なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、
その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。
「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ書1-17)
キリスト者とは、イエス・キリストに出会った者である。
自分が望んでもないのにイエスは来たり、
自分が愛した訳でもないのにイエスに愛され、
自分が信じようと欲した訳でもないのに、信じるよう強いられた人間である。
イエスが我らの罪を贖い給うた、我らはただただ信ずればよい、
この信仰によって、キリスト者の生は開始される。
キリスト者の生は信仰に始まる、ならばその次に来るものは何か?
神学か?
カルヴァン神学やバルト神学を学び、聖書を哲学的に認識して、
キリスト者は生きるべきなのか?
それとも教会か?
ある特定の教会に所属し、あの人この人と交流して、
一緒にイエスを賛美することによって、キリスト者の生は完結するのか?
それとも特定の教義であるか?
三位一体の蘊奥を知り尽くし、イエスの神性と人性を知り尽くし、
予定の秘儀を知り尽くし、そのようにしてキリスト者は満足すべきか?
あるいは倫理だろうか?
完全無欠の円満な人格を形成し、人も賛嘆する道徳を身につけ、
傷一つない倫理を実践して、キリスト者はキリスト者となるのか?
最後に聖霊だろうか?
確かに聖霊論は、キリスト者の生を決定付ける重要な問題である。
しかし聖霊論は、世人が想像するような何か実体のないゴーストでなく、
キリストの一段下にいる、我らの御しやすいいい加減な存在でもない。
キリスト者の生は、信仰に始まり、信仰によって進むべきである。
キリストを信じるか否か、キリストか非キリストか、
キリスト者と非キリスト者の境界線は、ここに存するのである。
故に私は、信じよう。主に頼って、主を信じよう。
私は神学的に無知である、しかし主を信じよう。
私は倫理的に不完全である、しかし主を信じよう。
私は教会を知らず、しかし主を信じよう。
私は聖霊を充分に知り尽くせぬ、しかし主を信じよう。
主を信じよう、主を信じよう。
イエスを信じて、イエスに縋って、
私は私の生を生きるべきである。
いや、生きるしかないのである。
人気blogランキングへ
その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。
「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ書1-17)
キリスト者とは、イエス・キリストに出会った者である。
自分が望んでもないのにイエスは来たり、
自分が愛した訳でもないのにイエスに愛され、
自分が信じようと欲した訳でもないのに、信じるよう強いられた人間である。
イエスが我らの罪を贖い給うた、我らはただただ信ずればよい、
この信仰によって、キリスト者の生は開始される。
キリスト者の生は信仰に始まる、ならばその次に来るものは何か?
神学か?
カルヴァン神学やバルト神学を学び、聖書を哲学的に認識して、
キリスト者は生きるべきなのか?
それとも教会か?
ある特定の教会に所属し、あの人この人と交流して、
一緒にイエスを賛美することによって、キリスト者の生は完結するのか?
それとも特定の教義であるか?
三位一体の蘊奥を知り尽くし、イエスの神性と人性を知り尽くし、
予定の秘儀を知り尽くし、そのようにしてキリスト者は満足すべきか?
あるいは倫理だろうか?
完全無欠の円満な人格を形成し、人も賛嘆する道徳を身につけ、
傷一つない倫理を実践して、キリスト者はキリスト者となるのか?
最後に聖霊だろうか?
確かに聖霊論は、キリスト者の生を決定付ける重要な問題である。
しかし聖霊論は、世人が想像するような何か実体のないゴーストでなく、
キリストの一段下にいる、我らの御しやすいいい加減な存在でもない。
キリスト者の生は、信仰に始まり、信仰によって進むべきである。
キリストを信じるか否か、キリストか非キリストか、
キリスト者と非キリスト者の境界線は、ここに存するのである。
故に私は、信じよう。主に頼って、主を信じよう。
私は神学的に無知である、しかし主を信じよう。
私は倫理的に不完全である、しかし主を信じよう。
私は教会を知らず、しかし主を信じよう。
私は聖霊を充分に知り尽くせぬ、しかし主を信じよう。
主を信じよう、主を信じよう。
イエスを信じて、イエスに縋って、
私は私の生を生きるべきである。
いや、生きるしかないのである。
人気blogランキングへ
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます