江戸観光案内

古地図を片手に江戸の痕跡を見つけてみませんか?

紙洗橋

2012-05-05 | まち歩き

紙洗橋は山谷堀に架けられていた橋で、山谷堀が埋め立てられた現在は親柱だけが残されています。


橋の名前は、周辺で「浅草紙」と呼ばれる紙を漉いていたことに由来します。この浅草紙というのは、古紙を漉き返したいわゆる再生紙のことで、紙質は墨が取り除かれないために鼠色で、漉き方も雑な下等な紙でしたが、安価であったために江戸の庶民には親しまれ、鼻紙や落とし紙として常用されたとのことです。現代風に言えば鼻紙はティッシュペーパー、落とし紙はトイレットペーパーのことです。


浅草紙の大まかな製造方法は、細かくした古紙を煮て溶かし、それを冷やして洗い、叩いて砕き、それを漉くというものです。この工程で、煮た古紙を冷ます作業を「冷やかし」と呼んでいましたが、その待ち時間に職人が近くの吉原を見物しに行ったことから、転じて、買う気が無いのに見るだけの行為を「冷やかし」と呼ぶようになったと言われています。「冷やかし」と聞くと、普通はウインドウショッピングか人をからかうような場合に使うと考えますが、広辞苑(岩波書店)には、「張見世の遊女を見歩くだけで登楼しないこと」という意味もしっかり載っており感心させられます。


時代小説の中では、紙洗橋は、藤沢周平著「天保悪党伝(闇のつぶて)」の中で、吉原の遊女・三千歳と会っていた金子市之丞が、吉原の廓の外に出た後に、山谷堀の土手を歩く場面で登場しています。


紙洗橋 東京都台東区東浅草1-4-6

東京メトロ銀座線・都営浅草線 浅草駅から約1.3km 徒歩約17分


Dsc_1622


最新の画像もっと見る

コメントを投稿