キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

ゲッセマネの苦しみ

2011-05-08 19:38:51 | 聖書原典研究(共観福音書)
ルカ伝を読了する。

福音書記者ルカは,マルコ伝及び独自資料を用いつつ,

悔い改める大罪人としてのイエスの伝記を書いたということは,

前回の投稿記事において書いた。

特に「悪魔の試み」(4-1~4-13)と「ゲッセマネの祈り」(22-39~22-46)は,

特別に注意して読むべきだということを,ルカはその編集の痕跡によって示している。


マタイ伝に比べると悪魔の試みは,第二と第三の試みが入れ替えられている。

すなわちルカは,「神の子なら,ここから飛び降りたらどうだ」(4-9)という試みを,

最も重要な試練であると解釈しているのである。

注意すべきなのは,第一の試みと第二の試みを退けたイエスの言葉,

「神の言葉によって生きよ」「神のみに仕えよ」という主張を,

悪魔はこの第三の試みで引き受けて,イエスを試みていることである。

神に服従して,最高の神信頼の中で,神と共に義の側に立つこと,

そういうことを,悪魔はイエスに要求しているのである。

しかしイエスは,神と共に義の側に立つことさえも拒否し,

ただ神の意志に従うことをもって,自己の生き方の指針とした(4-12)。

そうしてイエスは,神のみを義とする信仰に立脚しつつ,

罪人と食卓を共にする生涯を選んだのである。
(5-27~32,7-36~50,11-37~54,14-1~6,19-1~10,22-7~34)


この悪魔に支配されている世(4-6,10-18,22-31),

己を義とし,それ故常に虚栄心に支配され,

虚栄心の故に富を愛し,富を愛する故に貧しき者を蔑視する社会において,

貧しき者の側に立つということは,いつの時代も自己の破滅を意味する。
(9-23,12-50)

イエスのゲッセマネにおける苦しみは,

どんな時も従いたいし従ってきた「神の意志」と,

どんな時も拒みたいし拒み続けてきた「サタンの意志」が,

一致してしまうという苦しみである(22-42)。

神の御心に沿うように罪人たちを愛してきた結果として,

その罪人たちの総意によって,十字架につけられる。

そのことによって,神がサタンの意志を行うに任せたというところに,

ルカ伝におけるイエスの苦しみの本質がある。

そして,そういう神の思いを,ただ神の思いだというだけで,

受け入れ,願い,賛美したというところに,

正しき大罪人イエスの悔い改めの祈りの本質がある。
(「御心のままに行って下さい」)


イエスと罪人,イエスとサタン。

ルカはその著作の第二巻(使徒行伝)において,

その罪人の中にある一人としてのパウロを主人公としている。

悔い改める必要のない神の子(イエス)が悔い改めた時,

如何にして罪人(サウロ)の悔い改めが起こるのか,ということを,

福音書記者ルカは主張したいのではないか!?

まあ,使徒行伝の原典研究はこれからのことであるが,

私はルカ伝研究の結果として,そのように思う。


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