今日もいい天気。最高気温6度とか天気予報じゃあ言ってたけど、もっとあったんでないべか。
晩御飯に買ってきたお寿司が、とても変な味するんですけど、この季節でいたんでるってことはないよな~。最近のニュース見て敏感になってるのかしら。
今日も今日とでお仕事してまして。やっぱ運転中はラジオを聞いています。そのセリフを途中から聞いたので、話の前後は全くわからないのだけど。
「考えてから行動しろ。行動してから考えるな。」
言葉の意味はよくわからんが、とにかくスゴイ自信だ。
僕なんかは心の中で「ブッ殺す!」と思ったならスデに行動は終わってるってくらいプロシュート兄貴ィ!っつーか、あまり考えもなしに行動するタイプですが、反面、行動してからえらく考える。
つまりは、その時とった自分の行動を後付けの理由で正当化したりするんだよな。「あのときこう言ったのは実はこう考えたからでして…」みたいな。考えてないくせに。当然そういうのって「わしも入れ歯にしてからはとんと行かなくなったのォ~」ってくらいいかんぞ歯科医なので、考え方は少しずつでも改めていきたいと思う。
なかなか難しいことだけどね、自分を変えるって。でもそれこそ期限のない課題だから少しずつでもいいのかな~って。甘え。
…
荊州攻撃を決断した曹操はすぐさま軍を編成しました。
曹仁を大将とし、副将には李典、楽進。(この二人っていつも副将って気がする)三十万の軍勢をつけて南下を命じます。赤壁以来の大軍勢。
狙うは軍神・関羽の首。
しかし曹操本人は出陣しませんでした。
それは関羽と戦いたくない、あの日の思い出を大事にして自ら壊してしまいたくない…なんていうセンチな気分に陥ったのではなくて、関羽を葬るからには自らの手で!くらい考えていたのですが、現実問題として出陣できない理由が曹操にはありました。
天下の3分の2を所有し、その権力は並ぶものなしとまで恐れられた曹操でしたが、その国造りは当然のことながら戦いの連続でした。その戦いの中で、彼は多くを見てきました。いかに広大な土地を持とうとも、強大な権力を持とうとも、わりとどうでもいいような蟻の一穴で、その体勢が一瞬で崩れることも。
彼がまだ今ほどの力を持たないときに、巨大な敵であった北方の雄・袁紹、最強の武人・呂布、そして栄華を誇ったこの漢帝国でさえ、時代という流れのなかではその滅亡は免れることができなかったのですから。
その衰退の理由は、慢心であったし、油断でもありました。
曹操若かりし日の頃。
彼は生まれた故郷で、いつものように北炉あたりで仲間と「ビール!人数分!」とムチャしていると、仲間の一人が「曹操、そういえば知ってるかい?」と話題を振ってきました。
この村の近くに許子将という名の人相観が居を構えており、その許子将なる人物は相手の顔を見るだけで生い立ちや今後の運命をピタリと言い当てるというのです。
占いや予言などには全く興味のない曹操でしたが、そのときは酔いのイキオイもあって「ふ~ん、そいつはおもしろそうだ。よし、一度訪れてみよう」と思い、翌日にはアズの部室あたりで、その許子将なる者に自分の人相を占ってもらいました。
しばらくじ~っと曹操の顔を睨んだ許子将はそこにあるものを観て言葉を失いました。
曹操は「今まで小川の小魚はみたことがあっても、大海の龍は見たことがないようだな」と不敵な薄ら笑いを浮かべます。
生まれ育った狭い村の中においても、曹操は自らを大器であると信じていました。
決して自信過剰なわけではなく、曹操については「こいつは将来なにか大きなことをするだろう」と、周りの仲間の中でも評判だったし。
「なにを言うか!そなたは治世の能臣、乱世の奸雄だ!」と叫ぶように許子将は曹操を評したのですが。
それを聞いて曹操、「ふふふ…クリックでパーマで乱世の奸雄か、それも良い」。
治世の能臣というのは、平和な世の中では、その能力を評価され出世するであろうということ。
乱世の奸雄。それはまさに今、黄巾の集団が暴れ、漢室の権威は地に堕ち、混乱極まる今の世において、このような人物こそが覇道をいくであろうということ。
許子将が、叫んで言い放ったということは、もちろん曹操の相にその「奸雄」を観たからでした。
ちなみに僕も許子将に観てもらったことがあります。
「ふふふ…人気はあるけど人望はない、それも良い(泣)」
月初めに人物批評をしたことから、人相観のことを「月旦(げったん)」と呼ぶようになったとか。月旦って言葉いま使ってるかな?
