TAMAちゃんダッシュ

愛犬タマとマル民の私の毎日です

終末

2006-04-27 | Weblog
 思い描くのは勝手なんですが一緒に相談には乗ってあげられない。
 悩んでいるわけではありませんがここのところ同居の義母がよく口にするのは終末の後のこと。つまり死後のことをよく考えています。
 宗教か信仰かと思いきやそこはバチ当たりな瑠葉家。高尚な精神世界のことではなくとても俗物的です。ズバリ葬儀と墓所のことなんです。

 葬儀については義父が亡くなった折からとある葬儀社の互助会に入っていますがかなり葬儀自体に費用がかかり、義母はそこを利用したくない様子。寝台やお供えの花や香典返しが良かったとしてもその葬儀場までは距離があり自分が亡くなった時に来て貰う人たちに対して申し訳ないというのだ。費用はかけたくないし、参列者のことを考えると近所の集会所みたいな場所を利用して葬儀をやった方がいいと事あるごとに言うのです。
 「死んだ後も近所の人たちのことを考えるのか…」(←瑠葉心の声)
 
 次に墓所。実は墓所は2か所もありそれぞれ近所だが山の上にありお参りするのも一苦労の状態。義父と義母が若い時に墓所になる敷地をできるだけ早く購入しようと考えた結果、年老いてからのことは全く考えられなかったらしい。結果、敷地はありそちらには墓石はない状態。だからもう一つの墓所の方に義父が眠っているわけだが、山だが耕作地と小川が傍にあり水の問題が。そして参る度に草ボーボー状態で草むしりに半日ぐらいかかってしまいます。
 そういうことなので義母がここのところ考えているのはお寺が運営(?)する納骨堂のようなところへの入居(?)なんです。何でも4人まで一つの場所に入ることができ100万で最初の何年かを供養してくれるそうだ。亡くなった義父、自分(義母)、主人、そして嫁の私で丁度いいとか言っていた。
 「私も当然頭数に入っているわけね…」(←またまた心の声)

 義母は私たち夫婦に子どもがいないのでそのことをハッキリとはいいませんが自分が生きているうちにそのあたりのことをきちんとしておきたいのです。ただ納骨堂に入ったとしても何カ年かだけなのでその後は無縁仏になることはよくわかっているのですが何か心の平安をそれによって得たいという気持ちなのでしょうか。それでもいつも話の最後には「死んだらみな生き物は一緒よね」という結論には辿りつくのですが。

 義母の思い描く人生の終末はいつもここの部分なんです。年齢的にいうと85歳でやはり「まだまだ現役よ」(お金の計算とご近所づきあいだけは立派に誰か何というおうと現役)とは言えない年齢にさしかかってはいますがそういう終末だからこそ、毎日が心楽しく安らかであって欲しいと思うのですけどね。

 余談ではありますが少々ヒネクレものの私ですから葬儀については生前葬でがっぽり香典をもらって楽しく使い、死後は附属病院の検体にでも使って適当に荼毘に付してくれればと思っています。脳にはシワがなく腹は本当に黒かったりして。その様子が自分の目で見られないことがもっとも残念でなりませんが。

以上、2006年4月27日におもう人生の終末でした。先々どう変わることやら…
だって20年前は葬送曲としては「六甲おろし」をかけてもらうことしか頭にありませんでしたから。20年たっても何年たっても本質は変わらないのかもね。