2025年度版 馬場あき子の外国詠③ (2008年1月)
【阿弗利加2金いろのばつた】『青い夜のことば』(1999年刊)P162~
参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、T・S、高村典子、
藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部慧子 司会とまとめ:鹿取未放
31 観光として生き残る水売りの老爺鈴振る真赤(まつか)なる服
(まとめ)
真赤な服は民族衣装だろう。おそらくかつて実用として水が売られていた時から着用していたのだろう。観光としてのあざとさがいくらかは気にかかりながら、作者にはそういう風俗を伝えつづけてほしい気持ちもあるのではないか。(鹿取)
32 水売りの皮袋の水はどんな水もろ手一杯買へば涼しも
(まとめ)
テレビの旅番組でモロッコの水売りをみたことがあるが、老爺が斜めに掛けた皮袋から細長い管が出ていて、両胸にぶら下がった6~7個のコップの一つに注いでいた。この歌の場合はコップに注がれたものを両手にうけたのかもしれないし、作者のことだから手にちょうだいと言ってもらったのかもしれない。もろ手に買ったところで詩になっている。
尾崎放哉に「入れものが無い両手で受ける」という句があるが、ひとから施し物をもらうときの有り難い気分が「両手で受ける」という言いまわしに滲んでいる。この歌の「もろ手一杯」はどうであろうか、(観光客はペットボトルの水をいくらでも購入できる時代だから)水そのものを尊ぶより、水売りという伝統を珍しがり、はしゃいでいる気分かもしれない。
ちなみに、かつて馬場と共に訪れたネパールの街角で、アイスクリームを買いに来た子供に葉っぱに乗せてアイスを渡している光景に出会ったことがある。椎の葉に飯を盛った万葉の時代を思った事であった。(鹿取)
(レポート)
モロッコでは皮袋に水が貯えてあるらしい。あらかじめ用意された器があったのかどうか、それはさておき、手というものをおりおり美しくうたいあげる作者ならではの一首だ。(慧子)
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