宝満山研究会(山岳宗教遺跡の保全と研究)

大宰府の北東に聳える宝満山の歴史的価値を掘り起こし、山の保全を考える会です。

とある竈門神社古写真について

2011-04-26 | 史料

 この写真(絵葉書)は太宰府天満宮参道の寺田屋企画の絵葉書。博多中市小路高田製販所で印刷のもの。
 社殿は拝殿が本瓦葺で唐破風と千鳥破風の組み合わせによる形式である。
 本殿は拝殿より2mほど高い地盤にあり、前殿と本殿の2棟が見られ、平入りの構造で、屋根は白く反射して写っていることから銅板葺きと見られる。
 社殿の左右に砲弾のレリーフがあることから、撮影時期は日露戦争以後(明治38年=1905年終戦)で、社殿が改築された大正15年(1926年)以前の期間のものと考えられる。
 大正15年まであった社殿は、嘉永六年(1853年)に焼失した本殿を安政元年(1854年)に黒田藩が再建した建物で、明治27年(1894年)に村社から官幣小社に昇格した時点での建物はほぼこの状態であったと思われる。


現在の建物は官幣小社になったことを契機に大正15年に台湾ヒノキを用いて建て替えられたもので、古写真と比較すると、現在の建物は以前のものに比べて高さも平面的なプランも一回り大きなものになっていることがわかる。また、拝殿前の石垣は現在では埋められて段差がなくなっていることが知られる。拝殿背面の石垣も現在のものとは石の組み方や高さが異なることから、大正15年時点で造りかえられていたことがわかる。本殿のある内陣は現在と同様に玉垣で囲まれるが、大正15年の時点では背面の山を大きく削り取って造成した写真が神社に残されており、拝殿との境の石垣が写真と比較すると現在では低いことから、内陣は建て替えの際に平面的には広く、高さ的には低く造作されたことがわかる。
 拝殿全面の石段と石造りの玉垣であるが、竈門神社所有の別の写真では乱積みの石垣に白色で太目の御影の切石を組み合わせた立派な玉垣が写されており、大正15年本殿改築以前に拝殿全面の玉垣が改修された時期があったことがわかる。

 このことからこの写真は大正時代のものではあるが、大正末年までには下らない時期のものであることがわかる。

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