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かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 209

2024-02-24 11:34:50 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究 25(15年3月) 
   【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁~
    参加者:S・I、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部 慧子  司会と記録:鹿取 未放
    

209 星雲が幾億の星孕みつつ哭いていないとどうして言える

     (当日意見)
★やはり人間に擬しているのだと思います。星雲でも何でもこの人は自分のように考え
 ていらっしゃるのよね。(曽我)
★ハッブル望遠鏡では100億光年のかなたが見えるそうですが、星雲は雲のように泡
 立っていて泣いているように見える、そんな状況を思い出します。そこで星が生まれ
 なくなっていく。人間にもあるように宇宙にも生死がある。そんな宇宙の悲しさを感
 じました。(S・I)
★これは私、好きな歌です。「哭いていないとどうして言える」と反語で言って「哭い
 てい」ることを強調しています。心が無いはずの星雲そのものが哭いていると作者は
 感じているんです。「孕み」だから妊娠するように幾億という数えきれない星を星雲
 はお腹の中に抱えていて、これからもそれを生み出してゆく。あるいは無数の星から
 構成されていることを比喩的に「孕む」と言っているのかもしれませんが。慟哭の
 「哭」で「哭く」だから大泣きしてるんです。果てしない大宇宙の中で次々に星を生
 み出していく、あるいは星を幾億も抱え持っている星雲自体の、存在に対する怖れ、
 恐懼でしょうかね。存在を生み出す母性の恐れや悲しみが意識にあるかもしれないけ
 ど、ここは何かを例えているのではなく、星雲自体の慟哭を感じ取っていると解釈す
 る方が私は好きです。(鹿取)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 208

2024-02-23 09:51:46 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究 25(15年3月) 
   【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁~
    参加者:S・I、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:渡部 慧子  司会と記録:鹿取 未放
    

208 風にやられて万の葉裏を晒せるにだれもレイプと言ってはくれぬ

   (レポート)
 風に吹かれる樹木がいっせいに葉裏をさらされる状態を樹の側からこんなふううに呟いてみた。言葉を持たない木のためにと言うのではなく、木に会えばおのずから対象と一つになる作者。(慧子)

                          
  (当日意見)
★私はすごく単純に考えて、木の葉の裏って誰も見たくないじゃないですか、そういう
 見たくないものを見せられる、風によって暴力的に晒される、だからレイプという表
 現にしたのかなあ。葉の裏は変に白かったりして美しくない。風が木としての有りよ
 うを変えちゃった。擬人化した言い方なのでちょっとこんがらかりますね。(S・I)
★レイプという語がどうも唐突だと思っていましたが、そういうことですかね。「恨み
 葛の葉」なんって歌もあって、葛の葉は風に飜ると裏が白くて目立つそうです。た
 だ、誰も葉の裏を見たくないというのは言い過ぎじゃない。葉の裏に興味を持つ人も
 一定数いると思います。(鹿取)
★欅なんかの葉の裏って美しいですよ。(慧子)
★まあ、いろいろの考え方がありますから。美しいものを晒させるのもレイプですか
 ね。一斉に晒 させられる訳ですから。(S・I)
★美しいものを晒させられるのがレイプなのか、醜いものを晒させられるのがレイプな
 のか、分からないけど、自分だったら醜いものを晒す方が嫌ですね。何か私が作者の
 意図を見落としているのか、どうもレイプというのがよく分からないです。(鹿取)


    (後日意見)
恋しくば尋ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
人形浄瑠璃や歌舞伎などで、通称「葛の葉」として知られる話に出てくる歌。狐が恩返しの為、人間の妻になって一子を儲けるが、正体が分かって去っていく時にこの歌を残す。「葛の葉」は狐の名前と植物名の掛詞。(鹿取)


       (後日意見) 
 作者が女性だったら、絶対にこのようなかたちで「レイプ」という言葉は使わないと思いました。「言ってはくれぬ」とも。「風にやられ」たあと、もう元には戻らない。大きな傷が残り、世の中、人生が変わってしまう。「風にやられ」たことを、必死で隠そうとする。平然と、何事もなかったように装おうとする。私だったらそうだと思う。だから、こんなかたちで、この言葉を使ってほしくないというのが、正直な感想です。(T・H)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 207

2024-02-22 15:09:08 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究 25(15年3月) 
   【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁~
    参加者:S・I、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子  司会と記録:鹿取 未放
    

207 見上ぐれば風を巻き込み俺様は貪欲なるぞと椨(たぶ)の木がいう

    (レポート)(慧子)
 見あげた作者に椨の木が言った内容は「風を巻き込み俺様は貪欲なるぞ」。なるほどあの椨の木であればその言葉もうなずける。ゆれる、しなう、そよぐ、そんな言葉では追いつかない感じをレポーターも思う。ここは対象になりきるのではなく、人間の特性を木に見て、ユーモラスな一首。
  *椨:クスノ木科の常緑高木。葉は厚くつやがある。5~6月に枝先に黄緑色の小
     さな花を群生する。果実は直径1センチ内外の球形。本州以南、台湾、中国
    などの暖地の海岸近くに自生、材は枕木、家具、楽器など、樹皮は黄八丈織
    物の染色に用いる。(新世紀百科辞典)


