ルカ伝を読了する。
福音書記者ルカは,マルコ伝及び独自資料を用いつつ,
悔い改める大罪人としてのイエスの伝記を書いたということは,
前回の投稿記事において書いた。
特に「悪魔の試み」(4-1~4-13)と「ゲッセマネの祈り」(22-39~22-46)は,
特別に注意して読むべきだということを,ルカはその編集の痕跡によって示している。
マタイ伝に比べると悪魔の試みは,第二と第三の試みが入れ替えられている。
すなわちルカは,「神の子なら,ここから飛び降りたらどうだ」(4-9)という試みを,
最も重要な試練であると解釈しているのである。
注意すべきなのは,第一の試みと第二の試みを退けたイエスの言葉,
「神の言葉によって生きよ」「神のみに仕えよ」という主張を,
悪魔はこの第三の試みで引き受けて,イエスを試みていることである。
神に服従して,最高の神信頼の中で,神と共に義の側に立つこと,
そういうことを,悪魔はイエスに要求しているのである。
しかしイエスは,神と共に義の側に立つことさえも拒否し,
ただ神の意志に従うことをもって,自己の生き方の指針とした(4-12)。
そうしてイエスは,神のみを義とする信仰に立脚しつつ,
罪人と食卓を共にする生涯を選んだのである。
(5-27~32,7-36~50,11-37~54,14-1~6,19-1~10,22-7~34)
この悪魔に支配されている世(4-6,10-18,22-31),
己を義とし,それ故常に虚栄心に支配され,
虚栄心の故に富を愛し,富を愛する故に貧しき者を蔑視する社会において,
貧しき者の側に立つということは,いつの時代も自己の破滅を意味する。
(9-23,12-50)
イエスのゲッセマネにおける苦しみは,
どんな時も従いたいし従ってきた「神の意志」と,
どんな時も拒みたいし拒み続けてきた「サタンの意志」が,
一致してしまうという苦しみである(22-42)。
神の御心に沿うように罪人たちを愛してきた結果として,
その罪人たちの総意によって,十字架につけられる。
そのことによって,神がサタンの意志を行うに任せたというところに,
ルカ伝におけるイエスの苦しみの本質がある。
そして,そういう神の思いを,ただ神の思いだというだけで,
受け入れ,願い,賛美したというところに,
正しき大罪人イエスの悔い改めの祈りの本質がある。
(「御心のままに行って下さい」)
イエスと罪人,イエスとサタン。
ルカはその著作の第二巻(使徒行伝)において,
その罪人の中にある一人としてのパウロを主人公としている。
悔い改める必要のない神の子(イエス)が悔い改めた時,
如何にして罪人(サウロ)の悔い改めが起こるのか,ということを,
福音書記者ルカは主張したいのではないか!?
まあ,使徒行伝の原典研究はこれからのことであるが,
私はルカ伝研究の結果として,そのように思う。
福音書記者ルカは,マルコ伝及び独自資料を用いつつ,
悔い改める大罪人としてのイエスの伝記を書いたということは,
前回の投稿記事において書いた。
特に「悪魔の試み」(4-1~4-13)と「ゲッセマネの祈り」(22-39~22-46)は,
特別に注意して読むべきだということを,ルカはその編集の痕跡によって示している。
マタイ伝に比べると悪魔の試みは,第二と第三の試みが入れ替えられている。
すなわちルカは,「神の子なら,ここから飛び降りたらどうだ」(4-9)という試みを,
最も重要な試練であると解釈しているのである。
注意すべきなのは,第一の試みと第二の試みを退けたイエスの言葉,
「神の言葉によって生きよ」「神のみに仕えよ」という主張を,
悪魔はこの第三の試みで引き受けて,イエスを試みていることである。
神に服従して,最高の神信頼の中で,神と共に義の側に立つこと,
そういうことを,悪魔はイエスに要求しているのである。
しかしイエスは,神と共に義の側に立つことさえも拒否し,
ただ神の意志に従うことをもって,自己の生き方の指針とした(4-12)。
そうしてイエスは,神のみを義とする信仰に立脚しつつ,
罪人と食卓を共にする生涯を選んだのである。
(5-27~32,7-36~50,11-37~54,14-1~6,19-1~10,22-7~34)
この悪魔に支配されている世(4-6,10-18,22-31),
己を義とし,それ故常に虚栄心に支配され,
虚栄心の故に富を愛し,富を愛する故に貧しき者を蔑視する社会において,
貧しき者の側に立つということは,いつの時代も自己の破滅を意味する。
(9-23,12-50)
イエスのゲッセマネにおける苦しみは,
どんな時も従いたいし従ってきた「神の意志」と,
どんな時も拒みたいし拒み続けてきた「サタンの意志」が,
一致してしまうという苦しみである(22-42)。
神の御心に沿うように罪人たちを愛してきた結果として,
その罪人たちの総意によって,十字架につけられる。
そのことによって,神がサタンの意志を行うに任せたというところに,
ルカ伝におけるイエスの苦しみの本質がある。
そして,そういう神の思いを,ただ神の思いだというだけで,
受け入れ,願い,賛美したというところに,
正しき大罪人イエスの悔い改めの祈りの本質がある。
(「御心のままに行って下さい」)
イエスと罪人,イエスとサタン。
ルカはその著作の第二巻(使徒行伝)において,
その罪人の中にある一人としてのパウロを主人公としている。
悔い改める必要のない神の子(イエス)が悔い改めた時,
如何にして罪人(サウロ)の悔い改めが起こるのか,ということを,
福音書記者ルカは主張したいのではないか!?
まあ,使徒行伝の原典研究はこれからのことであるが,
私はルカ伝研究の結果として,そのように思う。
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