本日はヨハネ伝1章の後半(1-15~51)です。
すなわち、ヨハネ伝の序曲の続きであります。
神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。
光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするためである。(ヨハネ伝1-6~8)
ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。
「私のあとから来る方は、私にまさる方です。私より先におられたからである」
と私が言ったのは、この方のことです。(ヨハネ伝1-15)
この箇所を初めて読んだ時、私は違和感を禁じ得ませんでした。
何となく文章の流れが途絶えたような気がして、
頭にすんなり入ってこなかったのです。
宇宙創生の中心としての「ことば」を述べ、
非常に壮大な序曲であったのに、
いきなり「ヨハネという人があった」と途切れるのです。
私は教育に従事する者でありますが、優秀な教師であればあるほど、
問題の本質を自然に理解できるような説明を心がけます。
「この問題は難しいぞ!」と予め生徒を脅して、生徒の心理状態を身構えさせると、
子どもの頭脳は柔軟性を失ってしまいます。
問題の本質に触れたのか触れなかったのかわからないように、
自然と本質を理解させることが、私の常に注意している所であります。
そういう意味でこの文言は、もう少し違った書き方がなかったものかと、
私は正直思いました。
また、この箇所を読んだ当時、私を困惑させたことは、
「ヨハネ」が誰かということであります。
ヨハネ伝を書いたのは、十二使徒の一人であるヨハネであります。
しかしこの聖句において登場するヨハネは、いわゆる洗礼者ヨハネであります。
イエスの弟子に指名された人物のヨハネか、
イエスの先駆者として人々にイエスを紹介したヨハネか?
聖書に通暁した方でしたら、このような混同をすることはないでしょうが、
聖書人物について何も知らず、聖書を初めて読んだ方からすると、
ずいぶん不親切な表現であると思います。
ヨハネという名前は、当時のユダヤではずいぶんと頻繁に見られる名前であったらしく、
一昔前の日本でいえば、太郎とか次郎とかいうようなものだったのかもしれません。
太郎が書いたものを太郎伝とすれば、その中の文言に「太郎という人があった」
と書いてあれば、果たして著者の太郎なのか別な太郎なのか、
混同するのも無理はありません。
使徒ヨハネは以上のような間違いを犯すほど、無教養だったのか?
そんなことはありませんでした。
彼は漁師といえどもユダヤの指導者階級と交流があったようですし、
ヨハネ伝やヨハネ書の文章構成より考えれば、
体系的な著述ができたきわめて聡明な人間だったと考えられます。
とすれば、ヨハネは間違ってこのような書き方をしたのではなく、
あえてこういう書き方をし、こう書かざるを得なかったのではないか。
すなわち、自分を洗礼者ヨハネと同一視し、洗礼者ヨハネの論述を通して、
読者に自分の本心を伝えたかったのではないか。
このように思うのであります。
ならば、もう少し洗礼者ヨハネに関する文言を読んでみましょう。
ヨハネは答えて言った。
「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、
あなたがたの知らない方が立っておられます。
その方は私のあとから来られる方で、
私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません」(ヨハネ伝1-26・27)
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ伝1-29)
洗礼者ヨハネは徹頭徹尾、光はイエス御自身であって、
自分はどんなに尊敬されようとも、光そのものではない。
自分は単なる光を指し示す者である。
真理はイエスであって、真理を指し示す自分は真理でも何でもない。
このような主張を強調しております。
使徒ヨハネは洗礼者ヨハネにこのことを語らせながら、
自分のスタンスを明確化していると思うのです。
私の書くイエス伝は、イエスを指し示すためのものであって、
イエスの代用物ではない。
真理は私如きが所有できるものではなく、ただただ指し示すことができるだけ。
だから読者は、私の伝記を読んで私を信頼するのではなく、
イエス御自身に信頼せねばならない。
このような強い強い思いで、ヨハネ伝の著述を始めたと思うのです。
最上の伝記は、自分の主観によってストーリーを組み立て、
自分の思想を混ぜながら語るものではなく、
その歴史人物そのものの言葉を伝えることであります。
カーライルの「クロムウェル伝」がなぜ優秀な伝記と呼ばれるのか?
それはできるだけ自分を背後に退かせて、クロムウェルその人の演説や手紙によって、
クロムウェルその人を伝えているからであります。
使徒ヨハネはイエス御自身を伝えたかった、
だから洗礼者ヨハネをして、自分の立っている位置を明確化したかった。
故に表面的な読み方をすれば、何となく不自然に思えるような書き方を、
敢えてしたのだと私は考えております。
ヨハネ伝が最高のイエス伝と称される所以であります。
洗礼者ヨハネの登場の後、イエスは弟子を任命されました。
アンデレに、ペテロに、ピリポに、ナタナエルと、
主御自身が彼らを任命される記事であります。
この1-35から1-51の記事を通して感じることは、
イエスの弟子となるには、我々の努力や決意云々よりも、
イエスの意思が主であるということであります。
どの記事も、弟子からイエスに近づくというよりは、
まずイエスから弟子に近づき、イエスが自ら弟子を指名されております。
キリスト者となるには、是非とも、キリストに任命される必要があるのです。
この素晴らしきヨハネ伝を読んで、後には聖書全体を読んで、
キリストを信ずるようになるのかもしれません。
しかしそれは、自分の知能や意思や決意によって成ることではなく、
私達にそのような心を与え給うたイエスの導きなのだと思います。
そしてもし幸いにしてキリストを信ずるようになったのならば、
私達は使徒ヨハネの態度に倣い、弟子としての役割を果たさねばなりません。
それは自分の経験や自分の思想や自分の願望を人々に伝えるのではなく、
ただイエスを指差し、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と告白する、
ということであります。
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すなわち、ヨハネ伝の序曲の続きであります。
神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。
光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。
彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするためである。(ヨハネ伝1-6~8)
ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。
「私のあとから来る方は、私にまさる方です。私より先におられたからである」
と私が言ったのは、この方のことです。(ヨハネ伝1-15)
この箇所を初めて読んだ時、私は違和感を禁じ得ませんでした。
何となく文章の流れが途絶えたような気がして、
頭にすんなり入ってこなかったのです。
宇宙創生の中心としての「ことば」を述べ、
非常に壮大な序曲であったのに、
いきなり「ヨハネという人があった」と途切れるのです。
私は教育に従事する者でありますが、優秀な教師であればあるほど、
問題の本質を自然に理解できるような説明を心がけます。
「この問題は難しいぞ!」と予め生徒を脅して、生徒の心理状態を身構えさせると、
子どもの頭脳は柔軟性を失ってしまいます。
問題の本質に触れたのか触れなかったのかわからないように、
自然と本質を理解させることが、私の常に注意している所であります。
そういう意味でこの文言は、もう少し違った書き方がなかったものかと、
私は正直思いました。
また、この箇所を読んだ当時、私を困惑させたことは、
「ヨハネ」が誰かということであります。
ヨハネ伝を書いたのは、十二使徒の一人であるヨハネであります。
しかしこの聖句において登場するヨハネは、いわゆる洗礼者ヨハネであります。
イエスの弟子に指名された人物のヨハネか、
イエスの先駆者として人々にイエスを紹介したヨハネか?
