人が、ひとりでいるのは良くない。
わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。(創世記2-18)
アリストテレス曰く、「人間とは社交的動物である」と。
全くの孤独な人間ほど、非人間的なものはない。
隣人なき人間とは、一種の悪魔である。
「全くの孤独な存在とは、神か悪魔でしかない」と言った思想家がいたが、
悪魔は孤独であったとしても、神は孤独を好み給わない。
父はその御子(イエス)を愛し、御子は彼に属する教会(キリスト者の集合)を愛する。
神に似せて造られたのが人間ならば、なぜゆえ孤独が人間の性質であり得ようか?
実に神の仰せられるように、ひとりでいるのは良くない、のである。
こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、
人にふさわしい助け手が、見あたらなかった。(創世記2-20)
どんなに雄大な自然も、どんなに美しい動植物も、
人間を慰め助けることはできない。
もちろん日々の仕事に疲れた心を、寛(くつろ)がせることはできるだろう。
自然と一体となった田舎の生活も、南の島のゆっくりとした時間も、
山や海や川に生息する動植物も、我々の孤独を慰めることはできない。
なぜゆえ世のOLは、海外にてストレスを発散しながら、
結果的にはストレスを発散し尽くせないのだろうか?
「あそこには私を癒すものがある」と自分で自分を納得させながら、
ボーナスの出るたびに強迫的に海外へ飛び出すのだろうか?
他でもない、自然や動植物には、人間を癒す本当の助け手がないからである。
こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、
ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。(創世記2-22)
男を癒すものは、女しかいない。
男と女は、互いの助け手になるために、神によって造られたのである。
親子の問題?友人の問題?人類の問題?
それらはみな、男女の問題の延長線に過ぎない。
男女があって親子があり、親子があって兄弟姉妹があり、
兄弟姉妹があって親類があり、友人も、師弟も、老若も、貧富も、
国家と人種の関係も、初めて成り立つのである。
すなわち、男女の関係を間違って、すべての人間関係を間違うのである。
現代日本の様々の問題も、その根本原因を突き詰めれば、
日本人の浅薄な恋愛感にあるのである。
男が女と出会う時、女が男と出会う時、
男も女も一つだけ注意せねばならない。
異性は見つけ出すものでも、探し出すものでも、造り上げるものでもなく、
連れて来られたものである。
目の前にいる恋人も、日々接する伴侶も、未だ見ぬパートナーも、
神の賜物なのである。
現代日本人の想像するような、自分で獲得するものでも、
性的交渉を至上命題とした関係でも、あわよくば奪取できる品物でもないのである。
神からのプレゼント、これが聖書的立場において見るべき異性である。
そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、
互いに恥ずかしいと思わなかった。(創世記2-25)
男と女が、目をもって見つめ合い、口と耳をもって語り合い、
行動をもって助け合って、赤裸々に自分を相手に示す時、
(カール・バルト「教会教義学 創造論 造られたもの」)
自然のままの人間は恥ずかしいと思う。
それは、己の内に罪なる念があるから、赤裸々に自分を相手に示し得ないからである。
しかしキリスト・イエスは、男女の罪を取り除き給い、
男女が罪の身このまま、互いに向き合う道を開き給うた。(ガラテヤ書5-13・14)
今や男は、キリストが教会を愛するように女を愛し、
今や女は、教会がキリストに従うように男に従い、
東洋の男尊女卑ではなく、西洋の女性崇拝でもなく、
互いに互いと向き合うことができる。
男女において間違って、親子において間違い、
親類に友人に師弟に、国家に人種に人類に、
すべての人間関係を間違えることになる。
ある意味でいえば、現代日本は男女関係が倒錯しているから、
すべての悪しき社会現象が生じるのである。
男はキリストを通して女を見、女はキリストを通して女を見ることなくして、
正しく異性を認識することはできないと思う。
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わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。(創世記2-18)
アリストテレス曰く、「人間とは社交的動物である」と。
全くの孤独な人間ほど、非人間的なものはない。
隣人なき人間とは、一種の悪魔である。
「全くの孤独な存在とは、神か悪魔でしかない」と言った思想家がいたが、
悪魔は孤独であったとしても、神は孤独を好み給わない。
父はその御子(イエス)を愛し、御子は彼に属する教会(キリスト者の集合)を愛する。
神に似せて造られたのが人間ならば、なぜゆえ孤独が人間の性質であり得ようか?
