キリスト者の慰め

無宗教主義の著者が、人生の苦しみに直面し、キリストによって慰めをえる記録

キリスト者の生

2007-02-08 00:10:09 | 聖書読解
なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、
その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。
「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ書1-17)



キリスト者とは、イエス・キリストに出会った者である。

自分が望んでもないのにイエスは来たり、

自分が愛した訳でもないのにイエスに愛され、

自分が信じようと欲した訳でもないのに、信じるよう強いられた人間である。

イエスが我らの罪を贖い給うた、我らはただただ信ずればよい、

この信仰によって、キリスト者の生は開始される。

キリスト者の生は信仰に始まる、ならばその次に来るものは何か?

神学か?

カルヴァン神学やバルト神学を学び、聖書を哲学的に認識して、

キリスト者は生きるべきなのか?

それとも教会か?

ある特定の教会に所属し、あの人この人と交流して、

一緒にイエスを賛美することによって、キリスト者の生は完結するのか?

それとも特定の教義であるか?

三位一体の蘊奥を知り尽くし、イエスの神性と人性を知り尽くし、

予定の秘儀を知り尽くし、そのようにしてキリスト者は満足すべきか?

あるいは倫理だろうか?

完全無欠の円満な人格を形成し、人も賛嘆する道徳を身につけ、

傷一つない倫理を実践して、キリスト者はキリスト者となるのか?

最後に聖霊だろうか?

確かに聖霊論は、キリスト者の生を決定付ける重要な問題である。

しかし聖霊論は、世人が想像するような何か実体のないゴーストでなく、

キリストの一段下にいる、我らの御しやすいいい加減な存在でもない。


キリスト者の生は、信仰に始まり、信仰によって進むべきである。

キリストを信じるか否か、キリストか非キリストか、

キリスト者と非キリスト者の境界線は、ここに存するのである。

故に私は、信じよう。主に頼って、主を信じよう。

私は神学的に無知である、しかし主を信じよう。

私は倫理的に不完全である、しかし主を信じよう。

私は教会を知らず、しかし主を信じよう。

私は聖霊を充分に知り尽くせぬ、しかし主を信じよう。

主を信じよう、主を信じよう。

イエスを信じて、イエスに縋って、

私は私の生を生きるべきである。

いや、生きるしかないのである。



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