団塊太郎の徒然草

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世界最高の胡椒は日本人の俺がカンボジアで作る!

2013-02-03 18:02:44 | 日記
ボランティアから転じた倉田浩伸・クラタペッパー社長の意地と行動力

世界最高級の胡椒は日本人が作っていることをご存じだろうか。倉田浩伸さん。クラタペッパーの創業社長である。いま世界の胡椒はベトナム産が圧倒的に多いが、実は胡椒と言えばかつてはカンボジアだった。

クラタペッパーの倉田浩伸社長。プノンペンのお店の前で

 700年もの栽培の歴史があるという。しかし、その伝統的な栽培技術は、例のポルポト政権によって根絶やしにされてしまった。倉田さんは、ボランティアとしてカンボジアに入り、この国に魅入られていくなかでたまたまこの胡椒に出合う。

 カンボジアへの貢献をずっと思い続けてきた倉田さんは「これだ」と思う。そしてやるなら徹底的にやろうと考えた。日本人らしい発想である。

 徹底的に有機栽培にこだわって、安心・安全で最高級の胡椒を作ろうと栽培を始めたのだ。1997年のことである。

 日本での知名度はそれほど高くないが、世界最大の胡椒消費国・ドイツではクラタペッパーはいまや超高級品として有名になっている。

 日本人の魂とやる気・アイデアとカンボジアの風土と人々が合体してできたクラタペッパーは、企業規模は決して大きくない。しかしその中身は、日本を代表する国際企業と言ってもいいのではないだろうか。

20代でカンボジアに貿易会社を設立するも、最初は失敗続き

川嶋 倉田さんがカンボジアをビジネスの地に選んだのはどんな理由からですか。

倉田 大学4年の時に、NGOのボランティアとしてカンボジアに来たのがきっかけです。

 ポル・ポト政権時代の避難民を帰還させるプロジェクトがあり、タイ国境にある難民キャンプから帰還された人たちが新定住地が決まるまでのあいだ滞在するレセプションセンターで手伝いをしていました。大学卒業後もカンボジアに何度も来て、結局、居着くことになったんです。

川嶋 何がそうさせたんでしょうか。

倉田 最初に来た時のインパクトが強かったからです。レセプションセンターで働いていた時に、難民の多くの方が「カンボジアには何も産業がない。新定住地に行って本当に生きていけるのか」という不安を抱いていました。

 ですから私はハコものだけの支援ではなく、国が自立するために何か一緒にできないかとずっと考えていました。

 カンボジアは農業国だから農産物を輸出してはどうかと思い、それでプノンペンに貿易会社をつくりました。1994年のことです。プノンペンのホテルの一室を借りて事務所にし、調査を始めました。

川嶋 その貿易会社では何から始めたのですか。

倉田 最初に日本に輸出したのはドリアンです。これが意外と評判がよくて、築地の仲卸業者にサンプルとして30個送ったんですが、今度は100個ほしいと。それで送ろうとしたら、カンボジアでストップがかかった。

 最初に送った時は旅客機だったんですが、乗客のスーツケースに臭いがついたというクレームが来たらしいんです。それでドリアンは危険物扱いになりダメだと。チャーター機ならあると言われたんですが、コスト的に無理で、結局諦めざるを得なかった。

 それで次はヤシの実を輸出しましたが、他の荷物の重みで破裂して周りが水浸しになったり・・・。結果的にこれも失敗しました。

 ほかにカンボジアから輸出できるものはないかなと探している時に、私の母の叔父からある資料をもらったんです。それはカンボジアの1960年代の農産物に関する資料でした。

 当時、カンボジアでどんな農産物が作られていたかが書かれていて、その中に商品作物として胡椒やタバコ、天然ゴムがありました。タバコは日本では日本たばこ産業が独占していますし、天然ゴムは巨大なプランテーションが必要だから一個人では難しい。

 胡椒なら何とかなるかもしれないと思い、資料を頼りに昔の胡椒産地を訪ね歩いたんです。するとなるほどいい胡椒があった。調べてみると、かつての宗主国であるフランスではカンボジアの胡椒は有名だったことが分かりました。

700年の歴史があるカンボジア胡椒の復活に取り組む


クラタペッパー(KURATA PEPPER)の商品。左から黒胡椒、白胡椒、完熟胡椒。このほか酢漬けの緑胡椒や緑胡椒の佃煮、胡椒石鹸などもある(撮影:前田せいめい)

川嶋 カンボジアの胡椒は何か特長があるんですか。

倉田 香りと味に優れていて品質は非常にいいです。ほどよい辛さで、爽やかな香りが特長です。フランス料理では辛さが強すぎると料理の味が損なわれますから、ちょうどいいんですね。

