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TAMAちゃんダッシュ

愛犬タマとマル民の私の毎日です

誰でしょ。

2005-06-02 | 
先日、しおりママのブログのお題で
街で芸能人に会ったことありますか?というお題に答えたのですが
この人→
<画像-yahoo!JAPAN>>

誰だかご存知ですか?
私、空港で会ったデーブ・スペクターに向かってこの人の名前で呼んでしまったのです。
当然デーブさんはムっとしてました。後で気づいてびっくりだし恥ずかしいし。
で、この人知らない人が結構いることにもびっくりしました。(きっと共通項は若い人)
話が通じないんです。私がマニアックなのかな?

貴ノ花

2005-05-31 | 
昭和の名大関、角界のプリンス貴ノ花が亡くなった。55歳早すぎる死だ。ガンで闘病をしていることはニュースなどで聞き及んでいたがこんなにあっけなく逝ってしまうとは…

テレビでは晩年は辛いことが多くと言っていたが晩年というにはあまりにも短い時間であった。辛いこと-自身の不倫問題、妻の不倫問題そして離婚、息子たち兄弟の不仲、財産問題と数えればきりがないほどだ。精神的に病んだことが身体にも病を呼びうち勝つことができなかったのだろうか。生きていても良いことはなかったのだろうか。

貴の浪の断髪の折、弟子のためにどうしてもと病の身をおして土俵にかけつけた。抗ガン剤の副作用だろうが顔はむくみ、どす黒く息も絶え絶えに。面差しが変わり死相が現れていることから死はそう遠くないと自身でも気づいていたのであろうか。

輝いた瞬間、貴ノ花として北の湖との優勝決定戦で勝利した時はまだ幼かった私にとっても一番の瞬間として鮮やかに記憶に残っている。史上初の兄弟横綱の息子達若貴の世代を経て二子山親方として人生を送ってきても貴ノ花であった力士時代の記憶の方がより鮮やかなのは私だけではないはずだ。
ご冥福をお祈りいたします。

ブログ繋がり

2005-05-22 | 
ブログを始めた当時は日記的な意味合いのそれを考えていたものだが、趣味や常々思っていたことのカテゴリーが次第に増え始め次第に充実したものになってきた。
何が充実してるのかというとブログで知り合った人たち。たくさん訪問していただきコメントを残してもらう。そしてその事から知り合った方の生活の一部や性格の一部が見えてきてそれを好ましく思うのだ。

毎日の生活形態でいくと、今仕事が忙しいんだとか料理中だとか夜なかなか眠れないんだとか、体調を崩しているとか、精神的に参っているのでリラックスしてくれたらいいのにとか考えることができます。
性格でいうと、忍耐強い人だなとか言葉に優しさがあるだとか、我が道をとにかく突っ走る(笑)タイプだとか。
生活や性格からブログで交流のある人について非常に多くのことが想像できて楽しいのだ。だからその日のネタに対して想像していたようなコメントをくれるとうれしく、そうでない時はそんな風に考えるんだとか思ったり、目の前にいない人との会話が簡単にできることが有意義なのだ。
メールは基本的に1対1の関係であるし掲示板はかなりテーマが限定される。そしてブログは比較的容易に自分の考えたこと、感じたことを表現することができる。それだからブログ人口が劇的に増加したのでしょうけど。

ブログで縁あって繋がった人から毎日充実した何らかの答えがもらえるからやめられないんでしょうね。

本日の記事はバンダナーズのネイビさんから以前頂いた心温まるコメントからヒントを得ていつか書こうと思っていた記事です。ネイビさんは別の方のブログから知りあえましたし、また知っている別の方とも別カテゴリーで繋がってて。そうして見るとやはり何か通じ合えるものを持っているのかとも思います。

ネイビさんや他の方々のブログのように幸せのお裾分けができるブログを目指したいですね。

迷宮なし

2005-03-31 | 
もう10年以上も前に出会った人だが今でも時々思い出す人がいる。
音信不通というより連絡を取ろうとすら思うことすらなかった人だが時々思い出す。
そういう人って自分を映し出す鏡だとは思うがまず相容れることはないと思う。

職場の同僚で私より4つ年上の女性だった。物腰が柔らかくちょっとぽっちゃりしていてパステル調のフワリとしたワンピースをよく着ていた。スーツのイメージがない。使っていた香水もフローラルスウィートという少女のような人だった。
でも柔らかいイメージなのに言動は真反対。

