艦長日誌 補足(仮) 

タイトルは仮。そのときに思ったことを飲みながら書いたブログです。

三国日誌 補足(仮) その10~魏呉不可侵条約

2008年02月06日 21時38分37秒 | 三国日誌 補足(仮)
 スタートレック前回までのあらすじは…

 「艦長!もう船体が持ちません!!ボーグキューブの攻撃でシールド20パーセントまでダウン!!」
 「キム少尉!非常用パワーに切り替えて! トゥボック!あなたは先に脱出カプセルまでクルーを誘導して!」
 「しかし、艦長。環境維持システムが働かない今、このデッキもあと数十秒のうちに人間が生きていける環境には適さなくなります!」
 「いいから行って!私は最後までボイジャーに残るわ!」
 「だめだ!キャスリン!あなたもここで死んでしまう!」
 「チャコティ!私はこの船の艦長なのよ!ボーグがそんなにこの船が欲しいなら、逆にこっちからボーグキューブめがけて突っ込んでやるわ!」

 そしてその結末は…

 呂蒙、字は子明、汝南郡の人。
 呉の大都督として魯粛のあとを継いだ彼にとって、至上命令は「関羽が守っている荊州を奪取すること」となりました。

 しかしながら、関羽ったら世に名前が知れ渡ってから一度も不覚をとったことがない猛将です。
 昔の呂蒙ならあんまり物事を考えるほうじゃあなかったので「関羽?!そんなん知らん!俺が飲ませて潰してやる!」と、春うららでデビューしたての一年坊くらいイキオイだけはあったのですが、今では主君孫権にの薦めで書をよく読み、兵法もがっつり学んで、もともと努力家でしたので、その知力は呉に並ぶもの無しとまで言われるくらいのもの。
 それはつまり冷静に敵の力を分析する能力があり、その敵にどうあたるべきかを考えるほどの能力を身につけたということです。

 それでも、アスリートが実力をつければつけるほどに、その一歩上のアスリートの実力と自分とを「世界が違う」と怯えのように感じてしまうものです。素人から見たら「打率2厘差なんて、ホント紙一重だよな~」って思う程度のものが、上にいけばいくほど、そこにいる者にしてみたら、歴然な実力差となって実感できるっつーか。

 対荊州の最前線に赴いた呂蒙は、関羽とのレベルの違いをひしひしと感じてました。私では関将軍にはとても敵わない…。でもなんとかしないとね。仕事だから。
 関羽は一般的には武の人と印象が強い。攻めて敵を倒すのには向いているが、守って戦うのことはそれほど得手ではない、と呂蒙は踏んでいました。

 なんとか攻略の糸口を探そうとする呂蒙は、作戦を練るまえに荊州の内部に間者を放ち、関羽の防備がどの程度なのか探ろうとしました。ひょっとするとそこから意外な関羽の弱点もみつかるかもしれません。

 しかし、間者の報告は呂蒙をがっかりさせるものでした。
 関羽は呉と接する荊州南部にはエリア毎に烽火台を設置し、もしも呉が攻め入ってくるなどの異変が起これば、烽火台が合図の火を上げて次の烽火台に向かってその異変を知らせ、その次の烽火台はやはり火を上げて次へ…と、現代の情報化社会以上に迅速に状況を知らせるインフラを構築していたのです。
 関羽は確かに攻めと守りでは、攻めることが得意な武将でしたが、きちんと自分の弱い部分も認めながら、それを補う策を用意できる人間だったのです。

 呂蒙は「攻めんの無理!」と判断しました。
 荊州の関羽を攻めることもできず、それでも大都督という立場上、退くわけにもいかずに困ってしまったので、仮病を決め込みました。
 「いや~、病気なんですよ~自分。このまえ肺を半分取りましたし、アバラも折れてるし、医者にはあと半年の命って言われてるんすよ~。でも一応プロライセンス持ってるんで~素人殴っちゃあいけないですけど~、心臓も悪いんで~アメリカで手術受けてきたんで~」とかなんとか言って。
 
 呂蒙が病気だという報告を本国で聞いた孫権は「ちょ、陸遜よ~、お見舞い行ってきて」と命じます。

 陸遜について書くとまた長くなるので、ここでは詳しくは書きません。
 このひと、いずれは両肩に呉国の命運を握るまでの立場になるのですが、その頃はただの下級の文官。可もなく不可もない目立たない落研の二年目ってとこかな。まぁ、まだ若いし、その力は認められていません。
 呂蒙の様子を見て来いなんてまさにパシリ程度のお役目です。
 
 陸遜は陣中を見舞うと、呂蒙の病気をすぐに仮病と見抜き、しかもなぜ仮病を使わなければならなかったかを言い当てます。
 つまりは「あなたでも攻めどころを見出せないくらいに、関羽将軍は用意周到でしたか」ということを。