実に神の仰せられるように、ひとりでいるのは良くない、のである。
こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、
人にふさわしい助け手が、見あたらなかった。(創世記2-20)
どんなに雄大な自然も、どんなに美しい動植物も、
人間を慰め助けることはできない。
もちろん日々の仕事に疲れた心を、寛(くつろ)がせることはできるだろう。
自然と一体となった田舎の生活も、南の島のゆっくりとした時間も、
山や海や川に生息する動植物も、我々の孤独を慰めることはできない。
なぜゆえ世のOLは、海外にてストレスを発散しながら、
結果的にはストレスを発散し尽くせないのだろうか?
「あそこには私を癒すものがある」と自分で自分を納得させながら、
ボーナスの出るたびに強迫的に海外へ飛び出すのだろうか?
他でもない、自然や動植物には、人間を癒す本当の助け手がないからである。
こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、
ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。(創世記2-22)
男を癒すものは、女しかいない。
男と女は、互いの助け手になるために、神によって造られたのである。
親子の問題?友人の問題?人類の問題?
それらはみな、男女の問題の延長線に過ぎない。
男女があって親子があり、親子があって兄弟姉妹があり、
兄弟姉妹があって親類があり、友人も、師弟も、老若も、貧富も、
国家と人種の関係も、初めて成り立つのである。
すなわち、男女の関係を間違って、すべての人間関係を間違うのである。
現代日本の様々の問題も、その根本原因を突き詰めれば、
日本人の浅薄な恋愛感にあるのである。
男が女と出会う時、女が男と出会う時、
男も女も一つだけ注意せねばならない。
異性は見つけ出すものでも、探し出すものでも、造り上げるものでもなく、
連れて来られたものである。
目の前にいる恋人も、日々接する伴侶も、未だ見ぬパートナーも、
神の賜物なのである。
現代日本人の想像するような、自分で獲得するものでも、
性的交渉を至上命題とした関係でも、あわよくば奪取できる品物でもないのである。
神からのプレゼント、これが聖書的立場において見るべき異性である。
そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、
互いに恥ずかしいと思わなかった。(創世記2-25)
男と女が、目をもって見つめ合い、口と耳をもって語り合い、
行動をもって助け合って、赤裸々に自分を相手に示す時、
(カール・バルト「教会教義学 創造論 造られたもの」)
自然のままの人間は恥ずかしいと思う。
それは、己の内に罪なる念があるから、赤裸々に自分を相手に示し得ないからである。
しかしキリスト・イエスは、男女の罪を取り除き給い、
男女が罪の身このまま、互いに向き合う道を開き給うた。(ガラテヤ書5-13・14)
今や男は、キリストが教会を愛するように女を愛し、
今や女は、教会がキリストに従うように男に従い、
東洋の男尊女卑ではなく、西洋の女性崇拝でもなく、
互いに互いと向き合うことができる。
男女において間違って、親子において間違い、
親類に友人に師弟に、国家に人種に人類に、
すべての人間関係を間違えることになる。
ある意味でいえば、現代日本は男女関係が倒錯しているから、
すべての悪しき社会現象が生じるのである。
男はキリストを通して女を見、女はキリストを通して女を見ることなくして、
正しく異性を認識することはできないと思う。
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コメントさせていただきます。
ほとんどの人は、アガペー、フィレオ、エロスの
愛の形の中で、エロスのみに留まっていると感じます。(最近は特に)
異性は見つけ出すものでも、探し出すものでも、造り上げるものでもなく、連れて来られたものである。目の前にいる恋人も、日々接する伴侶も、未だ見ぬパートナーも、神の賜物なのである
男はキリストを通して女を見、女はキリストを通して女を見ることなくして、
正しく異性を認識することはできない
その通りだと思います。アーメン