そこでペテロは,「私たちと同様に聖霊を受けたこの人たちが,
水で洗礼を受けるのを,一体誰が妨げることができますか」と言った。
そして,イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと,
その人たちに命じた。
(使徒行伝11-46~48/新共同訳)
聖書,特にルカ文書において,水の洗礼とは何を意味していたのだろうか?
救われるべき条件なのか?それとも,救われたことのしるしなのか?
キリスト者なら誰でも受けるべきものなのか?
それとも,全く無に等しい儀式的行為なのか?
なぜルカ文書におけるペテロは,水の洗礼を受けるようにと要求しているのだろうか?
まず第一に確かなことは,ルカ文書において「洗礼」とは,
誰もが受けるべき絶対条件ではない,ということだ。
なぜなら,「天から降る聖霊の洗礼」と「人が施す水の洗礼」の関係が,
ルカ文書では非常に錯綜しているからだ。
聖霊の洗礼の後に水の洗礼が来ることがあれば,
水の洗礼の後に聖霊の洗礼が来ることもある。
また,聖霊の洗礼だけの場合もある。
水の洗礼と聖霊の洗礼に深い関係があることは確かだが,
水の洗礼のみを取り出して,それを重視するというような姿勢は,
福音書記者ルカの内にはない。
今回検証している聖句(使徒行伝11-46~48)の直前には,パウロの召命がある。
著者であるルカは福音書第二巻(使徒行伝)において,
パウロを最も重要な人物として紹介しているのであれば,
パウロの場合はどうであるかを詳しく読み取る必要があると思う。
パウロがイエスに出会い(9-5),聖霊に満たされ(9-17),洗礼を受けた時(9-18),
何が起こったか(9-18)?
パウロは力を得て(ενισχυσεν),福音を宣べ伝え(εκηρυσσεν),
イエスを指して「この人が神の子である(ουτοσ εστιν)」と言う。
ルカにとって,人が洗礼を受けて,力を受け,イエスを宣べ伝えることは,
非常に重要だったようで,ルカは二度までもパウロのこの行為を繰り返す(9-22)。
パウロはますます強くなり(ενεδυναμουτο),
福音を論証して(συμβιβαζων),
「この人がキリストである(ουτοσ εστιν)」と言う。
まるでルカの描くパウロは,ヨハネ伝における洗礼者ヨハネのようだ。
「見よ,世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1-29)
私はまだ使徒行伝を中途までしか読解していないので,
もう少し先まで読んでから,洗礼問題に関して結論を導き出す必要がある。
しかし,ルカ伝及び使徒行伝11章までの内容から判断すると,
ルカにおける水の洗礼とは,人間がイエス・キリストを信じ,
そのイエス・キリストの信仰から湧き出す「勇気と実行力」であるように思える。
故に,ルカ文書において洗礼問題を考える際,
「水の洗礼は受けるべきか否か」とか,「洗礼は救われるために必要か否か」とか,
そういう憂慮は,全くルカの眼中にないこと,全く的外れのことであり,
むしろ人は,「私の生涯はイエス・キリストに従う者として,
神の御心に適ったものなのか否か」という問いを,問わねばならないのではないか!?
本質的な問題はイエス・キリストの十字架・救い・彼に従う自分の生であって,
洗礼問題・教会問題等々は,ルカの視点からすれば枝葉末節の問題なのである。
水で洗礼を受けるのを,一体誰が妨げることができますか」と言った。
そして,イエス・キリストの名によって洗礼を受けるようにと,
その人たちに命じた。
(使徒行伝11-46~48/新共同訳)
聖書,特にルカ文書において,水の洗礼とは何を意味していたのだろうか?
救われるべき条件なのか?それとも,救われたことのしるしなのか?
キリスト者なら誰でも受けるべきものなのか?
それとも,全く無に等しい儀式的行為なのか?
なぜルカ文書におけるペテロは,水の洗礼を受けるようにと要求しているのだろうか?
まず第一に確かなことは,ルカ文書において「洗礼」とは,
誰もが受けるべき絶対条件ではない,ということだ。
なぜなら,「天から降る聖霊の洗礼」と「人が施す水の洗礼」の関係が,
ルカ文書では非常に錯綜しているからだ。
聖霊の洗礼の後に水の洗礼が来ることがあれば,
水の洗礼の後に聖霊の洗礼が来ることもある。
また,聖霊の洗礼だけの場合もある。
水の洗礼と聖霊の洗礼に深い関係があることは確かだが,
水の洗礼のみを取り出して,それを重視するというような姿勢は,
福音書記者ルカの内にはない。
今回検証している聖句(使徒行伝11-46~48)の直前には,パウロの召命がある。
著者であるルカは福音書第二巻(使徒行伝)において,
パウロを最も重要な人物として紹介しているのであれば,
パウロの場合はどうであるかを詳しく読み取る必要があると思う。
パウロがイエスに出会い(9-5),聖霊に満たされ(9-17),洗礼を受けた時(9-18),
何が起こったか(9-18)?
パウロは力を得て(ενισχυσεν),福音を宣べ伝え(εκηρυσσεν),
イエスを指して「この人が神の子である(ουτοσ εστιν)」と言う。
ルカにとって,人が洗礼を受けて,力を受け,イエスを宣べ伝えることは,
非常に重要だったようで,ルカは二度までもパウロのこの行為を繰り返す(9-22)。
パウロはますます強くなり(ενεδυναμουτο),
福音を論証して(συμβιβαζων),
「この人がキリストである(ουτοσ εστιν)」と言う。
まるでルカの描くパウロは,ヨハネ伝における洗礼者ヨハネのようだ。
「見よ,世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1-29)
私はまだ使徒行伝を中途までしか読解していないので,
もう少し先まで読んでから,洗礼問題に関して結論を導き出す必要がある。
しかし,ルカ伝及び使徒行伝11章までの内容から判断すると,
ルカにおける水の洗礼とは,人間がイエス・キリストを信じ,
そのイエス・キリストの信仰から湧き出す「勇気と実行力」であるように思える。
故に,ルカ文書において洗礼問題を考える際,
「水の洗礼は受けるべきか否か」とか,「洗礼は救われるために必要か否か」とか,
そういう憂慮は,全くルカの眼中にないこと,全く的外れのことであり,
むしろ人は,「私の生涯はイエス・キリストに従う者として,
神の御心に適ったものなのか否か」という問いを,問わねばならないのではないか!?
本質的な問題はイエス・キリストの十字架・救い・彼に従う自分の生であって,
洗礼問題・教会問題等々は,ルカの視点からすれば枝葉末節の問題なのである。