ゲッタン♪ゲッタン♪って、なんかパルクフィクションの曲みたいだ。ジャングル・ブギだっけ?
話が全然関係ないとこにいっちゃったけど、え~と、なんだっけ、曹操が関羽討伐に出陣しなかった理由について、でしたね。
数年前に、大きな事件がありました。
帝の勅を受けた官職のある人間やその郎党、名だたる武将たちが、曹操に対して反乱を試みたのです。
暗殺の計画でした。
その知らせを密告によりいち早く得た曹操は、疾風迅雷、反逆者たちがコトを起こすまでに先手必勝でこれら反逆者どもの屋敷を急襲。それらの者どもを全員捕縛し処刑しました。
実際に反乱を企てた者だけではなく、三族(家族、その親戚、召使いまで)を市中引き回しの上、葬り去ったのです。
(ちなみに密告してきた男に対して曹操は「こういう輩が一番信用できない」と言ってさっくりと殺しています)
当時、西涼の地において将軍職にあった馬騰も、処刑の憂き目にあった一人でした。
これに対し息子である馬超が復讐に燃え、兵を挙げて都まで迫ってきました。
鉄壁の守りを誇る長安の関でさえ難なく突破する勢いの西涼軍団、そして錦馬超。あと、どうでもいいけど旗本八騎w
とくに馬超たるや、威風堂々、騎乗での活躍ぶりはあたりの敵を寄せつけず、いままで歴史の表舞台に出て来なかったのが不思議なほどの武者っぷり。その力は曹魏をも圧倒するものでした。
当面の敵と睨んでいたはずの蜀や呉とはまったく異なる、曹操ですら想像もしていなかった第三の勢力にあわや…というところまで攻め込まれる始末。
結局は曹操の計略により、馬超は自らの軍師(韓遂)と仲違いし、お互いが同士討ちを繰り広げたところを曹操に攻め立て、この西涼の軍勢を敗走させられました。
しかしながら敗走させてなお、曹操の頭の中に「うかつに自身が都を離れるわけにはいかない」という不安要素を植えつけたのです。
そんなわけで、曹操不在のまま荊州の関羽を討ちに向かった曹軍三十万。
…
あっという間に、関羽にボコボコにされました。荊州軍の何倍もの兵力をもってあたったのですが、負けました。
敗走した曹仁率いる軍勢は、一度新野の城まで退却し、曹操に今後の指示を仰ぎました。
この敗戦の知らせを聞き、曹操も困っちゃいました。
曹仁という武将をもってしても関羽には傷ひとつつけられないどころか、このままでは自国まで攻め入ってくるほどの脅威。
曹操の考えでは、不可侵条約を締結した呉が、この隙に南から荊州に攻め入って北の自軍との両面攻撃で関羽を追い込む算段でしたが、呉は「呂蒙総督が病いのため…」とかなんとか言って全く動こうとはしません。
まぁ、曹操はハナから呉なんかには期待していません。しかし、自国の兵士をこれ以上減らすわけにもいきません。不可侵条約は同盟ではないのだから、「魏につけいる余地あり」と呉が考えれば、おそらく手の平を返して蜀との関係を復活させてこちらに進撃してくるでしょう。(このあたりが三国均衡の面白さだね)
曹操は考えます。軍神・関羽に渡り合える将軍は我が陣営にいるか?
