今日の日本経済新聞からもう1つ。「今を読み解く」というセクションに一橋大学の野中郁次郎教授の記事が掲載された。タイトルは、『知識の資産化 - 本質は人』。その一部を抜粋すると、
知識創造論の核心にあるのは、主観と客観、暗黙知と形式知
という相対立する世界を往還しつつ、これを綜合する弁証法
的プロセスである。
知識経営とは、知識をマネージするのではなく、この弁証法
的プロセスをマネージすることである。知識の本質は人に
ある。
この中で興味深いのは、知識のマネージメントという考えをしっかり切り捨てている部分である。そもそもナレッジ・マネージメントという言葉は矛盾を孕んでいるのである。記事に触れられている通り、ナレッジそのものが相対立する要素を持っているという問題。また、ナレッジという有機的なものがマネージできるのかという問題。つまり「知識の本質は人にある」ということである。
ナレッジをマネージするというプロセスは多分に有機的なプロセスであり、目に見えるものを整理・統合していくというものではない。マッキンゼーが辿りついたナレッジ・マネージメントの仕組みは、管理というよりも、むしろ自律的に成長するアダプティブなものであったという。
別の機会に野中郁次郎教授の提唱するSECIモデルについても議論してみようと思います。興味のある方は、知識創造企業がお薦めです。
知識創造論の核心にあるのは、主観と客観、暗黙知と形式知
という相対立する世界を往還しつつ、これを綜合する弁証法
的プロセスである。
知識経営とは、知識をマネージするのではなく、この弁証法
的プロセスをマネージすることである。知識の本質は人に
ある。
この中で興味深いのは、知識のマネージメントという考えをしっかり切り捨てている部分である。そもそもナレッジ・マネージメントという言葉は矛盾を孕んでいるのである。記事に触れられている通り、ナレッジそのものが相対立する要素を持っているという問題。また、ナレッジという有機的なものがマネージできるのかという問題。つまり「知識の本質は人にある」ということである。
ナレッジをマネージするというプロセスは多分に有機的なプロセスであり、目に見えるものを整理・統合していくというものではない。マッキンゼーが辿りついたナレッジ・マネージメントの仕組みは、管理というよりも、むしろ自律的に成長するアダプティブなものであったという。
別の機会に野中郁次郎教授の提唱するSECIモデルについても議論してみようと思います。興味のある方は、知識創造企業がお薦めです。