キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

アイデンティティーの進歩

2007-05-22 22:13:59 | 無宗教主義
人は初め、○○家の子どもとして、

自分のアイデンティティーを確立する。

この幼稚な独自性は、ただただ存在してさえいれば、

満たされうるものである。


人は次に、○○学校の生徒として、

自分の立脚点を確立する。

親族から抜け出したことによって、人はより社会性を身につけ、

自分の我儘を断念し、自分の幼児性を抑えることを学ぶ。


人は次に、○○会社の社員として、

自分の存在意義を確立する。

一個の社会人として自分を公にし、社会に役立つよう自分を訓練し、

有能性をもって存在意義の立脚点とする。


人は次に、○○国の国民として、

自分の主義・行動を定めんと欲する。

国家に従うべき一人民として、国家の発展に役立つよう自分を使役し、

正義を最も尊ぶべき価値として重んずる。


人は次に、世界の市民として、

自分の価値如何を定めんとする。

人類に奉仕すべき一成員として、

博愛もって生きることを欲する。


人は最後に、キリストの弟子として、

自分の存在価値を見出さんと欲する。

自分の罪を贖い給うた神に頼り、その神から力を受納して、

犠牲の生涯を営まんと欲する。


アイデンティティーは進歩する。

キリスト以下のアイデンティティーは、

自分で自分を励まし、自分に納得できる成果を挙げ、

満たされるアイデンティティーである。

しかしキリストの弟子というアイデンティティーは、

キリストに頼ることによってしか成就できず、

自分を脱せずして満たすことはできない。

逆に言えば、キリストに徹頭徹尾頼る時に、

初めて満たされる体(てい)のアイデンティティーなのである。


キルケゴールが言うように、

キリスト者とは自分に何らかの功績を帰するプラスの人間ではなく、

自分に何もないことを自覚してキリストに力を頂くマイナスの人間である。

アイデンティティーの究極は、自分のアイデンティティーを無にすることである。



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