      (当日意見)
★「風を巻き込み」は叙述部分で、椨の木が言っているのは「俺様は貪欲なるぞ」だ
 けですよね。(鹿取)
★椨は綺麗だし、風にも強い逞しい木ですね。(曽我)
★「対象になりきるのではなく」、は作者が椨の木を客観的に見ているというこ
 と?(S・I)
★はい。(慧子)
★客観的に見ているだけで、それを人間に投影しているとは思いません。「人間の特性
 を木に見て」はなくていいと思います。椨の木の生命力の強さとか生きる逞しさを風
 さえも巻き込むと例示して「俺様は貪欲なるぞ」と言わせている。(鹿取)

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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 206

2024-02-21 11:16:49 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究 25(15年3月) 
   【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁~
    参加者:S・I、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子  司会と記録:鹿取 未放
    

206 暴風雨に錯乱をする竹の叢 一遍らかく踊りしならん

      (レポート)
 剛と柔を併せ持つ竹は、暴風雨にまさしく錯乱するかのごとくゆれているのだが、一遍らの踊り、つまり念仏踊りへと作者の思いは及ぶ。居住まい正しい座禅がある一方、一遍らの念仏踊りの衆生の手の振り、足腰の自由さなど風雨にゆらぎながら折れない竹の叢にかさねられたのだろう。念仏踊りの絵図を見た経験から、作歌上のこのような飛躍を楽しく思う。(慧子)


    (当日意見)
★作者はこの奥にあるものをみてらっしゃるのかなあ。この時代には元寇(げんこう)
 などの社会 的背景があって、人々は不安にかられていた。(S・I)
★「錯乱をする竹の叢」の形態から一遍の踊り念仏を想像する。何とか大衆が救われる
 ように願った一遍は、一度念仏を唱えれば救われるんだよ、極楽浄土に行けるよと、
 貧しく文字も読めない人々に説いた。その教えを信じた人々が狂乱して踊った、その
 求めの懸命さとかエネルギーを暴風雨に激しく揺れ動く竹群のイメージに重ねてい
 る。それは「一心は虚空にありて雲雀とは囀り よりもしげき羽たたき」の雲雀の羽
 たたきの一心とか、少し前に出てきたキェルケゴールの神に真向かう真摯さとも通じ
 ると思います。(鹿取)


        (後日意見)
 食べることもままならず、正体もわからぬ外敵や病気にも襲われ、将来も見通せず、不安が蔓延する世の中、一遍上人と共に、仏の救いを求め、念仏を唱えながら踊り狂った人々。その姿を、荒れ狂う嵐にしだかれ揺さぶられる竹林に重ねる作者。南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏…「錯乱する」竹叢から、来世の幸せを願う多くの人々の念仏の声が湧き上がってくるようです。飛躍しすぎかもしれませんが、追い詰められデモ行進する人々、武器を持って侵攻するIS軍までが「錯乱する」竹叢のイメージに重なってきてしまいました。(T・H)
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渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 205

2024-02-20 10:51:32 | 短歌の鑑賞
 2024年版 渡辺松男研究 25(15年3月) 
   【光る骨格】『寒気氾濫』(1997年)86頁~
    参加者:S・I、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部 慧子  司会と記録:鹿取 未放
    

205 万緑に抜きいでてたつ岩に立ち狗鷲(いぬわし)か風に晒されて濃し 
   
     (レポート)
 中村草田男の〈万緑の中や吾子(あこ)の歯生え初むる〉によって、生命力の旺盛をいうとき、この万緑が圧倒的な存在感をもつ語となった。狗鷲の本質的要素の強さや存在感を濃くする作用として「晒」すが意表をつく。私達が従来抱いていたものと逆の意味に用いて、言葉遣いが新鮮である。(慧子) 

 
         (当日意見)
★「晒す」は、この歌では内面を晒すとかいうときの晒すの意味ではないですか。万緑
 の中の岩の上に一羽でしょうね、狗鷲が風に向かって立っている、その存在感の濃さ
 でしょうか。(鹿取)
★ 濃いというのは密度が高いというように受け取ったのですが。(曽我)
★そうですね、鷲って強くて紋章になるような、王者の風格を備えた鳥だから、圧倒的
 な存在感が あるのでしょうね、それが「濃し」じゃないですか。私だったら「晒さ
 れている」で終わる所をもう1段深いところに踏み込んでいる。(鹿取)
★孤高って感じですね。こういう風景、墨絵かなんかで見たことがあるような気がしま
 す。晒されては何かちょっと屈折した感じですね。(S・I)


      (後日意見)(鹿取)
 鹿取の当日意見で「鷲って強くて紋章になるような、王者の風格を備えた鳥だから」と言っているが、ツァラツストラが常に伴っている〈誇り〉の象徴としての鷲を思った方がよいかもしれない。 『ツァラツストラはかく語りき』の「より高い人間について」4では、ツァラツストラが「より高い人間」に「わが兄弟たちよ」と呼びかけ次のように言う。
   神さえももはや見ていない隠者の勇気、ワシの勇気をきみたちは持っているか?
   ――中略―深淵を見る者、しかしワシの目をもって見る者――ワシの爪をもって
   深淵をつかむ者、そういう者が勇気をもっているのだ。――
 しかし、205番歌の上の句の「万緑に抜きでて立つ岩」の造形は当日のS・I発言の墨絵のようだという印象は強く、確かに東洋的な景である。だから神と対峙し、神を捨てて超人を目指すツァラツストラとは違う要素も加味して鑑賞しないといけないのだろう、とも思う。

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