ま、いいか

日々の徒然を思いつくままに。

「無暁の鈴」

2018-08-27 20:50:23 | 

 

「無暁の鈴」 西條奈加 光文社 2018.5.30

 

「むぎょうのりん」と読む。

 

江戸時代後期、天保の頃、

貧困、凶作、病、飢餓が相次いだ。

生きることすら困難な状況で、人は人を救えるのかーー

 

江戸幕府が定めた『御条目宗門檀那請合之掟』が今日の葬式仏教の基い。

その掟には『戒名を授け、引導を渡すべし』とあるらしい。

家康が発したとされており、ご丁寧に日付までが改ざんされているが、本当は八代・吉宗のころの発布。

むろん、庶民には与り知らぬことだったが、

従わねば戸籍がなくなると僧侶に言われれば、従わざるを得ない。

この檀家制度は寺院にとってまことに都合がよかった。

葬式や法要はもちろん、祭事や勧進といった金集めの名目に事欠かない。

それらをすべて負担するのは、民百姓たちである。

 

さて、

武家の庶子でありながら、家族に疎まれ寒村の寺に預けられた久斎は、兄僧たちからも辛く当たられていた。

そんななか、水汲みに出かける沢で出会う村の娘・しのとの時間だけが唯一の救いだったのだが……。

手ひどい裏切りにあい、信じるものを見失って、久斎は寺を飛び出した。

盗みで食い繋ぐ万吉と出会い、名をたずねられた久斎は"無暁"と名乗り、ともに江戸に向かう。

 

渡世人の一家と縁を結び5年……

堅気に戻ろうとしていた万吉が殺されて

無暁は仲間と共に敵討ちを果たすが、島送りになる。

 

八丈島で当初は人殺しと避けられたものの、

一心に経を唱えるうちに人々に受け入れられる。

実父や兄の尽力もあって、22年で赦免されたときは40歳になっていた。

無暁は出羽三山で修行する。

 

仏教をはじめとする宗教は、本当に必要なのか。

人のため世のために、何か役に立つことがあるのか。

無暁は問い続ける。

 

施しは、共存であるーー。共に生き、共に在るために互いに助け合う、それが施しの真理だ。

 

仏があろうとなかろうと、それを信ずるのは人なのだ。

欲を捨てよと仏の教えは説くが、欲はすなわち生きるためには欠かせぬものだ。食うこと眠ること、性もまた子孫繁栄には必然である。

宗教は常に、人心掌握のために為政者たちの道具に使われてきたが、裏を返せば、それだけ人の心の、拠り所になってきたということだ。

来世にはきっと見返りがあると極楽への道を示し、慈悲の心を忘れてはならぬと戒める。

でき得るかぎり欲を削ぎとった姿が清僧であり、体現することで人々の安堵を誘う。

それをさらに極め、行きついた先が、即身仏ではないのかーー

 

厳しい行に打ち込む姿を、世人は自分たちに重ねる。

民の困苦欠乏は、本来なら為政者が庇護するべきものだが、下々にまでは行き届かない。その穴を埋めるのが、宗教なのだ。

即身仏は、宗教を極めたひとつの完成であり、志す行人への帰依と感謝の念は、想像を絶する。

 

千日行を満願した無暁は、即身成仏の支度をする。

 

無暁がお姿を拝見した即身仏・鉄門海上人は実在の人物。


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