キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

水の洗礼

2011-07-17 17:25:49 | 聖書原典研究(共観福音書)
そこでペテロは,「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが,
水で洗礼を受けるのを,一体誰が妨げることができますか」と言った。
そして,イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと,
その人たちに命じた。
(使徒行伝11-46~48/新共同訳)



聖書,特にルカ文書において,水の洗礼とは何を意味していたのだろうか?

救われるべき条件なのか?それとも,救われたことのしるしなのか?

キリスト者なら誰でも受けるべきものなのか?

それとも,全く無に等しい儀式的行為なのか?

なぜルカ文書におけるペテロは,水の洗礼を受けるようにと要求しているのだろうか?


まず第一に確かなことは,ルカ文書において「洗礼」とは,

誰もが受けるべき絶対条件ではない,ということだ。

なぜなら,「天から降る聖霊の洗礼」と「人が施す水の洗礼」の関係が,

ルカ文書では非常に錯綜しているからだ。

聖霊の洗礼の後に水の洗礼が来ることがあれば,

水の洗礼の後に聖霊の洗礼が来ることもある。

また,聖霊の洗礼だけの場合もある。

水の洗礼と聖霊の洗礼に深い関係があることは確かだが,

水の洗礼のみを取り出して,それを重視するというような姿勢は,

福音書記者ルカの内にはない。


今回検証している聖句(使徒行伝11-46~48)の直前には,パウロの召命がある。

著者であるルカは福音書第二巻(使徒行伝)において,

パウロを最も重要な人物として紹介しているのであれば,

パウロの場合はどうであるかを詳しく読み取る必要があると思う。


パウロがイエスに出会い(9-5),聖霊に満たされ(9-17),洗礼を受けた時(9-18),

何が起こったか(9-18)?

パウロは力を得て(ενισχυσεν),福音を宣べ伝え(εκηρυσσεν),

イエスを指して「この人が神の子である(ουτοσ εστιν)」と言う。

ルカにとって,人が洗礼を受けて,力を受け,イエスを宣べ伝えることは,

非常に重要だったようで,ルカは二度までもパウロのこの行為を繰り返す(9-22)。

パウロはますます強くなり(ενεδυναμουτο),

福音を論証して(συμβιβαζων),

「この人がキリストである(ουτοσ εστιν)」と言う。

まるでルカの描くパウロは,ヨハネ伝における洗礼者ヨハネのようだ。

「見よ,世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1-29)


私はまだ使徒行伝を中途までしか読解していないので,

もう少し先まで読んでから,洗礼問題に関して結論を導き出す必要がある。

しかし,ルカ伝及び使徒行伝11章までの内容から判断すると,

ルカにおける水の洗礼とは,人間がイエス・キリストを信じ,

そのイエス・キリストの信仰から湧き出す「勇気と実行力」であるように思える。


故に,ルカ文書において洗礼問題を考える際,

「水の洗礼は受けるべきか否か」とか,「洗礼は救われるために必要か否か」とか,

そういう憂慮は,全くルカの眼中にないこと,全く的外れのことであり,

むしろ人は,「私の生涯はイエス・キリストに従う者として,

神の御心に適ったものなのか否か」という問いを,問わねばならないのではないか!?

本質的な問題はイエス・キリストの十字架・救い・彼に従う自分の生であって,

洗礼問題・教会問題等々は,ルカの視点からすれば枝葉末節の問題なのである。



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