艦長日誌 補足(仮) 

タイトルは仮。そのときに思ったことを飲みながら書いたブログです。

ひとは一人で、ひととして生き得るか?

2007年07月19日 23時37分24秒 | 個人日誌
 ここんとこの天気は曇っていて太陽は出ていないが、雨雲ではないので雨は降らない。気温もあまり上がらずに湿度もそれほど蒸し蒸ししたものではない。
 はっきりしない天気だ。まるで誰かさんみたいだ。いや、僕のことです。どうも。

 先日お呼ばれいただいたとこの後輩に本を借りました。伊坂幸太郎の「魔王」。まださわりしか読んでいないが、おもしろい。
 
 このブログでたまに本の感想を書こうと思うのだけど、書いているうちに関係ない話ばかりしそうな予感がぎゅんぎゅんするし、書いているうちに「うーん、僕がこの本を読んでおもしろかったのはそういうものじゃあないんだよな~、なんというか、あのその…」なんて、言葉ではうまく表現できないと思うので、書いていない。

 その新婚の後輩の家で奥さんの手料理をいただき、ビールを飲みながら、
(家に着くまでの同僚の車の中で「俺はハイネケンしか飲まんよw」とか言って、「マジですか?ビール買っておいて、としか言ってないのでハイネケンではないと思いますが…」と後輩をいじめておいて、いざ家に入るとおとなしく一番搾りを飲みます。当たり前だ。そもそもビールにはそれほどこだわりがない。でも黒ビールは好き)
 「え~と、たしか俺の2コ下だから今年もうすぐで30歳か~」
 「はい」
 「そっか~、大きくなったなー。初めて会った頃なんかこんなんだったのに」
 「どんなんですかw?」

 「奥さんは確か旦那さんよりも更に2コ年下でしたよね?」
 「はい」
 (「そっか~、大きくなったな~。結婚式の時はこんなんだったのに」)←これは想像で。

 お酒も進み愉快愉快。どうも僕は後輩をからかって楽しむという、あまり人に褒められない気がある。

 張飛は「尊敬できる目上のものにはかしこまった態度でいたが、下の者にはかなり横暴な振る舞いをした」らしい。関羽はその逆で「目上のものにはどちらかというと反抗的な態度をとり、上も下も同じ人間であろう的な考えかたをするが、部下にはよく目を届かせて、なにかと親身にしていた」らしい。

 だからこそ関羽は、漢帝を退けて都を牛耳る曹操には、人としての情と熱さを感じながらも反抗し、その後皇帝の名乗りを挙げるほどにまでなる孫権にも最期まで降らずに、首を刎ねられた。
 張飛は、下の者をないがしろにしたからこそ裏切りに遭い、志半ばにして暗殺された。(つーか目上のものにもすぐ手をあげていたような気もするが。「しゃらくせぇ!」とか言って。)
 
最強の二人だね。

 三国志についても、このブログではたくさん書きたいのだけど、最近読み返していないので、きっとおもしろく書けないようなカンジがする。やっぱ常に繰り返し繰り返し読んでいないと、その本のおもしろさっつーか、感じたものを表現できない。

 ひとについても同じことがいえるように思う。
 しばらく会ってないひとのことを思い出すとき、最近の記憶がないとそのひとの一番強い印象が心に残っていて、その印象以外は時間の経過とともに削ぎ落とされる。
 あとになってから評価される、もしくはされないことって、結局そのひとの本質だったりする。

 だから今ここで三国志の話がちょこっと出てきたときに、僕は関羽と張飛という、誰もが一番印象に残るキャラクターが出てきたのだろう。
 実際に関羽も張飛もどんな人間だったかは伝承でしかないし、むしろほとんど史実でもない作り話だというし。

 ひとがひとをみるとき、ほとんどは正確な意味をもった評価をなさない。

 人間関係もそんなものじゃあないだろうか。
 自分が誰かのことを、誰かと誰かの関係について考えるとき、その思考の大半は思い込みと一方的な価値観から鑑みた、誰もが同じように思っていると錯覚した関係で、正確なものなどない。
 いや、それが悪いこととかじゃあなくて。それが当たり前なんだけど。

 大事なひとのことを思うとき。その二人の関係が誰の目からみても歪な関係で、不思議なものであっても、当人同士はあまり気にしない。それは「他人の言うことなんか気にしないぜ~」ってことではなく、自覚できない。

 僕にとってこのひとは大切なひとです。とは言ってみても、それは当人にしかわからないことだし、周りがどんなに理解しようとしても、同じ目線でものをみることは絶対にできない。(否定的な意味ではないよ。その差異が、またおもしろいからね~)
 それでも、親しい友人や恋人ができるひとは「同じ目線でものをみようと、相手のことを真剣に考えるひと」なんだろうな。その努力が同じ方向を見たときに、最高の親友だったり、恋人ってものが現れるんだろう。 
 
 なにが言いたいのかわからないって?うん、僕もわかっていないんだ。
 これまでやってきたことに、そもそも意味なんて求めようもないし、意味をつけようすれば一人では困難だ。そもそも意味なんてつける必要があるのか?(なしといえばなしだけど、あるとして考えたほうが人間らしく生きられる)

 どんな物事にも、それひとつでは意味を成しえない。他の物事との比較で初めて意味をもつ。
 (自分勝手な人間が手に負えないのは、その自分が考える意味と他人が考える「意味」との比較と判断ができないから。価値観は自分にしかない、比較対象をみないから)

 僕には幸い、多くの友人がいる。僕もどちらかというとわがままに我を通すほうだけど、たまには考える。
 だからこそ、誰かに意見をされたり、言葉をかけられると、喜んだり、悲しんだりできるのかもしれない。

 親しい誰かに会うのが嬉しいのは、きっとそのひとも嬉しいと思うからだ。