新 ゆ~ゆ~日記

一生独身を決めた男の自堕落で貧乏くさい日記

エッセイ「愛の反対は」

2006年06月14日 | エッセイ
ちょっと前に目にした言葉。

「愛の反対は 憎しみではなく 無関心なのです」

マザー・テレサの言葉らしいが、全くその通りだと思う。
「かわいさ余って憎さ百倍」という言葉があるとおり、愛しすぎて憎しみに変わることがある。
またその逆に、誤解や偏見などがあって憎んでいたけど、それが解けたとき憎しみから愛に変わることもあるだろう。
ということは、そこには少なからずや愛があるわけで、愛の反対とはならないわけだ。

無関心とは、愛も憎しみも発生しない、本当に何の興味もない状態。
何の興味もなければ、愛どころか、好意・恐怖・尊敬など、すべての感情がないわけで、それは非常に悲しいことだと思う。
だから、僕のように愛を求めている人には、相手が僕に対して無関心であると感じたときや、眼中にないと感じたとき、寂しさや悲しさを感じてしまうのか。
好きでいてくれなくていい、嫌いでもいいから僕に興味を持ってほしいと思うのは、そこには少なくとも愛があるというのが本能的に分かっていたから、そう思ってしまったのか。

昔は、近所の人たち皆で子供を育てていたというが、今は、他人の家の子など知らん顔。
実際、僕も、同じ町内に住む子供達に、どんな子がいるのかさえ、全く知らない。
僕の小さい頃なんて、いたずらや悪いことをしていたら、すぐに近所の知らないオッサン達に叱られていたものである。
その当時は、そのオッサンどもに怒りを覚えていたが、今となっては、そこに愛があったから叱ってくれた。僕のことを想ってくれていたから叱ってくれたのだと理解できる。
ところが今は、近所の子供が何をしていようが知ったことではない。やたら叱ると逆ギレされて面倒だ。という大人が多い。
注意して、最近の大人びた子供達に生意気な口をきかれたり、注意した子供の親が出てきたり、最悪の場合、刃物で傷つけられたり、そういったことが余計に無関心にさせているのだろうか?
いや、無関心にならざるを得ないと言えるかもしれない。
でもそれは、大変に危険なことだと思う。
もっと、そのことに危機感を持って、近所の子供はもちろん、お互いに関心を持てば、事件や争いごとが少なくなるのかもしれない。

また最近は、近所の子どころか、自分の子供にさえ無関心な親というのも増えてきているらしく、それに比例して、子供達が犠牲になる悲しい事件・事故も増えてきている。
子供をいじめる親、子供を無視する親、パチンコ店の駐車場の車に子供を放置する親。挙げ句の果ては、虐待、殺害。
僕が思うに、今の親たちは、子供のまま大人になった為、そういった事件が起こるのではないかと思う。
幼い子供のように、自分勝手で、自分にしか興味がない為、当然そこには愛がないわけで、そういった事件が起こるのは必然なのだ。
先進国特有の社会病だと言う人もいるが、その病気を治さないと、この先どうなってしまうのだろうか・・・。

マザー・テレサは、他にもこんなことを言っていたらしい。

「物質的に貧しい人は他の貧しい人を助けます。精神的には大変豊かな人たちです。物質的に豊かな多くの人は他人に無関心です。精神的に貧しい人たちです。」

昔の日本は貧しかった。
だからそこには愛があって、貧しいながらも古き良き時代だったのだろう。
しかし今は、国が豊かになって、物質的に豊かになった為、他人に対して無関心な人が増えたのかもしれない。
そう考えると、僕はお金持ちより、貧乏のままでいいかな?と少し慰められる。
貧乏は貧乏で、たまにツラいこともあるけど、愛のない人より、よほどいいかな?

逆に、無関心の方が良い場合もある。
宗教や物欲、支配欲などに関心がなければ、争いや戦争は起きない。
でもそれは、そんな簡単な事じゃない。
人間が人間である以上、争いは必ず起きるのだ。


「愛の反対は 憎しみではなく 無関心なのです」

本当に納得させられ、奥の深い言葉だ。

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