★「1/2」のつづき
以下、私の個人的なノート。
敏達天皇十年(581)に蝦夷が辺境を荒らしたので、その首領だった綾粕らを召して、初瀬川の川中で水をすすってから三輪山に向かって王権への忠誠を誓わせた記事がある。ここから三輪山の祭祀に初瀬川が深く関係していたことが感じられる。
今回の調査地点はこの川から南に500mほどしか離れておらず、しかも子持ち勾玉はこの川の支流であったらしい自然流路の跡から見つかっている。時期的にも6C後半~7C前半というから、綾粕らの記事の時期と重複する。山麓から離れたこのエリアで、子持ち勾玉が見つかったり、大神神社の系列社の分布が顕著だったりするのは、三輪山が秀麗に見上げられるとともに、初瀬川の水辺に近いという条件を満たしていたからではなかったか。
古代における水辺の祭祀というと、神婚儀礼を伴うものが多い。とくに三輪山の神である大物主神は、記紀に多くの神婚伝承が残る多情な神であり、古代の三輪山しゅうへんでこうした儀礼が多く行われていたことは想像に難くない。就中、『古事記』雄略天皇条に見られる引田部の赤猪子の説話は、おそらく古い形ではこの神と赤猪子との神婚伝承だったと思われるが、この説話は前半の舞台が三輪川のほとりになっている。三輪川は初瀬川下流の古名であり、このエリアにごく近い辺りだったのではないか。
こうした神婚に関係した神社というのは母子神を祀っていた場合が多い。『延喜式』神名帳に「二座」とある神社の多くはこのパターンである。初瀬川の上流には赤猪子の出身氏族である引田部が祭祀したと言われる曳田神社という式内社があるが、当社も神名帳に二座とある。この二座とはおそらく赤猪子のモデルになった女神と、彼女と大物主神との間に生まれた御子神の母子二座だったろう。
初瀬川上流の白河に鎮座、三輪山の背後にあたる
当社は赤猪子の出身氏族であった引田部によって奉祭されたと考えられている
曳田神社々殿
『三輪流神道深秘鈔』にある「二ツ神」という神社もおそらく祭神が二座だったことからそのような社名になったのであり、やはり三輪山の神との神婚儀礼と関係して母子神を祀っていたのではないか。ちなみに同書では、「二ツ神」にしろ「松ノ本ノ神」にしろ「三輪ノ大明神」自身ではなくその「御子ノ神」を祀ったとしている。これも示唆的だ。
所在不明だがこのエリアにあったと伝承されている式内社の桑内神社も、神名帳に「二座」とある。当社はいっぱんに桑内連という古代氏族が祖神の建摩利根命を祀ったものと考えられているが、火明命の六世孫にあたる同神を祖神とする氏族が三輪山のお膝元とも言えるこの地域に居住する必然性はあまり感じられない。「桑内」は語形類似による「栗田」の誤写という説もあり、これもやはり三輪山の神との神婚儀礼に関係する神社だった可能性がある。
なお、『式内社調査報告』の筆者は「二ツ神」が桑内神社であったと考えているようだが、この比定はけっこう良い線をいっているのではないか。
『古事記』の神武天皇条にセヤダタラ姫と大物主神との丹塗り矢型神婚説話がある。「その美人の大便まる時に、丹塗矢に化りてその大便まる溝より流れ下りて、その美人のほとを突きき。」とあるため、三輪山の神が丹塗り矢となって流下してくる河川として古代人がイメージしていたのは、人間の身体に対し、わりとインティメートなサイズの流水だったことがわかる。
今回、子持ち勾玉が発見されたのは埋没した自然流路の最上層からで、全体が調査されていないため正確なその規模はわからないものの、立地からいってあまり大きな河川であったとは思えない。こうした小川のほとりで古代に行われた祭祀が、セヤダタラ姫の神婚説話の背景にあったのではないか。
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