 これを聞いた呂蒙は驚きます。この若造、意外とものをみる目があるな~と。
 そこで陸遜に全権を委任し、自分は国に帰ると言い出します。
 「えー!呂将軍、それがしにはこの任は重すぎます」
 「なに、策だよ。陸遜くん」

 呂蒙はますます病気が重くなったと嘘をついて帰国準備を始めました。自分は退くと見せかけて後方に待機しても、陸遜のような若く優秀な次世代の者たちがうまくやってくれるだろう。そんな予感が呂蒙にはありました。

 ちょいと関係ない話だけど。
 呉は江東(長江の東側、下流域)を占めていた一大国家ではありましたが、どんなに規模が大きくなろうと、いつまでも悩まされていた問題がありました。
 それは異民族との対立です。
 呉の軍事力、民事の及ばぬ未開の土地。そこには山越族という部族がいました。ときどき呉との国境付近で衝突を繰り返していたので呉にとっては頭の痛い問題でもありました。
 まぁ、山越族にしてみたら、こっちこそが先祖代々この地で生活をしてきたのに、そこに勝手にやってきては文明開化を主張し、力技で民族を吸収しようとする呉の人間なんかどうでもいいっつーか、ほっといてくれってカンジだよね。

 呉での稀代の猛将知将とそののちに呼ばれる将軍はみんな、この山越族平定の戦いに必ず出向いています。いわばこの山越との戦い如何で、今後の出世も決まるという試練みたいなものでした。
 周喩、魯粛、呂蒙、陸遜、世代も時間軸も違えど、ことごとくこの遠征の指揮をとったことがある者ばかりです。

 山越族って、これは想像だけど、呉国の人間の立場から見て「山に住み、その山を越えて略奪をおこなう集団」みたいな意味なのかな。
 山越にしてみれば「オマエらこそ山を越えてやってきた異民族だろーがよ~」ってカンジだろうけど。

 いずれにしても、何十万単位の兵士を保持し、最先端の武器を扱い、統率された軍を持つ呉は、次第次第にこの山越族を辺境へ辺境へと追いやることに成功します。
 行き場を失った山越族は、名残惜しみながらも故郷をあとにして、家族や友人とともに見果てぬ大海原へと旅立ちました。
 幾月もの困難な航海の末、彼らは小さな島国の、とある土地に流れ着きます。
 新しい土地で生きていくことを決心した彼らは、そこにコミュニティーを作り、その土地を「越」と名付けました。
 越前、越中、越後。
 『呉服』という言葉もここから生まれたとか。『漢字』もそうなのかな?なんせ「漢」の字だし。

 さてと。

 関羽は、積極的に呉に対して攻撃をしかけようとはしませでした。
 形だけとはいえ蜀呉は同盟関係にあったのはもちろん、まず倒すべき敵は、無理っくりに漢帝を擁し、傀儡としてその正当性を奪おうとしている魏であることを諸葛亮から聞くまでもなく感じていたからです。

 思えば若き日に、桃園で劉備を主君そして兄と仰ぎ、義弟の張飛の三人で誓いを立てました。
 漢朝の衰退を目の当たりにし、農民や弱いものが虐げられ、罪もない人々が死んでいく。そんな世の中はもうまっぴら御免だったし、我らでなんとかしてやろうって気持ちがあったからこそ。

 関羽にしてみれば、北方を曹操の魏にいつ攻められるともわからず、翻して南方からこの荊州をうかがう呉も侮れない敵です。
 この荊州という戦略的価値の高い土地を、義兄である劉備に託されたときに、関羽もさすがに「自分一人で魏と呉の両面攻撃に耐えうるか?」と心配でした。
 軍師諸葛亮はそんな関羽に「八字の戒め」というよくわからない兵法を関羽に告げました。
 「北ハ曹魏ヲ攻メ 南ハ孫呉ト和ス」

 「北ハ曹魏ヲ攻メ 南ハ孫呉ト和ス」
 すなわち、魏に隙あれば関羽の裁量で攻め込んでしまってもかまわない。ただし後門の虎である呉に関しては、現在我が蜀とは同盟関係にあるとはいえ、その関羽将軍が留守となった途端に必ず刑州に攻め入ってくるであろう。呉とはつかず離れずの程よい関係でいなさい、ってこと。

 関羽はこれを守りました。
 そのための烽火台であったし、関羽にとっても、呂蒙という剛勇がそこで総司令官を張っているのは脅威でした。しかし呂蒙が自分をそれ以上の脅威と考えていてくれていることも知っていました。
 
 荊州と呉、両軍動かずににらみ合いが続けば続くほど蜀にとっては好都合でした。

 なぜ好都合か?
 蜀という地方は、流浪を重ねた我が兄であり主君の劉備がやっと手に入れた、天下をうかがうことのできる磐石な国でありましたが、なにせ手に入れたばかりで国としては若い。まだまだ国力も兵力も曹魏には及びもつきません。
 諸葛亮という天才軍師が内政にどれだけ励んでも、その国の充実には何年もかかるでしょう。劉備が人心を得て、君臨できるのも時間がかかります。
 他国と対等に立つための時間稼ぎが、蜀には必要だったのです。
 そのためならば関羽は、自分が最前線の荊州に出張ることによって、危うい三国のバランスを一時的にでも一身に引き受ける所存でした。

