▼稲取の八幡神社のこと(その2 信仰の厚さ、瓦のこと、八幡の由来)
■石の鳥居をくぐってすぐの左側の小屋の中に井戸。
源頼朝が伊東へ流適の際、
源氏再興を祈願して水垢離(みずごり)を行ったと伝えられる井戸。
社殿内には
源頼朝が寄進したと伝えられる
守本尊(伝 慈覚大師作の薬師像)も祀られているそうだ。(未確認)
■前方右側には、
解説付きの展示物。
ちょっと読んでみよう。
<前半>
若宮八幡大神は、稲取総鎮守参土神にして、
この里を開き給いし大神に坐しまして、
社傅に摩牟称(まむね)明神と称え奉いて、
延喜式神名帳所載の神社と言う。
その昔、竜宮崎と秀都の崎(ほづのみさき)と言うその麓に鎮座まします
古社であります。
現在、山の上の老松は千年の昔をしのばれ、空高くそびえております。
神社は寺院と違い
「神聖なる場所」にお社を建て神を祀ったもの。
廃寺はよくある話だが廃社(?という言葉があるかわからない)はない。
神社というのは、
檀家や宗派とは関係なく、ただそこに神様のお社一つあれば成立する。
そういった意味合いがあるので長くその地に存在するのだ。(宮司さんポイント・3)
こちらの八幡神社も、
もともと、もっと山の方にあったそう。
ここに書かれている、老松の根元なのだろうか。
いつか確かめに行ってみたい。
■さらに読み進めると。
<中ほど>
拝殿は安政の始め
天城の山から引き出された(つが)の木で造られておりまして、
社殿は伊豆地方における立派な建物で、稲取の重要文化財です。
現在百二十数年の星霜を経て風雨を凌いで参りましたが、
数年前から雨漏りが激しくなり、今般稲取地区財産区の補助金を得て
屋根瓦葺替工事を完了しました。
今般とは、この文章の最後にある日付が昭和50年となっているので
その時だろう。
■その続きは・・・。
<後半>
安政二年十月二日、江戸大地震の時、
稲取出身者たちが皆無事であったことは、一重に氏神様の御加護によると
誠心こめて燈籠を奉納の申し出がありましたが、
当時の世話人前田三郎左ヱ門外二四名の人から
屋根瓦寄付の願の書面を
江戸日本橋四日市に住む伊勢屋善兵衛様(東町新家の出)に出して、歎願したのです。
そこで問屋筋百五十数戸稲取出身者数名からも瓦の寄付がありました。
伊勢屋善兵衛様から特に金百両の寄付がありまして、
安政四年に出来上がりました。
ここに陳列してある鬼瓦は当時のものです。
いかに当時の方々が苦心惨憺して拝殿を造営し
屋根瓦葺に努力したことを考えさせられます。
茲に寄附金の看板と当時の屋根の写真を陳列して永くその功績を称えます。
昭和五十年七月吉日 八幡神社宮司 稲岡秀男
江戸時代、多くの稲取出身者が江戸へ上っていたが
安政の大地震(1855)の際、その全員が生き残った。
彼らは、お守りくださった氏神様のために
こぞって寄付をした。
当時、江戸の大店は
店の優秀な番頭さんを婿として迎え発展していったが
稲取から江戸へ奉公人としてあがった善兵衛さんもその一人。
伊勢屋の主人にまでなり、
百両もの大金を寄付したという記録。
■そのような経緯で
社殿は江戸時代の終わり、
元治元年(1864)に建て直された、というわけだ。
立派な瓦!!!
両脇の飛狛もキュート。
よく見ると
正面中央には、2羽のハト。
平和の象徴??なんだかちょっと西洋の香りが。。。
狐が稲荷神社のお使いであるのと同様
鳩は、八幡神社の祭神のお使い。
八幡神社の祭神である誉田別命が国内を平定する時に、
水先案内人となったのが鳩であったとされ、
以来、鳩は八幡神の使いとされるようになったそうだ。
■ところで、今回調べてみた八幡神社についての覚書。
全国で4万を越える八幡神社の総本宮は、
宇佐神宮(宇佐八幡)(大分県宇佐市大字南宇佐字亀山)。
八幡神は「日本書記」や「古事記」に記されていない神で、
天皇(人格)が神として祀られたとされるもので、
その起源などについては謎の部分が多い。
一般的な縁起などによると、
欽明天皇の32年(571)に、
初めて、宇佐の地に現れた応神天皇(誉田別命~ホンダワケノミコト)の神霊を
八幡神として祀ったのが創起とされる。
■「八幡」の起源は、
天から赤白それぞれ四旒(リュウ)、
計八旒の旗が天から降って来たことに由来するという。
旗を林立させた軍を率いる武神をイメージさせる。
その一方、
宇佐八幡神は、
奈良時代、東大寺の大仏建立のため上洛して、東大寺の守護神とされ、
さらに神仏習合して「八幡大菩薩」として
仏法守護の神、鎮護国家の神ともされている。
■源氏の棟梁、源義家は八幡神を武門の守護神として仰ぎ、
八幡太郎義家と称した。
源頼朝が鎌倉幕府を開くと
その中心に鶴岡八幡宮を置いたのだった。
■そういった経緯からもこの神社の境内の
頼朝水垢離の井戸の存在は納得できる。
■ついでに、
鶴岡八幡宮(鎌倉)本殿の神額も
八の字が二羽の金鳩になっていて、
鳩サブレは、これにちなんだお菓子だそうだ(宮司さんポイント・4)
鳩サブレもしかり
「きざはし」が食べたくなってしまった所で
つづく~~。
