キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

初めに、ことばがあった。

2007-05-08 22:47:14 | 聖書読解
本日は、ヨハネ伝1章を読んでいきたいと思います。

ヨハネ伝の主題は何かというと、光(神)と闇の抗争史であります。

光とは何であるか、光はいかにして自己を顕現させたか、

光の勝利はいかにして成るか?

ヨハネ伝を一種の名曲に比すれば、

序曲にあたるのが1章であります。

2章から最後の21章までは、光が徐々に顕現する過程であります。

その絶頂が18章でありまして、イエスが十字架に上られることによって、

罪の贖いによる徹底的な勝利が成し遂げられます。


名曲であればあるほど、その序曲に全編の主旨が圧縮されるものです。

同じようにヨハネ伝も、その序曲である1章に、

ヨハネ伝の主旨が、いや聖書そのものの主旨が内包されているのです。

たかが1ページにしかならないヨハネ伝1章でありますが、

注意深く読解する必要があります。

今回は、ヨハネ伝1章の前半である1-1から1-14までを読んでいきますので、

皆様も予め該当箇所を一読して下さい。



初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
(ヨハネ伝1-1~5)



「ことば」という文字が出てきております。

「ことば」は普通、自分の考えていることを他人に伝える、

思想の表現の手段であります。

もし「ことば」がなければ、私達は自分の考えていることを伝えることも、

もっといえば考えることさえ難しいものです。

いわば「ことば」というものは、その人自身の思想であり、

その人自身を表現した代物に他なりません。

すなわち、神の御心を表現したものが、ヨハネ伝でいう「ことば」であります。

私達は通常、「ことば」と聞いて連想するのは、

「口先だけの人間」とか「大言壮語する奴」という表現があるように、

必ずしも正しいものとは考えません。

それは人間というものが、どうしようもないほど不誠実だからです。

しかし神はそうではありません。

聖書の伝える神とは、カーライルのいう「永遠の誠実(eternal varity)」であります。

徹底的に誠実一辺倒の存在者であります。

ですから、人の「ことば」であれば、虚栄のための嘘の言葉であるかもしれませんし、

必ずしもその人自身を表現したものではないかもしれませんが、

神の「ことば」であれば、それは神の御心を表現したものであり、

いわば神御自身であるといえます。


その「ことば」が何であるかは、ヨハネ伝の続きを読んでみれば、

イエス・キリストであることがわかります。

「初めに」ということは、私達人間のみならず、植物も生物も、

地球も太陽も、空も大地も存在しない、宇宙の初めであります。

すなわち、宇宙創世の前に、イエス・キリストが存在していたということであります。

さらに、この「ことば」によって、すべてのものが造られたということは、

イエス・キリストによって創造が行なわれたということです。

信じ難い文章でありますが、ヨハネ伝が伝えることは、

以上のようなことであります。

私が初めてこの箇所を読んだ時、非常に違和感を感じました。

一人の人間として生まれたナザレのイエスが、

なぜゆえ、宇宙創造の中心であったのか?

キリスト者ならぬ人々には、何とも信じ難い文言であります。

もしこの箇所が理解できなければ、この聖句をそのまま覚えて、

理解できる時が来るまで保留しておいて下さい。

私達が何かを知ろうとした場合、頭で理解することと心で理解することがあります。

真理というような、心で味得すべき知識は、是非とも、時間の経過が必要であります。

私達が知ろうと欲するものは、真理という自分よりも高い存在であります。

頭で知ろうとすること自体、不可能でありますし、

虚偽に慣れた私達にすれば、本当の真理というものは真理らしくないものであります。



すべての人を照らすその真の光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、
世はこの方を知らなかった。
この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、
神の子どもとなる特権をお与えになった。
この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人に意欲によってでもなく、
ただ、神によって生まれたのである。
(ヨハネ伝1-9~13)



人間はイエス・キリストにあって造られ、彼こそが神であり、

彼こそが闇を照らす光であれば、人間は彼によって導かれるべき存在であります。

それなのに私達は、彼を受け入れず、神のことばであり神御自身であるイエスを、

拒否して殺してしまったのであります。

闇に慣れた私達にとって、光は耐え難いものであります。

真っ暗な洞窟から出て、燦々と輝く太陽を見上げた時、

私達は一瞬、太陽の輝きに痛みを感じるものです。

同じように、闇に慣れた私達は、真の光を光として認めず、

むしろ光が闇であるかのように錯覚して、それを葬ろうとしたのであります。

ですから、ヨハネ伝1章を読んで、「イエスを神と称するぐらい、迷信的なものはない」

と考えられたのなら、私達がそう考えること自体が、

イエスが神であることの最も良き証拠だと思うのです。

闇にとって虚偽が真理であります。

逆に、闇にとって真理が虚偽であります。

ですから、この世において、真理を真理そのままに呈示することは、

周囲から虚偽と映るに違いありません。

この世において、何かを真理らしく見せるために、真理に虚偽を混ぜる必要がある。
(ドストエフスキー「悪霊」)

ヨハネがイエス・キリストを神であると言う場合、

かかる人間の性(さが)を念頭に置かなければなりません。


イエス・キリストは神である。救われるために、彼を信じる必要がある。

彼を信じて救われた者は、自分の努力や信念によって救われたのではなく、

信じるように導いてくださった神の恩恵である。

これがヨハネ伝序曲において述べられていることであります。

まことに、聖書の全編を圧縮したメッセージであります。

ヨハネ伝1-1から1-14を理解し得る時、ヨハネ伝全体を理解することができ、

ひいては聖書全体を理解することができるのであります。

聖書読解の成否は、この短い聖句に込められているといっても過言ではありません。

このような尊い言葉は、是非とも一度読むだけではなく、

暗記して日々反芻し、心の奥殿において味わう必要があります。



人気blogランキングへ

最新の画像もっと見る

コメントを投稿