 カンボジアではアンコールワット時代から胡椒を作っていたほどで、700年くらいの歴史があります。

川嶋 しかしポル・ポト政権時代に失われてしまったわけですね。

倉田 そうです。1回途絶えたんですが、それを復活させた人がいたんです。その人いわく、昔はその一帯が胡椒畑だったけれど、ポル・ポト時代にみな強制収容所に入れられたために3年間ケアができず、ほぼ全滅してしまったと。

 彼の畑では胡椒の木が3本しか残っていなかったんですが、その3本から少しずつ増やしていき1ヘクタールくらいの畑になっていました。その苗を周りの人にも配り、少しずつその地域が復活し始めていた。

 私はそれをもう一度、世界に知らしめるために流通網の構築をお手伝いしたいと考えました。最初はその胡椒を買い付けて販売していたんですが、あまりに商品が汚くて、品質のコントロールもできないため、自社農園を持つことにしたんです。

倉田 それで1997年に1ヘクタールほどの土地を50年契約で借りました。貿易会社なのに扱える商材が胡椒しかなく、しかも自分で作るしかなかった。

商品タグには自社農園の位置を示す地図も(撮影:前田せいめい)

川嶋 その胡椒の産地はカンボジアのどのあたりですか。

倉田 プノンペンから南西に約160キロ、海沿いのシアヌークビルから80キロくらいのコッコン州スラエアンバルというところです。当時そこに行くのは大変でした。

 ポル・ポト派がまだ力を持っていて、封鎖されている道もあり自由な往来ができなかった。地域によっては昼は政府軍、夜はポル・ポト派と、昼と夜で支配者が替わるような時代で、道路などのインフラもぜんぜん整備されていなかった。

 そこをオフロードバイクに乗ったり、クルマの場合は運転手を雇って移動していましたが、1995年にプノンペンからシアヌークビルに拠点を移しました。

川嶋 当時はかなり苦労されたわけですね。

倉田 そうですね。例えば言葉の問題もありました。最初は運転手が通訳代わりになってくれていたんですが、通訳の気持ちが入ってしまって、私にそういう質問はしないほうがいいとか、相手に聞かずに自分が勝手に答えたりとか。

 カンボジアと日本の習慣は違いますし、僕自身まだ若くて未熟なところもありました。

内戦以前の農法を引き継ぎ、有機栽培で付加価値をつける

川嶋 そうやって苦労されて現在はどういう状況ですか。

倉田 畑を拡張していき、今は6ヘクタール弱を会社として直営しています。従業員は畑を含めて36人で、日本人は私だけです。直営のほかに契約農家の畑が約30ヘクタールあります。

川嶋 収穫した胡椒は全量買い取るわけですか。

倉田 収穫できるようになればですね。今はまだほとんどの苗が小さく、まだ木が育っていません。あと2年したら全量買い取りができると思います。収穫量は1ヘクタールで2.7~3トン、最高に採れる時は5~7トンです。

川嶋 どうしてそんな大きな差が生まれるんですか。

倉田 木が若い時は多く採れるんです。古木になるにつれ収穫量が減ってくる。そのほかにも栽培方法がまだ確立していないという問題もあります。

 ウチはすべて有機栽培なんですが、木が弱ってきた時に薬が使えないので、そうした問題が克服できていません。

川嶋 倉田さんはカンボジア有機農業協会の副会長も務めているそうですが、有機栽培にこだわりがあるわけですね。

倉田 世界に出す時に最高と言われる品質を誇りたいという気持ちがありましたし、そのほうが価格も高くできますから。

倉田 ただ、この地にはもともと胡椒栽培の歴史があるわけですから、その伝統を尊重したうえで、次の世代つまり我われにしっかりと受け継がれた後、どう変えていくかを考えればいいと思っています。まずはポル・ポト時代の前の農法を100%引き継ぎたい。

川嶋 ポル・ポト時代の前の姿がスタートラインであると。

倉田 そうですね。そこにまず戻らなければなりません。しかし、私が最初に出会った胡椒の復活に取り組んでいた人が昨年亡くなられた。その息子が後を引き継いで私と一緒にやっているんですが、経験が浅いのでなかなか難しい。

川嶋 今は試行錯誤で品質改良をしているわけですね。

倉田 私自身は品種改良はできませんが、栽培方法を彼と一緒に考えながらやっています。胡椒栽培を始めて今年で15年目になりますが、10年目まではうまくいっていたものの、あとの5年はけっこう土づくりに苦労しています。

 10年目くらいまではほかに産業も少なく、胡椒畑に働きに来る人が多かったんです。ところが、今は町に出ていく人が増えた。最近は特に工場に働きにいく人が多い。

 胡椒は労働集約型で、収穫の時に人手が必要になるんですが、なかなか人が集まらないんです。人が少なくなり収穫に時間がかかるようになってしまった。

 黒胡椒を作るには緑の実を収穫するんですが、時間が経つと赤くなり果肉に甘みが入ってしまいます。すると土がどんどん痩せていってしまうんです。それで木の体力が落ちてくると、病気や害虫に弱くなる。そういう悪循環に陥る。

