人それぞれに苦しみあり。
その苦しみを理解できずして、本当に人を憐れむことはできない。
経済的不安を抱く者に対して、貧しさを一度も知らぬ者は、
決して憐れむことはできない。
持病に苦しむ者に対して、一度も病気にかかったことのない者は、
決して憐れむことはできない。
もちろん、同情することはできる。
自分の進むべき道の途上で、道の路肩に倒れている者を、
やっつけ仕事で同情することはできる。
他人の不幸によって自分が幸福であることを確認し、
多少の優越感をもって慰めの言葉を語ることはできる。
しかし、他人の不幸を自分の不幸のごとく引き受け、
他人の代わりに自分が苦しみ、担おうとする人はいない。
イエスは深く憐れみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。
「わたしの心だ。きよくなれ」(マルコ伝1-41)
イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。
すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。(マタイ伝20-34)
主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。
そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、
「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われた。(ルカ伝7-14・15)
しかしイエスは、深く深く人を憐れみ給うた。
寡婦の嘆きも、病人の苦しみも、貧者の困苦も、罪人の苦悩も、
まるでご自身の苦しみのごとくに、引き受け給うた。
経済的不安を抱き、日々あくせく自分を駆り立てる者よ。
主イエスに頼れよ、主は汝の悩みを引き受け給うであろう。
重き持病に嘆きの声を挙げる者よ。
主イエスに縋れよ、主は汝の痛みを引き受け給うであろう。
罪の苦しみに呻く者よ。
主イエスを仰げよ、主は汝の罪を引き受け給うであろう。
主イエスにあって、人はこの苦しみ多き、憐れみ少なき人生を、
喜びもって生きることができる。
であるから、キリストを信ずる者は、仏教徒のような無我の境地に達することはできない。
自我が無くなったと称して、何も思考せず、何も為さず、
唯我独尊の幸福に浸ることはできない。
他ならぬイエスが、他人に憐れむという至高の自我を持ち給うたのである。
なぜゆえ、イエスを信ずる者が、他人に無関心でいられようか?
自分の苦しみを本当に憐れんでくれる人は一人もいない。
しかし主イエスは、私の苦しみを引き受け給う。
私はイエスに頼って、イエスに憐れまれて、
この癒し難き傷を癒され、他人の苦しみを担わんとするのである。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、
私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル書4-15)
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その苦しみを理解できずして、本当に人を憐れむことはできない。
経済的不安を抱く者に対して、貧しさを一度も知らぬ者は、
決して憐れむことはできない。
持病に苦しむ者に対して、一度も病気にかかったことのない者は、
決して憐れむことはできない。
もちろん、同情することはできる。
自分の進むべき道の途上で、道の路肩に倒れている者を、
やっつけ仕事で同情することはできる。
他人の不幸によって自分が幸福であることを確認し、
多少の優越感をもって慰めの言葉を語ることはできる。
しかし、他人の不幸を自分の不幸のごとく引き受け、
他人の代わりに自分が苦しみ、担おうとする人はいない。
イエスは深く憐れみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。
「わたしの心だ。きよくなれ」(マルコ伝1-41)
イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。
すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。(マタイ伝20-34)
主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。
そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、
「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われた。(ルカ伝7-14・15)
しかしイエスは、深く深く人を憐れみ給うた。
寡婦の嘆きも、病人の苦しみも、貧者の困苦も、罪人の苦悩も、
まるでご自身の苦しみのごとくに、引き受け給うた。
経済的不安を抱き、日々あくせく自分を駆り立てる者よ。
主イエスに頼れよ、主は汝の悩みを引き受け給うであろう。
重き持病に嘆きの声を挙げる者よ。
主イエスに縋れよ、主は汝の痛みを引き受け給うであろう。
罪の苦しみに呻く者よ。
主イエスを仰げよ、主は汝の罪を引き受け給うであろう。
主イエスにあって、人はこの苦しみ多き、憐れみ少なき人生を、
喜びもって生きることができる。
であるから、キリストを信ずる者は、仏教徒のような無我の境地に達することはできない。
自我が無くなったと称して、何も思考せず、何も為さず、
唯我独尊の幸福に浸ることはできない。
他ならぬイエスが、他人に憐れむという至高の自我を持ち給うたのである。
なぜゆえ、イエスを信ずる者が、他人に無関心でいられようか?
自分の苦しみを本当に憐れんでくれる人は一人もいない。
しかし主イエスは、私の苦しみを引き受け給う。
私はイエスに頼って、イエスに憐れまれて、
この癒し難き傷を癒され、他人の苦しみを担わんとするのである。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、
私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル書4-15)
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