(僕けっこう張遼が好きなので、この張遼を話の中では活躍させたいとこですが、今彼は合肥の地で、対呉戦線の警備に当たっていますし、この任は地味ですが外せません)
「むー」と悩んでいた曹操の頭の中に、突然ひとつの光景、ひとりの人物が思い出されました。
西涼軍との戦の際、敵将馬超に付き従っていた男。
曹操配下の豪傑と呼ばれた武将と何人とも連続で一騎打ちを行い、しかも負けることなかった豪将がいました。
その名を龐徳(ホウトク)字は令明。南安の人。
龐徳は最初、馬超の父である馬騰に仕えていました。馬騰の死後、報復のために戦争をしかけた息子馬超に仕え、そのとき馬超とともに曹操に対して敵対しました。
しかし、前述のように馬超軍は敗退。龐徳は馬超とともに落ち延び、長安より更に西、蜀の国境よりけっこう北にある漢中という都市に流れ着きました。
当時ここを支配していたのは張魯という新興宗教の二代目教祖サマです。
その教えは五斗米道(ごとべいどう)と云われ、教えでは「どんな人間でも、たとえ外からやってきた部外者でも窮地にあれば受け入れて食料を施す」という、この時代にしてはとてもいい国。ただし、どんな人間でも必要以上に欲したり、罪を犯したりすると厳罰に処された。税金として米を五斗納めれば人種を問わずに国民とするということで、いわゆる善政だったと思われる。
(いまの日本もそんなカンジにしてみればいいんでないの?)
宗教っぽい政治をおこなっていた国でした。
曹操は、すでにここも攻めています。
馬超率いる西涼軍は今ここで徹底的に叩いておかないと、摘み逃した芽はまたいずれ反乱という形となって自国を脅かすとも限りません。
この攻撃の前に馬超は、張魯と仲違いをして(これは実は諸葛亮の計略。それについてはまた)漢中を離れていました。
龐徳はたまたまそのとき病気にかかり、馬超にはついていかず療養していたため、曹操の軍に捕虜として捕まる羽目に。
曹操は張魯の国を得たことよりも、龐徳と対面できたことを喜びました。
「一国は攻め入ればいつでも手に入るが、一将は得がたい」
並みいる猛者を相手に一歩も退かなかった龐徳を、曹操はなんとしても部下にしたかったのです。
曹操の心に深く感じ入った龐徳は、曹操を主として忠誠を誓いました。
その曹操は、今、荊州攻略の切り札として、龐徳を呼び出します。
軍神関羽と渡り合えるのは、龐徳しかいない!いや、むしろ龐徳だろう!龐徳ならいける!龐徳ったらすごいよ~ってなもんで。
問題は、もともと降将である龐徳がそこまで自分のために体を張ってくれるかどうかです。他人をあまり信用しない曹操は、忠誠を誓う部下に対しても心を開くことはしませんでした。
信用しないってのは言いすぎかな?曹操はどんなひとでも気が合うな~と思えば信用も尊敬もしたけど、裏切りが常である戦国において、疑心は自己保身のために必要とされる能力だもんね。哀しいけど。
しかも、龐徳のもとの主君である馬超は、今では蜀で五虎将軍の地位まで得ています。龐徳に二心があれば、関羽を攻撃するどころか、あべこべに蜀の陣営に加わり曹魏の敵となるやもしれません。
曹操からの呼び出しを受けてやってきた龐徳は、曹操の部屋の前で片膝をついた礼の姿勢のまま、入室の許可を待ちます。
外にいるであろうそんな龐徳に向かって、曹操は静かに尋ねます。
「関羽の軍勢に勝てる兵力を持ちながら曹仁はなぜ負けたと思う?…中へ入れ、龐徳」
「…失礼します」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…
「関羽は…劉備や家族、仲間のためには自らの命を捨ててもいいと思っており、張飛や馬超、他の二人…ええとなんだっけ…そう…諸葛亮やシジマにおいてさえ、この曹操を倒すために自らの命を引き換えにしていいと思っている…