印象に残った事を一つ。
彼女が結婚したのは平成3年の3月3日。ディズニーランドのそばのホテルで式をあげました。
私の住んでいた場所から目的地にいくには航空機を利用しても半日かかる。日程的に無理があるのに「せっかく来たのでみなさんにもディズニーランドを楽しんでもらいたい」といって航空券を用意してくれた。当然入場券はない。
フランス料理のコースが出たのだが料理にばくつく新婦さんを今まで見たのは初めてと列席していたものが言うぐらいにきれいに平らげていました。

そして彼女の口癖
「…した方がいいから。」
あらゆる事に対して私のしたいことはこれで、それは良いこと以外にあり得ないということが無意識のうちに備わっているのだ。周囲にどんなに影響を及ぼすとか自分がどのように見られているのかなどお構いなし。でも悪気がないから許される。

可能性を多岐にとか余力とか安全パイとかを考える私の物言いは
「…した方が良いと思う。」
道をたくさん作ることが迷いにつながるのか、より良いことをみつけようとすることが自分の中で消化しきれていないのか。

相容れないだろう彼女はどこでどうしているのだろう。

See You Again

2005-03-29 | 
新しい生活のスタートの4月を前に別れがあった。
不意におとずれた事柄に自分の中の不安定さをみるのではないかと思っていたが不思議と動揺はなかった。

月に1度定期的に通院している総合病院の主治医がその病院をこの3月でやめられ開業されることを聞いた。
病院はたくさんあってどこでも良いという訳ではないということを以前のブログでも紹介した。だから少々の距離なら新しく開業される所に通院しようと考えたがそうはいかなかった。

開業して事務所にあたる建物は建てるが外来診療はしない。通院できないお年寄りに対しての在宅診療のみにしていくというのだ。外来診療がないことを少々残念に思いはしたものの、この主治医らしさを見たような気がして微笑んでしまっていた。
医者も生き残っていくのが厳しい時代で既存のことをしていては先んじたした人に追いつくのが難しい。新たな場所で新たな顧客を獲得するのはかなりの労力が必要であるし設備投資費や人件費なども莫大必要だ。さらに開業した病院の経営と診療とを同時にこなす事は、2世のお医者さまでもない限り負担が大きい。そういう説明はさすがに受けはしませんが何となく意図するところがわかるような気がした。新しいやり方での診療を始めようとしているのだ。


別れだ。もう患者と主治医として会うことはない。
1つだけ聞いた。
「先生おいくつだったんですか。」
大体は想像していた。
「40歳」
私の方が少し下だが
「お互い頑張らなきゃいけない年齢ですよね。」
激励が餞(はなむけ)だと思った。

新しい世界で活躍することを祈り、
自身の奮起を考えた別れでした。幸せな別れでした。

そしていつの日か
See You Again
どこかで頑張ってるあなたにいつか会えることを信じています。

倉木麻衣

2005-03-22 | 
倉木麻衣さん、はかま姿で立命館大卒業   (毎日新聞より)

あれからもう4年経つのか。
まずはご卒業おめでとうございます。

音楽活動の拠点を関西に置く。自分の大学生活を優先する
という選択をした彼女を応援したくなったのは、見た目の
繊細さからはみ出てしまった力強さとか頑固さが好ましい
と思ったから。
R&Bの軽快さで耳に触りの良い曲から視聴者の共感を呼ぶ
ことを考えていて同時期の宇多田ヒカルのマネをしてると
よく聞いたものだが。周囲の声に惑わされることなく頑張
ることができたのは自分の中で大切なものをしっかりと持
つことができたからだと思います。
「光る道をただ進めばいいから…」という彼女の歌の歌詞
のように行く先には光る道標がおぼろげながらもあるのだ
ろう。それが誰にも真似のできない彼女らしさになったの
だと考える。

社会に出て今後の活動がどのようになっていくのかまだ想
像できませんが、頑固なまでの自分らしさ、力強さを持ち
続けて欲しいと思います。

トライアングル

2005-03-14 | 
「ポルノグラフティーって2人やったか?」
「ん?」
いや確か3人だったはず!
その時テレビに出ていた二人を何度も見た。
「2人になっとる!」
これ実はおとついの主人と私の会話。
いつの話してるんだよ!とつっこまれそうですが。
思えば昨年の夏~秋にかけてばバタバタしてたので
きっとその辺りなのではと考えたがそれ以上追求は
しない。きっと「音楽性が異なり今後の方向性が違う」
のでとかいうに決まってるから。
………ケンカしたのかな。

