒言】

2010年07月01日 21時57分35秒 | 伊勢津彦

 『伊勢国風土記』逸文によると、日向を出て東征を開始した神武天皇は、熊野を迂回するルートをとって大和の宇陀まで来たとき、同行していた天日別命に「標ミシルシの剱(天皇の権威を象徴する剣)」を与えて、そこから遙か東方に広がる地域の征討を命じたという。

 これを受けて天日別命が東方数百里まで進入すると、神がいて伊勢津彦という名前だった。天日別命がこの神に、国を天皇に献上するよう求めると、「私がこの国を求め、居ついてから長い年月になる。天皇の命など受けることがあろうか。」と言う。天日別命が兵を用いて伊勢津彦を殺そうとすると、彼はひれ伏して「この国は天皇に献上する。私はもう出てゆく。」と言う。天日別命が「お前が去りゆくとき、何をもってそのことが分かるのか。」と質問すると、伊勢津彦は答えて「私は今夜、大風を起こして海水を吹き上げ、その波に乗って東国へ行こう。それが私の立ち去る証である。」と言う。
 そこで、天日別命が兵を準備して様子をうかがっていると、その夜になって、「大風オオカゼヨモゆ起り、波瀾ナミを扇挙ウチアぐ。光耀ヒカリカガヤくこと日の如く、陸国も海も共朗ミナアキラけし。遂に波に乗りて東にゆきぬ。」、すなわち、真夜中頃になって大風が四方から起こり、波しぶきをうち上げた。その波が光り輝く様子はまるで太陽のようで、陸も海も急に明るくなった。そして、とうとう伊勢津彦はその波に乗って東国へ立ち去ったという。

 風土記逸文は続けて、土地に伝わる言葉に「神風の伊勢の国、常世浪寄する国」というのはきっとこのことを言ったのだろう、と述べている。またその後、伊勢津彦は信濃に行ったと伝えられ、さらにまた天日別命はこの国を平定して天皇に復命し、伊勢津彦にちなんで国の名は伊勢と名付けられた、というエピソードが紹介されている。


 この伝承のうち、天日別命が神武から標ミシルシの剱を授かって伊勢地方へ入ったという部分には、後世の作為を感じる。
 天日別命は外宮の祀官であった度会氏の祖神である。したがって、彼らの間に伝わっていた伝承が風土記に収められる際、自家の血統をより由緒あるものに見せかけようとして、天日別命を神武天皇に関係づけるよう架上されたのがこの部分だったらしい。しかし顕著な国譲りのモチーフや、興味深い伊勢津彦の描写などは、ほんらいの伝承に含まれていたものとみてさしつかえないだろう。

 ことに伊勢津彦が海水を巻き上げて東国へと退去する様子を描出した「大風四ゆ起り、波瀾を扇挙ぐ。光耀くこと日の如く、陸国も海も共朗けし。遂に波に乗りて東にゆきぬ。」という部分は、何世代にもわたって口承されてきたフレーズだけがもつ、どっしりと口になじんだ感じがある。おそらく、伊勢地方にいた海人たちの間でずっと口ずさまれてきたものではないか。

 この部分はイメージの喚起力が強烈であることでも特筆される。まるでディザスター映画の一場面のようだが、安っぽいCGの画面では再現できない古代的な壮麗や戦慄、そこはかとない優雅さがある。世界中を探しても、これに匹敵する外観をもつものはギリシア神話のゼウス神くらいだ。

 それはともかく、この突出した描写により、伊勢津彦は風波の神であったことがわかる。そして風土記ではこれに続けて、古語にいう「神風の伊勢の国、常世浪寄する国」はけだしこのことを云ったものだろう、と続けている。
 「神風の伊勢の国~」は壬申の乱を契機に成立した枕詞だが(『万葉集』199)、たんに風土記の筆者が伊勢津彦の伝承にこれを仮託したというより、この枕詞が生まれてきた文化の古層に伊勢津彦の信仰があったこともありえる。


 松前健の『国譲り神話と諏訪神』(『日本神話の形成』所収)という論文には「建御名方と伊勢津彦」という章があり、周到な書きぶりで伊勢津彦のことが巧みにまとめられている。大いに参考にさせてもらっているが、この松前の論文によると、出雲、因幡、丹後などで東南の風のことをイセチ、イセツ、イセイチカゼなどと呼び、また尾張、三河、遠江などでは泉南の風かあるいは西風のことをイセグチ、イセ二郎、イセジ、イセヨカゼなどと呼ぶという。いずれも伊勢の方角から吹く風を意味する。

 松前は、「それほど伊勢は、風の名所のように思われていたのである。伊勢津彦の名も、おそらくこれと関係があるのであろう。」と述べている。
 後にも触れるが伊勢津彦には出雲とのつながりがある。その場合、出雲などで伊勢の方角から吹く風が「イセツ」と呼ばれていた、というのはやっぱり興味深い。

 おもうに、こうした伊勢地方の風というのは古代人にとってたんなる気象現象以上のものではなかったか。端的に言ってそれは、海上他界から波に載って吹き寄せてくる霊妙な威力であった。「常世浪寄する国」というフレーズはこうした他界信仰に神仙思想が習合したものだろう。

 そういえば、『伊勢国風土記』逸文で天日別命と出会った伊勢津比彦は、「私がこの国を求め、居ついてから長い年月になる。」と言っている。長らくは暮らしているが、別にそこで生まれ育ったという訳でもないらしい。あるいは、この海上他界が伊勢津彦の故郷であり、彼が波を巻き上げ、闇夜を照らしながら退去していった先もそこではなかったか。その場合、彼は退去したというより帰還したのである。