この曹操から逃げることは自分の人生から逃げることだと思い込んでいるのだな…バカげたことだが…
しかしそのバカげたことがけっこう重要なのだ…。曹仁のやつは忠誠を誓うと言っておきながら、この曹操のために死んでもいいという覚悟ができていなかったということだ…」
「龐徳…おまえの命をわたしにくれるか?」
「はい…喜んで」
「関羽は任せたぞ、龐徳」
「曹操…さま。あなたの期待は…満たされるでしょう…必ずや仕留めて…ごらんに…いれます……グオァアアアアア!!」
「ドアくらい開けて出ていけ」
龐徳は新参ということもあって副将となり、大将は古参の于禁。
さらに曹操の七軍(兵士の中で特に戦闘能力に優れたものばかりを集めた精鋭集団。曹操の護衛を勤める数万に及ぶ軍団)も従い、先の戦で関羽に敗北し、最前線の城に駐屯していた曹仁軍がいる新野に集結しました。
ぶっちゃけ、ほんの最近に降将として曹魏の配下となった龐徳を、曹仁も于禁もあまり歓迎していません。つい昨日まで敵同士だったのだからこれは当然の反応です。「こいつ信用できんのかよ?」と。
そこで龐徳は、諸将を集めて宴会を開くことにしました。
勝利の前祝、発表会前日、打ち上げの前の晩に「北炉でかるく飲むべ」的なノリです。表向きは。
主賓である龐徳は、その飲み会の場に棺桶を運ばせました。
列席していた将軍たちは「これから戦に向かうというのに、棺桶なんて不吉なものを持ってくるな!」と困惑交じりで叱責しますが、龐徳はこう答えます。
「それがしは降って曹操さまの配下となった。しかし、関羽を討つという心意気は信じていただきたい。たとえ関羽と刺し違えてでもヤツの命を奪う!この棺桶に入るのは関羽か、それがしか、ふたつにひとつしかない!」
その場にいた誰もがそのご、龐徳の覚悟を疑うことはしませんでした。
一方、関羽陣営では、曹軍に新たな敵将が現れたとの情報をいち早く掴んでいました。
「龐徳なにするものぞ!この青龍偃月刀のサビにしてくれる!」
関羽も迎撃の準備を整えつつありました。
そして呉では、仮病で陣を退き、その代打としておかれた陸遜が、のちに蜀に大打撃を与える若き天才軍師が、今ここで対岸にいる素振りを装いながら荊州と魏の戦いの行く末を冷静に判断し、どちらに汲みすべきか、その計略を練っていました。
でもとりあえずは戦の前に、のんびりと関羽将軍に挨拶でも行こうか、とも考えていました。
晩御飯に買ってきたお寿司が、とても変な味するんですけど、この季節でいたんでるってことはないよな~。最近のニュース見て敏感になってるのかしら。
今日も今日とでお仕事してまして。やっぱ運転中はラジオを聞いています。そのセリフを途中から聞いたので、話の前後は全くわからないのだけど。
「考えてから行動しろ。行動してから考えるな。」
言葉の意味はよくわからんが、とにかくスゴイ自信だ。
僕なんかは心の中で「ブッ殺す!」と思ったならスデに行動は終わってるってくらいプロシュート兄貴ィ!っつーか、あまり考えもなしに行動するタイプですが、反面、行動してからえらく考える。
つまりは、その時とった自分の行動を後付けの理由で正当化したりするんだよな。「あのときこう言ったのは実はこう考えたからでして…」みたいな。考えてないくせに。当然そういうのって「わしも入れ歯にしてからはとんと行かなくなったのォ~」ってくらいいかんぞ歯科医なので、考え方は少しずつでも改めていきたいと思う。
なかなか難しいことだけどね、自分を変えるって。でもそれこそ期限のない課題だから少しずつでもいいのかな~って。甘え。
…
荊州攻撃を決断した曹操はすぐさま軍を編成しました。
