かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男の一首鑑賞  353

2021-11-06 14:04:48 | 短歌の鑑賞
  渡辺松男研究42(2016年9月実施)『寒気氾濫』(1997年)
    【明快なる樹々】P143~
     参加者:M・S、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明     司会と記録:鹿取 未放


353 全身で春を悦ぶ樹のもとをただ通りゆく人間の顔

      (レポート)
 自然そのものである樹は、「全身で春を悦ぶ」のである。それに対して、自然から遊離した人間は自らの裡に春を実感出来ず、樹々の芽吹きや山菜などによって間接的に春を知るのである。自然の変化に関心のない人間は、「樹のもとをただ通りゆく人間」で、自然から見れば、その顔は、感動の無い、のっぺらぼうに映るだろう。(鈴木)
  

      (当日意見)
★全身で春を悦んでいる樹があって、何の感慨ももたないようなつまらない人間が通っていくとい
 うところに、つまらない人間の顔が見えてくるような気がします。(曽我)
★樹が好きで讃美している歌。それに比べて人間はつまんないなあと人間を批判しているんですよ
 ね。樹を思う気持ちがすごく深くて大きいと思います。(慧子)
★作者は両方見えている。日々芽吹きが違っていく様子と、ただ通り過ぎていく人間と。広い視野
 を持っている作者だなあと。春の変化がわかるような人間になりたいと思います。(M・S)
★これを読んだとき、「ただ通りゆく人間」に作者は含まれるのか含まれないのか気になりました。
 ボクは樹の気持ちが分かるけど他の奴らは分かっちゃいないというんだったらすごく偉そうだ
 し、確かに周囲の自然に関心が無くて見向きもしない人々っていますけど、そんな人間を作者が
 つまらない奴らだなあと思って見ているんだとしたらイヤだし、でも、渡辺松男さんはそういう
 ひとではないから、そんなふうには他人を見ないと思います。自分は樹であってもよかったとい
 う歌も作っていますし。だから「ただ通りゆく人間」に作者は含まれるんだと思います。いく 
 ら樹に関心があっても365日全ての時間を樹を見て費やす訳にはいきませんから、「仰ぎもせ
 ぬ日」という歌の鑑賞を以前にしましたが、作者にだって樹のことを思う精神的余裕のない日も
 あるんですね。で、そういう日は自然から隔たった表情をしているんだろうなって自覚があるん
 ですね。(鹿取)
★自分は分かっているんだよということを出さない。他の奴らは黙って通り過ぎていくだけだと言
 わないところが素晴らしい。自分が上の立場ではなく、下から見ている。「自然から見れば」は
 そこを気遣った表現で、松男さんが見て「感動の無い、のっぺらぼうに映るだろう」と言ったん
 で、松男さんがそう思っているのではないです。自然から見れば自分の顔だってのっぺらぼうに
 見えるんだよってことですね。(鈴木)


      (まとめ)(鹿取)
 当日意見(鹿取)の「仰ぎもせぬ日」は、この歌。
 一本のけやきを根から梢まであおぎて足る日あおぎもせぬ日 『寒気氾濫』


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 渡辺松男の一首鑑賞 352 | トップ | 渡辺松男の一首鑑賞  354 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

短歌の鑑賞」カテゴリの最新記事