 もちろん諸葛亮が、荊州に関羽を配置したのはそこが狙いです。

 一方、魏の曹操は、いつだったかの飲み会で「この世に英雄と呼べるのは君と余だ!」と言って指差したネットカフェ難民こと翼の折れたエンジェル劉備玄徳が、自分の予想通り、とうとう蜀という確固たる地盤を得たこと、そして呉と同盟を結んだことを「討ち捨て置く事態ではない」と感じていました。
 感じたというよりも、赤壁で蜀呉の連合軍には散々に負けてるしね。

 今、荊州を攻めるのはリスクが高すぎる。なにせ相手は関羽。
 もしもその関羽を助太刀する形で呉も一緒に攻め込んできて、機を逃さず蜀の軍勢が漢中方面にでも雪崩れ込んできたら、さすがの曹操ですら止める自信がありません。
 いや、曹操はそれでも止めるでしょうが、国力の疲弊は相当なものでしょう。
 現時点ナンバーワンである魏であっても、国力の一時的は減退は、いつ反逆者を生み出して、クーデター、政権交代が起こるかわかりません。
 エリートの家庭で生まれながらも己の才覚一本でのし上がった曹操は、権力なんてものは、一昼夜で逆転するものであることを身をもって知っていました。それがどんなに強大な権力であっても、鞍替えなんてものはあっという間に起こる。

 赤壁で大敗を喫した曹操は、ここは慎重に行かねばならないと考えていました。

 「曹操さま、あなたほどのものがなにを畏れることがありますのじゃッ!」
 「畏れてなどおらぬ…孫呉の血統は侮れんということだ…」

 曹操は呉を攻めることにしました。「呉を攻めたら、当然のように同盟関係の蜀が呉をフォローするじゃん。そうなったら、魏VS蜀呉連合の構図になって赤壁の二の舞では?」とも考えてしまいますが、曹操はそこも計算していました。

 蜀が呉と結ぶのは、国力を蓄えるための時間稼ぎ。
 いつか必ず蜀は、北伐という形で魏を対し軍勢を差し向けてくる。
 蜀は「魏は!曹操は!帝を虐げる逆賊である!帝をお守りし、漢王室復興のために立ち上がる!」という大義の旗のもとに時代遅れヤローが集まった国だから、いずれは戦わなければならない。
 呉は一方、もともと地方豪族の集まりです。本当は戦争なんかせずに自国の領土と保身が第一の自分大好き集団なので、蜀に義理立てして魏を攻めたりはしない。

 となれば攻めるのは呉から。それも蜀の前線基地からはうんと遠い戦場にて戦う。蜀の援軍は間に合わず、間に合わないくらいならやはり自国の準備を優先しようと判断するであろうギリギリの境界線で。
 そこであれば関羽も荊州を守る任がある以上、援軍に駆けつけることもない。劉備から任された土地を捨て置いてまで、呉なんかに援護をすることはない。
 純粋に魏VS呉という二国の争いとなれば、どうみても魏軍優勢。
 呉を落とせば、蜀などは恐れるに足りません。天下の帰趨、もって知るべし。

 そんなわけで、曹操は呉との境界であるが合肥(がっぴ)という土地を何度か攻めますが、あまり成果は得られませんでした。
 曹操の読みは外れ、いたずらに兵力を失う消耗戦となってしまいました。
 そのあいだ蚊帳の外にいた蜀は確実に力を増してきます。

 呉へ速攻をかけ、転じて蜀をも併呑したかった曹操にとってこれは誤算でした。
 これは早いところ代替案をださなければなりません。時間をかければかけるほど、曹操には不利になります。

 そこで曹操がここで採った策は。
 実質は曹操の操り人形として名前ばかりの漢帝ではありますが、未だその威光はどの勢力に所属する、どんな人間にも畏れ多いものです。これを利用して、帝の勅として合肥の戦いを停戦させました。
 「魏呉不可侵同盟」の締結です。

 しばらくのあいだ呉はもう魏の邪魔立てをしないでしょう。兵力を消耗したのは呉も同じ。すぐには体勢は立て直せないはず。そこにきて「停戦」という帝の勅詔ですから、呉にしてみたら「助かった~」です。

 呉はあからさまに魏に対抗することはできなくなりました。蜀との同盟があったとしても、それも形だけ。
 つまりは魏は攻撃の矛先を、100%のイキオイで蜀に向けられる。
 これにより曹操は思いっきり荊州攻撃ができるようになりました。

 とうとう荊州の関羽に向けて、曹操が本気で攻めるときがやってきました。

 悲しい別れをしていた二人ですが、そんなことはお構いなしに、抗うことのできない力で、とうとう運命の大車輪がグルグルまわりだします。