曹仁を大将とし、副将には李典、楽進。(この二人っていつも副将って気がする)三十万の軍勢をつけて南下を命じます。赤壁以来の大軍勢。
狙うは軍神・関羽の首。
しかし曹操本人は出陣しませんでした。
それは関羽と戦いたくない、あの日の思い出を大事にして自ら壊してしまいたくない…なんていうセンチな気分に陥ったのではなくて、関羽を葬るからには自らの手で!くらい考えていたのですが、現実問題として出陣できない理由が曹操にはありました。
天下の3分の2を所有し、その権力は並ぶものなしとまで恐れられた曹操でしたが、その国造りは当然のことながら戦いの連続でした。その戦いの中で、彼は多くを見てきました。いかに広大な土地を持とうとも、強大な権力を持とうとも、わりとどうでもいいような蟻の一穴で、その体勢が一瞬で崩れることも。
彼がまだ今ほどの力を持たないときに、巨大な敵であった北方の雄・袁紹、最強の武人・呂布、そして栄華を誇ったこの漢帝国でさえ、時代という流れのなかではその滅亡は免れることができなかったのですから。
その衰退の理由は、慢心であったし、油断でもありました。
曹操若かりし日の頃。
彼は生まれた故郷で、いつものように北炉あたりで仲間と「ビール!人数分!」とムチャしていると、仲間の一人が「曹操、そういえば知ってるかい?」と話題を振ってきました。
この村の近くに許子将という名の人相観が居を構えており、その許子将なる人物は相手の顔を見るだけで生い立ちや今後の運命をピタリと言い当てるというのです。
占いや予言などには全く興味のない曹操でしたが、そのときは酔いのイキオイもあって「ふ~ん、そいつはおもしろそうだ。よし、一度訪れてみよう」と思い、翌日にはアズの部室あたりで、その許子将なる者に自分の人相を占ってもらいました。
しばらくじ~っと曹操の顔を睨んだ許子将はそこにあるものを観て言葉を失いました。
曹操は「今まで小川の小魚はみたことがあっても、大海の龍は見たことがないようだな」と不敵な薄ら笑いを浮かべます。
生まれ育った狭い村の中においても、曹操は自らを大器であると信じていました。
決して自信過剰なわけではなく、曹操については「こいつは将来なにか大きなことをするだろう」と、周りの仲間の中でも評判だったし。
「なにを言うか!そなたは治世の能臣、乱世の奸雄だ!」と叫ぶように許子将は曹操を評したのですが。
それを聞いて曹操、「ふふふ…クリックでパーマで乱世の奸雄か、それも良い」。
治世の能臣というのは、平和な世の中では、その能力を評価され出世するであろうということ。
乱世の奸雄。それはまさに今、黄巾の集団が暴れ、漢室の権威は地に堕ち、混乱極まる今の世において、このような人物こそが覇道をいくであろうということ。
許子将が、叫んで言い放ったということは、もちろん曹操の相にその「奸雄」を観たからでした。
ちなみに僕も許子将に観てもらったことがあります。
「ふふふ…人気はあるけど人望はない、それも良い(泣)」
月初めに人物批評をしたことから、人相観のことを「月旦(げったん)」と呼ぶようになったとか。月旦って言葉いま使ってるかな?
ゲッタン♪ゲッタン♪って、なんかパルクフィクションの曲みたいだ。ジャングル・ブギだっけ?
話が全然関係ないとこにいっちゃったけど、え~と、なんだっけ、曹操が関羽討伐に出陣しなかった理由について、でしたね。
数年前に、大きな事件がありました。
帝の勅を受けた官職のある人間やその郎党、名だたる武将たちが、曹操に対して反乱を試みたのです。
暗殺の計画でした。
その知らせを密告によりいち早く得た曹操は、疾風迅雷、反逆者たちがコトを起こすまでに先手必勝でこれら反逆者どもの屋敷を急襲。それらの者どもを全員捕縛し処刑しました。
実際に反乱を企てた者だけではなく、三族(家族、その親戚、召使いまで)を市中引き回しの上、葬り去ったのです。