そうなっちゃうグループって多いですよね。
ELTやドリカムなど。(ドリカムはしょうがないけど)

3人の関係って難しい。
かくいう私も不倫とか三角関係とかいう大それたことは
できませんが、3人は難しいって思ったことが何度も。
まず兄弟は3人でしょ。これは絶対2:1に分かれる。
壮絶なバトルをやってました。

それから大学時代の旅行で起きたことを紹介しましょう。
芸術科目のレポートを書くのに現地取材でという課題が
ついていた。その科目を履修していた仲間で奈良、京都
の旅に出たわけだが、ある程度まで一緒に行動していま
したがその後の行き先をめぐって大喧嘩。
大阪に行くとAさん。神戸に行くと私。
家に帰るとBさん。       結局誰も譲らない。
3人バラバラっていうのは珍しいですよね。
いや、いたな。X-JAPAN。

もちろん私たちのケンカ別れはその時だけのもので今も
時々は連絡を取り合っています。でも毎日寝食を共にす
す間柄だったら我慢を重ねた分、事があったときの傷口
が大きい。生活の一部になっているのだったら、自分の
思い描いている理想の生活を他の人との関係からあきら
めざろう得ないのですから。これは深刻です。

とすればアリスとか理想的なのか。ソロ活動をしながら
時々集まる。3人じゃなくもっとメンバーの多いグループ
はもっと関係が複雑になってるのだからそれを維持するの
は大変だと思う。サザンとかはもうすごいの域。

サザンまではいかなくても目指せ、アリス、レッツゴー
三匹、ちゃんばらトリオ!
どんなに多人数になっても良い関係を発展させていきた
いですね。


A病院K医師

2005-02-22 | 
 病院は色々ありお医者さんもいろいろいるけど今日はある一人を取り上げてみようと
思う。
 A病院に勤務するK医師との出逢いは一昨年の夏だった。以前のブログで前述した通り
アレルギー持ちの私は薬のみでぜんそくの治療を続けていた。夏の暑さと湿気にやられて
正確には暑くなる前の梅雨の時期だったが風邪から喘息の発作を起こしてしまいました。
かかりつけの内科医院にいって治療としたものの歩けないは意識はないはで結局外来治療
の限界ということでA病院に紹介状を書いて頂いて入院することになった。当然しばらく
は意識が途切れ途切れで何が周囲でおこっているかわからず苦しいことのみだったが、後
で気がついて状況を見てみると相当な大発作をひきつけていたらしい。何せチアノーゼみ
たいなのが出ていたそうですから。
 この病気とは結構長い間つきあってきたので、わかっていたような気持ちでまた自分自身
の健康を過信していたことがよく分かりました。苦しい事と何よりそんなことで情けない気
持ちでとにかく早く退院したいと思っていると
 「若くないんですから無理しちゃだめです。若いと思っているのは自分だけですよ」
 とK医師。
 こんな失礼なことを言われると大体カチンときちゃいますが不思議と頭にくるということ
はなかった。それはK医師が自分と同じぐらいの年まわりだったことや、私自身が疑問に感
じてもなかなか切り出すことができなかったことを理解して入院している間の治療方法や
その後の治療方法を的確に指示してしてくれたことなどが要因だが。それに好ましいのが何
よりフットワークが軽いこと-外来診療が始まる前の朝食時にやってきて回診をするんだか
ら大したものですよね。回診をきちんとしない主義のお医者もいますが毎朝きたいただいた
おかげで自分に対して一生懸命なのがよくわかった。
 一週間以内に自分の中で退院すると決めてK医師に断言すると少々あきれていましたが、
軽快さを好むK医師は私のイラな性格(どこの方言だよ。要約するとスピーディーを好む)
を理解したのかあきらめたのか、今後注意しなければならないことを話してくれた。

 その後も1か月に一度通院して薬の治療を続けていますが、総合病院だというのに長く待
たされることのないA病院、そしてテンポよく的確に指示をして治療をしていくK医師との
おつきあいは今も自分の中で楽しく続いています。
 年まわりが近くテンポがあって仕事に対する姿勢が好ましいと思えるお医者さんなんてそう
はいないと思いませんか?こういう出逢いはうれしいですね。