かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞 

2020-09-06 20:21:36 | 短歌の鑑賞
  ブログ版渡辺松男研究⑩(13年11月)
     【からーん】『寒気氾濫』(1997年)36頁~
      参加者:崎尾廣子、鈴木良明(紙上参加)、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター 渡部慧子    司会と記録:鹿取 未放

87 アリョーシャよ 黙って突っ立っていると万の戦ぎの樹に劣るのだ


      (記録)
 ★アリョーシャって何に出てきたのですか?(崎尾)
 ★アリョーシャって『カラマーゾフの兄弟』の末っ子の少年です。(鹿取)
 ★えっ、男の名前ですか?(慧子)
 ★アリョーシャって『カラマーゾフの兄弟』の一番下で、修道院に入ってひたむきに修
  行している少年なんですね。強欲で女にだらしがない地主のお父さんがいて、お兄さ
  ん二人もアリョーシャも、それぞれお父さんとも兄弟同士とも葛藤がある。そして屋
  敷に住み込みの下男が実は腹違いの兄弟なんですね。あの小説読んだら、誰でもたい
  ていアリョーシャを好きになるんですけど(私は無神論者のイヴァンという兄さんも
  けっこう好きですけど)そのアリョーシャに作者は呼びかけている。ひたむきに神を
  求めているアリョーシャに何か作者は言おうとしているんだけど、私にはもうひとつ
  その内容が理解できない。
  「黙って突っ立っている」のは〈われ〉なんでしょうね。「アリョーシャよ」と呼び
  かけて、「人間というものは、黙って立っていると樹に劣るよ」と言っている。作者
  の歌全般を読むと、人間には言葉があるから樹より優れているとは全然思っていなく
  て、一貫して黙っている樹に信頼を置いているし、自分の寡黙さも肯定している。し
  かし、この歌では言葉を持ち出している。では、言葉を持たない樹と並べて、作者は
  どこまで人間の言葉の有用性を信じているのか。もちろん短歌を書いて世界に発信し
  ているんだから、言葉を否定する立場にいる訳ではない。読者である私自身が(宗教
  などを考えると)言葉に懐疑的なので、この歌がうまく解釈できないのかもしれない。
  難しい歌だなと思っています。(鹿取)
 ★すみません。アリョーシャは女の人だとばかり思っていました。『カラマーゾフの兄
  弟』は最近読んだんだけど、内容はすっかり忘れていました。(慧子)


        (レポート)
 対象である樹と自分の差異を感じているらしい作者。「黙って突っ立っている」ことは樹のことばのような「戦ぎ」のある樹に「劣るのだ」と。だから歩こう、話をしようというのではない。樹のようにありたい、そんな心境の自己を戯画風にとらえる。仮に「アリョーシャよ」と女性をそこに立たせることで二句以下の心の表白の展開が、ありありとして、更にユーモアとペーソスが生まれ、実にたくみな構成。(慧子)


     (後日意見)
 『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャは、他の兄弟が良い面と悪い面を併せもっているのに対し、良い面だけが強調されて描かれている。アリョーシャのような理想を追う人間は、行動的な面(行動はある面、清濁併せ呑むようなものである)が乏しくなりがちである。それに対して、作者は、同じように突っ立っているだけの樹木の「万の戦ぎ」にも劣ると皮肉っている。(鈴木)

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