(ちなみに密告してきた男に対して曹操は「こういう輩が一番信用できない」と言ってさっくりと殺しています)
当時、西涼の地において将軍職にあった馬騰も、処刑の憂き目にあった一人でした。
これに対し息子である馬超が復讐に燃え、兵を挙げて都まで迫ってきました。
鉄壁の守りを誇る長安の関でさえ難なく突破する勢いの西涼軍団、そして錦馬超。あと、どうでもいいけど旗本八騎w
とくに馬超たるや、威風堂々、騎乗での活躍ぶりはあたりの敵を寄せつけず、いままで歴史の表舞台に出て来なかったのが不思議なほどの武者っぷり。その力は曹魏をも圧倒するものでした。
当面の敵と睨んでいたはずの蜀や呉とはまったく異なる、曹操ですら想像もしていなかった第三の勢力にあわや…というところまで攻め込まれる始末。
結局は曹操の計略により、馬超は自らの軍師(韓遂)と仲違いし、お互いが同士討ちを繰り広げたところを曹操に攻め立て、この西涼の軍勢を敗走させられました。
しかしながら敗走させてなお、曹操の頭の中に「うかつに自身が都を離れるわけにはいかない」という不安要素を植えつけたのです。
そんなわけで、曹操不在のまま荊州の関羽を討ちに向かった曹軍三十万。
…
あっという間に、関羽にボコボコにされました。荊州軍の何倍もの兵力をもってあたったのですが、負けました。
敗走した曹仁率いる軍勢は、一度新野の城まで退却し、曹操に今後の指示を仰ぎました。
この敗戦の知らせを聞き、曹操も困っちゃいました。
曹仁という武将をもってしても関羽には傷ひとつつけられないどころか、このままでは自国まで攻め入ってくるほどの脅威。
曹操の考えでは、不可侵条約を締結した呉が、この隙に南から荊州に攻め入って北の自軍との両面攻撃で関羽を追い込む算段でしたが、呉は「呂蒙総督が病いのため…」とかなんとか言って全く動こうとはしません。
まぁ、曹操はハナから呉なんかには期待していません。しかし、自国の兵士をこれ以上減らすわけにもいきません。不可侵条約は同盟ではないのだから、「魏につけいる余地あり」と呉が考えれば、おそらく手の平を返して蜀との関係を復活させてこちらに進撃してくるでしょう。(このあたりが三国均衡の面白さだね)
曹操は考えます。軍神・関羽に渡り合える将軍は我が陣営にいるか?
(僕けっこう張遼が好きなので、この張遼を話の中では活躍させたいとこですが、今彼は合肥の地で、対呉戦線の警備に当たっていますし、この任は地味ですが外せません)
「むー」と悩んでいた曹操の頭の中に、突然ひとつの光景、ひとりの人物が思い出されました。
西涼軍との戦の際、敵将馬超に付き従っていた男。
曹操配下の豪傑と呼ばれた武将と何人とも連続で一騎打ちを行い、しかも負けることなかった豪将がいました。
その名を龐徳(ホウトク)字は令明。南安の人。
龐徳は最初、馬超の父である馬騰に仕えていました。馬騰の死後、報復のために戦争をしかけた息子馬超に仕え、そのとき馬超とともに曹操に対して敵対しました。
しかし、前述のように馬超軍は敗退。龐徳は馬超とともに落ち延び、長安より更に西、蜀の国境よりけっこう北にある漢中という都市に流れ着きました。
当時ここを支配していたのは張魯という新興宗教の二代目教祖サマです。
その教えは五斗米道(ごとべいどう)と云われ、教えでは「どんな人間でも、たとえ外からやってきた部外者でも窮地にあれば受け入れて食料を施す」という、この時代にしてはとてもいい国。ただし、どんな人間でも必要以上に欲したり、罪を犯したりすると厳罰に処された。税金として米を五斗納めれば人種を問わずに国民とするということで、いわゆる善政だったと思われる。
(いまの日本もそんなカンジにしてみればいいんでないの?)