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■石の鳥居をくぐってすぐの左側の小屋の中に井戸。
源頼朝が伊東へ流適の際、
源氏再興を祈願して水垢離(みずごり)を行ったと伝えられる井戸。
社殿内には
源頼朝が寄進したと伝えられる
守本尊(伝 慈覚大師作の薬師像)も祀られているそうだ。(未確認)
■前方右側には、
解説付きの展示物。
ちょっと読んでみよう。
<前半>
若宮八幡大神は、稲取総鎮守参土神にして、
この里を開き給いし大神に坐しまして、
社傅に摩牟称(まむね)明神と称え奉いて、
延喜式神名帳所載の神社と言う。
その昔、竜宮崎と秀都の崎(ほづのみさき)と言うその麓に鎮座まします
古社であります。
現在、山の上の老松は千年の昔をしのばれ、空高くそびえております。
神社は寺院と違い
「神聖なる場所」にお社を建て神を祀ったもの。
廃寺はよくある話だが廃社(?という言葉があるかわからない)はない。
神社というのは、
檀家や宗派とは関係なく、ただそこに神様のお社一つあれば成立する。
そういった意味合いがあるので長くその地に存在するのだ。(宮司さんポイント・3)
こちらの八幡神社も、
もともと、もっと山の方にあったそう。
ここに書かれている、老松の根元なのだろうか。
いつか確かめに行ってみたい。
■さらに読み進めると。
<中ほど>
拝殿は安政の始め
天城の山から引き出された(つが)の木で造られておりまして、
社殿は伊豆地方における立派な建物で、稲取の重要文化財です。
現在百二十数年の星霜を経て風雨を凌いで参りましたが、
数年前から雨漏りが激しくなり、今般稲取地区財産区の補助金を得て
屋根瓦葺替工事を完了しました。
今般とは、この文章の最後にある日付が昭和50年となっているので
その時だろう。
■その続きは・・・。
<後半>
安政二年十月二日、江戸大地震の時、
稲取出身者たちが皆無事であったことは、一重に氏神様の御加護によると
誠心こめて燈籠を奉納の申し出がありましたが、
当時の世話人前田三郎左ヱ門外二四名の人から
屋根瓦寄付の願の書面を
江戸日本橋四日市に住む伊勢屋善兵衛様(東町新家の出)に出して、歎願したのです。
そこで問屋筋百五十数戸稲取出身者数名からも瓦の寄付がありました。
伊勢屋善兵衛様から特に金百両の寄付がありまして、
安政四年に出来上がりました。
ここに陳列してある鬼瓦は当時のものです。
いかに当時の方々が苦心惨憺して拝殿を造営し
屋根瓦葺に努力したことを考えさせられます。
茲に寄附金の看板と当時の屋根の写真を陳列して永くその功績を称えます。
昭和五十年七月吉日 八幡神社宮司 稲岡秀男
江戸時代、多くの稲取出身者が江戸へ上っていたが
安政の大地震(1855)の際、その全員が生き残った。
彼らは、お守りくださった氏神様のために
こぞって寄付をした。
当時、江戸の大店は
店の優秀な番頭さんを婿として迎え発展していったが
稲取から江戸へ奉公人としてあがった善兵衛さんもその一人。
伊勢屋の主人にまでなり、
百両もの大金を寄付したという記録。
■そのような経緯で
社殿は江戸時代の終わり、
元治元年(1864)に建て直された、というわけだ。
立派な瓦!!!
両脇の飛狛もキュート。
よく見ると
正面中央には、2羽のハト。
平和の象徴??なんだかちょっと西洋の香りが。。。
狐が稲荷神社のお使いであるのと同様
鳩は、八幡神社の祭神のお使い。
八幡神社の祭神である誉田別命が国内を平定する時に、
水先案内人となったのが鳩であったとされ、
以来、鳩は八幡神の使いとされるようになったそうだ。
■ところで、今回調べてみた八幡神社についての覚書。
全国で4万を越える八幡神社の総本宮は、
宇佐神宮(宇佐八幡)(大分県宇佐市大字南宇佐字亀山)。
八幡神は「日本書記」や「古事記」に記されていない神で、
天皇(人格)が神として祀られたとされるもので、
その起源などについては謎の部分が多い。
一般的な縁起などによると、
欽明天皇の32年(571)に、
初めて、宇佐の地に現れた応神天皇(誉田別命~ホンダワケノミコト)の神霊を
八幡神として祀ったのが創起とされる。
■「八幡」の起源は、
天から赤白それぞれ四旒(リュウ)、
計八旒の旗が天から降って来たことに由来するという。
旗を林立させた軍を率いる武神をイメージさせる。
その一方、
宇佐八幡神は、
奈良時代、東大寺の大仏建立のため上洛して、東大寺の守護神とされ、
さらに神仏習合して「八幡大菩薩」として
仏法守護の神、鎮護国家の神ともされている。
■源氏の棟梁、源義家は八幡神を武門の守護神として仰ぎ、
八幡太郎義家と称した。
源頼朝が鎌倉幕府を開くと
その中心に鶴岡八幡宮を置いたのだった。
■そういった経緯からもこの神社の境内の
頼朝水垢離の井戸の存在は納得できる。
■ついでに、
鶴岡八幡宮(鎌倉)本殿の神額も
八の字が二羽の金鳩になっていて、
鳩サブレは、これにちなんだお菓子だそうだ(宮司さんポイント・4)
鳩サブレもしかり
「きざはし」が食べたくなってしまった所で
つづく~~。
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