離宮を上空から航空写真で見るとこのようになります。
3つの御茶屋は現在は松並木道で結ばれていますが、これは明治になってから整備された
もので、元は田んぼのあぜ道だったそうです。後水尾院をはじめ、この山荘に行幸された
上皇・法皇はいずれもあぜ道を歩いて山荘内を巡られたそうです。
林丘寺門跡の記事でも書きましたが中御茶屋は元は朱宮御所、林丘寺門跡で明治になって
から離宮に組み入れられました。楽只軒(手前)と客殿(奥の高い建物)はいずれも旧朱宮御所です。
楽只軒の前庭にある苑池は創建当時の古図にも描かれている。
客殿は東福門院(後水尾院中宮、将軍秀忠娘)の女院御所の奥対面所を移築した。一の間の飾り棚は
霞棚と呼ばれて桂離宮の棚と醍醐寺の棚とならんで天下三棚と称されている。
客殿内の杉戸に描かれた祇園祭の「岩戸山」と「放下鉾」の図
客殿の欄干は網を干した形をあらわしているので「網干の欄干」と呼ばれる。
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3つの御茶屋は現在は松並木道で結ばれていますが、これは明治になってから整備された
もので、元は田んぼのあぜ道だったそうです。後水尾院をはじめ、この山荘に行幸された
上皇・法皇はいずれもあぜ道を歩いて山荘内を巡られたそうです。
林丘寺門跡の記事でも書きましたが中御茶屋は元は朱宮御所、林丘寺門跡で明治になって
から離宮に組み入れられました。楽只軒(手前)と客殿(奥の高い建物)はいずれも旧朱宮御所です。
楽只軒の前庭にある苑池は創建当時の古図にも描かれている。
客殿は東福門院(後水尾院中宮、将軍秀忠娘)の女院御所の奥対面所を移築した。一の間の飾り棚は
霞棚と呼ばれて桂離宮の棚と醍醐寺の棚とならんで天下三棚と称されている。
客殿内の杉戸に描かれた祇園祭の「岩戸山」と「放下鉾」の図
客殿の欄干は網を干した形をあらわしているので「網干の欄干」と呼ばれる。
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