宗教っぽい政治をおこなっていた国でした。
曹操は、すでにここも攻めています。
馬超率いる西涼軍は今ここで徹底的に叩いておかないと、摘み逃した芽はまたいずれ反乱という形となって自国を脅かすとも限りません。
この攻撃の前に馬超は、張魯と仲違いをして(これは実は諸葛亮の計略。それについてはまた)漢中を離れていました。
龐徳はたまたまそのとき病気にかかり、馬超にはついていかず療養していたため、曹操の軍に捕虜として捕まる羽目に。
曹操は張魯の国を得たことよりも、龐徳と対面できたことを喜びました。
「一国は攻め入ればいつでも手に入るが、一将は得がたい」
並みいる猛者を相手に一歩も退かなかった龐徳を、曹操はなんとしても部下にしたかったのです。
曹操の心に深く感じ入った龐徳は、曹操を主として忠誠を誓いました。
その曹操は、今、荊州攻略の切り札として、龐徳を呼び出します。
軍神関羽と渡り合えるのは、龐徳しかいない!いや、むしろ龐徳だろう!龐徳ならいける!龐徳ったらすごいよ~ってなもんで。
問題は、もともと降将である龐徳がそこまで自分のために体を張ってくれるかどうかです。他人をあまり信用しない曹操は、忠誠を誓う部下に対しても心を開くことはしませんでした。
信用しないってのは言いすぎかな?曹操はどんなひとでも気が合うな~と思えば信用も尊敬もしたけど、裏切りが常である戦国において、疑心は自己保身のために必要とされる能力だもんね。哀しいけど。
しかも、龐徳のもとの主君である馬超は、今では蜀で五虎将軍の地位まで得ています。龐徳に二心があれば、関羽を攻撃するどころか、あべこべに蜀の陣営に加わり曹魏の敵となるやもしれません。
曹操からの呼び出しを受けてやってきた龐徳は、曹操の部屋の前で片膝をついた礼の姿勢のまま、入室の許可を待ちます。
外にいるであろうそんな龐徳に向かって、曹操は静かに尋ねます。
「関羽の軍勢に勝てる兵力を持ちながら曹仁はなぜ負けたと思う?…中へ入れ、龐徳」
「…失礼します」
ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ…
「関羽は…劉備や家族、仲間のためには自らの命を捨ててもいいと思っており、張飛や馬超、他の二人…ええとなんだっけ…そう…諸葛亮やシジマにおいてさえ、この曹操を倒すために自らの命を引き換えにしていいと思っている…
この曹操から逃げることは自分の人生から逃げることだと思い込んでいるのだな…バカげたことだが…
しかしそのバカげたことがけっこう重要なのだ…。曹仁のやつは忠誠を誓うと言っておきながら、この曹操のために死んでもいいという覚悟ができていなかったということだ…」
「龐徳…おまえの命をわたしにくれるか?」
「はい…喜んで」
「関羽は任せたぞ、龐徳」
「曹操…さま。あなたの期待は…満たされるでしょう…必ずや仕留めて…ごらんに…いれます……グオァアアアアア!!」
「ドアくらい開けて出ていけ」
龐徳は新参ということもあって副将となり、大将は古参の于禁。
さらに曹操の七軍(兵士の中で特に戦闘能力に優れたものばかりを集めた精鋭集団。曹操の護衛を勤める数万に及ぶ軍団)も従い、先の戦で関羽に敗北し、最前線の城に駐屯していた曹仁軍がいる新野に集結しました。
ぶっちゃけ、ほんの最近に降将として曹魏の配下となった龐徳を、曹仁も于禁もあまり歓迎していません。つい昨日まで敵同士だったのだからこれは当然の反応です。「こいつ信用できんのかよ?」と。
そこで龐徳は、諸将を集めて宴会を開くことにしました。
勝利の前祝、発表会前日、打ち上げの前の晩に「北炉でかるく飲むべ」的なノリです。表向きは。
主賓である龐徳は、その飲み会の場に棺桶を運ばせました。
列席していた将軍たちは「これから戦に向かうというのに、棺桶なんて不吉なものを持ってくるな!」と困惑交じりで叱責しますが、龐徳はこう答えます。
「それがしは降って曹操さまの配下となった。しかし、関羽を討つという心意気は信じていただきたい。たとえ関羽と刺し違えてでもヤツの命を奪う!この棺桶に入るのは関羽か、それがしか、ふたつにひとつしかない!」
その場にいた誰もがそのご、龐徳の覚悟を疑うことはしませんでした。
一方、関羽陣営では、曹軍に新たな敵将が現れたとの情報をいち早く掴んでいました。
「龐徳なにするものぞ!この青龍偃月刀のサビにしてくれる!」
関羽も迎撃の準備を整えつつありました。
そして呉では、仮病で陣を退き、その代打としておかれた陸遜が、のちに蜀に大打撃を与える若き天才軍師が、今ここで対岸にいる素振りを装いながら荊州と魏の戦いの行く末を冷静に判断し、どちらに汲みすべきか、その計略を練っていました。
でもとりあえずは戦の前に、のんびりと関羽将軍に挨拶でも行こうか、とも考えていました。