キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

イエスは深く憐れまれた。

2007-05-14 22:37:03 | 人生の慰め
人それぞれに苦しみあり。

その苦しみを理解できずして、本当に人を憐れむことはできない。

経済的不安を抱く者に対して、貧しさを一度も知らぬ者は、

決して憐れむことはできない。

持病に苦しむ者に対して、一度も病気にかかったことのない者は、

決して憐れむことはできない。

もちろん、同情することはできる。

自分の進むべき道の途上で、道の路肩に倒れている者を、

やっつけ仕事で同情することはできる。

他人の不幸によって自分が幸福であることを確認し、

多少の優越感をもって慰めの言葉を語ることはできる。

しかし、他人の不幸を自分の不幸のごとく引き受け、

他人の代わりに自分が苦しみ、担おうとする人はいない。



イエスは深く憐れみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。
「わたしの心だ。きよくなれ」(マルコ伝1-41)

イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。
すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。(マタイ伝20-34)

主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。
そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、
「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言われた。(ルカ伝7-14・15)



しかしイエスは、深く深く人を憐れみ給うた。

寡婦の嘆きも、病人の苦しみも、貧者の困苦も、罪人の苦悩も、

まるでご自身の苦しみのごとくに、引き受け給うた。

経済的不安を抱き、日々あくせく自分を駆り立てる者よ。

主イエスに頼れよ、主は汝の悩みを引き受け給うであろう。

重き持病に嘆きの声を挙げる者よ。

主イエスに縋れよ、主は汝の痛みを引き受け給うであろう。

罪の苦しみに呻く者よ。

主イエスを仰げよ、主は汝の罪を引き受け給うであろう。

主イエスにあって、人はこの苦しみ多き、憐れみ少なき人生を、

喜びもって生きることができる。


であるから、キリストを信ずる者は、仏教徒のような無我の境地に達することはできない。

自我が無くなったと称して、何も思考せず、何も為さず、

唯我独尊の幸福に浸ることはできない。

他ならぬイエスが、他人に憐れむという至高の自我を持ち給うたのである。

なぜゆえ、イエスを信ずる者が、他人に無関心でいられようか?


自分の苦しみを本当に憐れんでくれる人は一人もいない。

しかし主イエスは、私の苦しみを引き受け給う。

私はイエスに頼って、イエスに憐れまれて、

この癒し難き傷を癒され、他人の苦しみを担わんとするのである。



私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、
私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル書4-15)



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