聖書に通暁した方でしたら、このような混同をすることはないでしょうが、
聖書人物について何も知らず、聖書を初めて読んだ方からすると、
ずいぶん不親切な表現であると思います。
ヨハネという名前は、当時のユダヤではずいぶんと頻繁に見られる名前であったらしく、
一昔前の日本でいえば、太郎とか次郎とかいうようなものだったのかもしれません。
太郎が書いたものを太郎伝とすれば、その中の文言に「太郎という人があった」
と書いてあれば、果たして著者の太郎なのか別な太郎なのか、
混同するのも無理はありません。
使徒ヨハネは以上のような間違いを犯すほど、無教養だったのか?
そんなことはありませんでした。
彼は漁師といえどもユダヤの指導者階級と交流があったようですし、
ヨハネ伝やヨハネ書の文章構成より考えれば、
体系的な著述ができたきわめて聡明な人間だったと考えられます。
とすれば、ヨハネは間違ってこのような書き方をしたのではなく、
あえてこういう書き方をし、こう書かざるを得なかったのではないか。
すなわち、自分を洗礼者ヨハネと同一視し、洗礼者ヨハネの論述を通して、
読者に自分の本心を伝えたかったのではないか。
このように思うのであります。
ならば、もう少し洗礼者ヨハネに関する文言を読んでみましょう。
ヨハネは答えて言った。
「私は水でバプテスマを授けているが、あなたがたの中に、
あなたがたの知らない方が立っておられます。
その方は私のあとから来られる方で、
私はその方のくつのひもを解く値打ちもありません」(ヨハネ伝1-26・27)
その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ伝1-29)
洗礼者ヨハネは徹頭徹尾、光はイエス御自身であって、
自分はどんなに尊敬されようとも、光そのものではない。
自分は単なる光を指し示す者である。
真理はイエスであって、真理を指し示す自分は真理でも何でもない。
このような主張を強調しております。
使徒ヨハネは洗礼者ヨハネにこのことを語らせながら、
自分のスタンスを明確化していると思うのです。
私の書くイエス伝は、イエスを指し示すためのものであって、
イエスの代用物ではない。
真理は私如きが所有できるものではなく、ただただ指し示すことができるだけ。
だから読者は、私の伝記を読んで私を信頼するのではなく、
イエス御自身に信頼せねばならない。
このような強い強い思いで、ヨハネ伝の著述を始めたと思うのです。
最上の伝記は、自分の主観によってストーリーを組み立て、
自分の思想を混ぜながら語るものではなく、
その歴史人物そのものの言葉を伝えることであります。
カーライルの「クロムウェル伝」がなぜ優秀な伝記と呼ばれるのか?
それはできるだけ自分を背後に退かせて、クロムウェルその人の演説や手紙によって、
クロムウェルその人を伝えているからであります。
使徒ヨハネはイエス御自身を伝えたかった、
だから洗礼者ヨハネをして、自分の立っている位置を明確化したかった。
故に表面的な読み方をすれば、何となく不自然に思えるような書き方を、
敢えてしたのだと私は考えております。
ヨハネ伝が最高のイエス伝と称される所以であります。
洗礼者ヨハネの登場の後、イエスは弟子を任命されました。
アンデレに、ペテロに、ピリポに、ナタナエルと、
主御自身が彼らを任命される記事であります。
この1-35から1-51の記事を通して感じることは、
イエスの弟子となるには、我々の努力や決意云々よりも、
イエスの意思が主であるということであります。
どの記事も、弟子からイエスに近づくというよりは、
まずイエスから弟子に近づき、イエスが自ら弟子を指名されております。
キリスト者となるには、是非とも、キリストに任命される必要があるのです。
この素晴らしきヨハネ伝を読んで、後には聖書全体を読んで、
キリストを信ずるようになるのかもしれません。
しかしそれは、自分の知能や意思や決意によって成ることではなく、
私達にそのような心を与え給うたイエスの導きなのだと思います。
そしてもし幸いにしてキリストを信ずるようになったのならば、
私達は使徒ヨハネの態度に倣い、弟子としての役割を果たさねばなりません。
それは自分の経験や自分の思想や自分の願望を人々に伝えるのではなく、
ただイエスを指差し、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と告白する、
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