★「あまてるみたま考(3)」のつづき
ところで『國學院雑誌』に『天照御魂神考』が発表されたのは1961年であるが、当時の時代背景について考えてみたい。
1960年の安保闘争で国会を取り巻くデモ隊
1961年の直前にあたる1959~60年と言えば、安保闘争の嵐が吹き荒れていた頃である。この政治闘争はほんらい、日米安全保障条約の締結に反対するためのものであったが、条約の締結が強行採決されるとますますエスカレートするようになり、国会の周囲を大デモ隊が取り巻くなど、空前の政治の季節が到来した。こうした中で当初の条約締結に反対するという目的は後退し、それに代わって反米的な思潮が浮上してくる。そしてこれとパラレルに、思想界ではわが国の土着的な文化を見直す気運が高まった。たとえば『定本柳田國男集』の刊行がはじまったのがこの時期だったことなど、その現れの1つである。
ただし、それだけなら今日のグローカリズム(グローバリゼーションに対する反動として、ローカルな価値観が噴出してくること)と似たような現象だが、安保闘争は左派系が指導したためか、こうした土着文化の見直しは反天皇制的な色合いを強くもっていたのである。このため、「天皇=稲作=弥生」を突き抜けて再評価の対象となった土着文化とは「縄文」だった。縄文文化の本格的な見直しが進んだのはこの時期だったのである。最近、縄文というキーワードは(しばしば「共生」というそれと組み合わさって)きわめて広く流通しているが、こうした文化状況のえん源は安保闘争に求められるのだ。
ちなみに近年の再評価が著しい岡本太郎は、1952年に『縄文土器論』を発表し、縄文土器を美術品として鑑賞することに先鞭をつけたとされるが、その中で彼は縄文を弥生に対置し、前者をより高く評価している。彼にあってこのスタンスは終生、変わらなかったが、1978年に行われた『縄文文化の謎を解く』という対談には、それがよく現れた次のような発言がみられる。
── 縄文土器の形式美についてですが、先ほど岡本先生は空間感覚だと言われましたが、他にどんな特徴がみられましょうか。
「たとえば隆線紋ね。はげしく縦横に躍動している。ときに追いかぶさり、ときに重なりあったりして下降し、旋回し、一条の線が永遠にくぐり抜けている。つまり定着していない。つねに流動しているんです。そういう感じは弥生式以降まったくなくなって、何か全部が定着したという感じなのに、縄文中期の隆線紋は永遠にくぐり抜け、無限に旋回している。その線自体がその時代の運命を象徴しているともいえますね。
弥生式土器の紋様が動きを止め、ぴたっとおさまってしまっているのは、水田耕作が発達してからの農耕民の生活感覚がそのまま造形に出てきている、と考えるほか仕方がない。」
「だからぼくは腹が立つんだけれども、縄文時代にあれだけ世界に類いのない個性を貫きながら、ある時代以降このくらい個性を失った民族もないくらい独自性を失っている。」
「つまり日本人の中には、一方に形式主義的な定着した弥生の美意識があり、他方に永遠に流動して止まない縄文から始まる美意識とがあって、弥生の美意識は貴族とかインテリ社会では評価されるけれども、あの無条件に流動し旋回する縄文土器や浮世絵につながる美意識は、むしろ一般市井の庶民の中にあるんではないかと思う。」
・『岡本太郎著作集9太郎対論』p143~144
岡本のこうした縄文再評価は容易に「弥生=天皇制」に対抗する「縄文イデオロギー」と解釈できるため、デモ隊に加わった側の人たちから歓迎された。
もっとも岡本という人はたんじゅんに右だ左だという枠組みに収まらないスケールをもっていたとおもう。それはこうした縄文文化再評価の気運に乗って、単なる芸術家以上の存在になっていたとはいえ、やがて彼が一大国家プロジェクトであった大阪万博会場を飾るモニュメントの製作を国から依嘱されたことによく現れている。たいした政治力だ。怪物だったのだ。
太陽の塔
話を元に戻す。こうしてみると、天皇家の氏神であるアマテラスの前身として火明命=天照御魂神を再発見しようとした『天照御魂神考』が、天皇制以前の土着文化として縄文を再評価しようとするこうした思潮と軌を一にして執筆されたことがわかる。この論文には明らかに時代の産物としての一面があるのだ。また、岡本は松前より11歳年長だったが、両者とも戦時中は従軍して死線をさまよう経験をしたことも無視できない。
いずれにせよ、こうして再評価された縄文文化が現在では普遍的な価値を認められているのとどうよう、『天照御魂神考』で松前が発明した「隠された神」というタイプの言説もまた、古代史に興味をもつ人たちの間でこれからも再生産がつづくだろう(私もそのうちやるつもり)。
「あまてるみたま考(5)」につづく
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