 今は収穫のタイミングで一気に収穫できないというのが悩みです。今年の春の収穫シーズンは、しかたなくプノンペンで働いている当社の女性従業員を連れていって働いてもらいました。ただ、町の人たちは電気もガスもトイレもないようなところに長くいたがりません。

日本や世界で販路を拡大し、農村に雇用の場をつくりたい

川嶋 そうするとまだまだチャレンジすることが多いですね。

倉田 今考えているのは、現地に胡椒の選別所のようなものをつくって、一年中そこで働ける仕組みを作りたいということです。収穫の時はその人たちに収穫してもらう。そうしないと、みんなどんどん町に出ていってしまうので。

川嶋 雇用の場をつくらなければいけないと。

倉田 町に行かなくても同じくらいの収入が得られる仕組みですね。カンボジア人は家族一緒に住みたがるので、1人家族から離れて町で生活するのを嫌がる人も多い。そういう気持ちが残っているうちにつくらないと。

 みんなが町に憧れるようになると過疎になってしまいますから、その前に現地に作業場をつくらなければいけない。ただ、そのためにはある程度の取扱量が必要になります。

川嶋 規模を拡大しなければいけないわけですね。

倉田 規模というより販路ですね。マーケットを確保しないといけない。

川嶋 現在、倉田さんの胡椒の販売先はどこが多いのですか。

倉田 ドイツが一番です。ドイツは胡椒の消費量が多く、日本の4倍くらい消費量があります。この秋からは日本でも販売を始めました。青山にある紀伊国屋インターナショナルで扱ってもらっています。アマゾンでも買えます。

 そのほかには2006年からデンマークでも販売されています。デンマークでは今のところ自社のブランドをつけていませんが、来期から KURATA PEPPER のブランドで出すことが決まっています。また、米国のカリフォルニアでも少しずつですが出しています。

 また、来年は日本支社を愛知県につくる予定です。愛知は妻の出身地で、妻が支社長を務めます。日本の販売代理店のサポートと、代理店では対応しきれない細かな対応や独自の販路開拓などを行うつもりです。

カンボジア農業活性化のため、他の商品作物にも挑戦

川嶋 ところで、日本で一般に出回っている胡椒の産地はどこが多いんですか。

倉田 ベトナムですね。ベトナムは世界最大の胡椒の輸出国なんです。ベトナムだけで世界の総消費量をまかなえるくらいの農地があります。すべての農地で栽培しているわけではありませんが。

 ちなみに、ベトナムは胡椒生産国としては後発です。1997年のスタートだから、私と同じくらいです。

川嶋 それが今や世界最大になったわけですか。

倉田 国を挙げて取り組んでいますからね。それで世界のマーケットにドーンと出して価格を暴落させたことがある。

 世界の胡椒マーケットというのは、半ば談合のような形で価格を形成しています。各国の生産者やバイヤーが集まって毎年世界会議を開くんですが、そこで事実上価格や生産量を決めている。

 ベトナムは理事国に入り、今はカンボジアも入れと執拗に言われています。生産量が増えて価格が暴落しないようにということです。

 カンボジアはまだ理事国には入っていませんが、私は情報収集のために会議には出ています。そこでけっこう発言を求められる。カンボジアの現状を報告しろと。ですからそこで私が発言した生産量などが、カンボジアのデータとして国際的に使われています。

川嶋 世界の胡椒業界で倉田さんは超有名人なんですね。

倉田 そんなことはないですが、日本のスパイス業界では多少は知られているかもしれません。

川嶋 最後に今後の展望をお聞かせ願えますか。

倉田 私はカンボジアの農産加工品を輸出して、農家を活性化させることを目標に貿易会社を立ち上げました。ですから原点に戻り、胡椒以外の農産物も世界に輸出したいと考えています。

 最近はカンボジアで農業をやりたいと進出してこられる人も多く、地元の人以外にも日本人やドイツ人にオーガニックの野菜を作ってもらったりしています。また、オーガニックコットンもやっていきたいですね。

 食品以外のカンボジアの伝統的な農作物の可能性も探っており、日本企業とタイアップして商品作物の開発を進めています。残念ながらまだ公表できませんが、近々日本のマーケットにも並べられるようになるのではと思います。

 カンボジアは、まだまだ宝の山が埋まっている国だと思います。地元にあるもので世界的に価値のあるものをもっともっと世に生み出していきたいですね。

川嶋 諭 Satoshi Kawashima

早稲田大学理工学部卒、同大学院修了。日経マグロウヒル社(現日経BP社)入社。1988年に「日経ビジネス」に異動後20年間在籍した。副編集長、米シリコンバレー支局長、編集部長、日経ビジネスオンライン編集長、発行人を務めた後、2008年に日本ビジネスプレス設立。




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