かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 31 

2022-04-13 11:25:03 | 短歌の鑑賞
     ※本日2回目の記事です。

  渡辺松男研究2の7(2017年12月実施)『泡宇宙の蛙』(1999年)
    【山鳥薇】P36~
     参加者:泉真帆、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:渡部慧子 司会と記録:鹿取未放

  
51 狼は滅びたりけり山駆けるまっ赤なる目のようなゆめゆめ

    (レポート)
 かつて山を駆けていた狼は滅びてしまった。彼らのするどさ、彼らのあらぶる血は滅びており、その目をまっ赤だったとは、今はもう夢のように思うよと解した。結句で夢を重ねていることが狼の滅びを惜しみ、その事実を断ずるよりもゆめと結びおきたかったのでは。(慧子)


    (当日発言)
★「ゆめゆめ」はレポートとはもう少し違う位相で使われている言葉だと思います。(鹿取)
★敵対状態では眼が赤くなるとネットには書かれていますね。結句の「ゆめゆめ」は夢の中だとい
 うことですか?(真帆)
★私はそうは思わないです。滅びる前に自由に山野を駆けめぐっていた狼の肢体の精悍さとか、獰
 猛さとかそういうものをこの「ゆめゆめ」は見せ消ちみたいに一旦鮮やかに見せる効果をもって
 いるような、そんな気がします。狼の生きる力そのものを惜しんでいる。(鹿取)
★この歌は米川さんが前月号鑑賞に採られていたので、後で探してみます。(鹿取)

  ※渡辺さんの歌。八月号、馬場先生の「生の半ばは夜にてそこのちよろづのゆめの一つがただ
   まつかなり」に強い印象を受けたが、この歌はまた違う夢の「赤」。滅んだ狼の「まっ赤な
   る目」のような夢とは、飢えた心、痩せて獰猛な身体が疾駆して追った夢ということだろう。
   そんな鮮烈な夢は作者にも現代の社会にもなく、まさに狼と共に滅んだ。叙述の形によって
   は、狼の目と夢のイメージがつきすぎて硬くなるところだが、結句の逃し方が巧みなのだろ
   う。       (米川千嘉子「かりん」1998年10月号・前月号作品鑑賞)
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改訂版 渡辺松男『泡宇宙の蛙』の一首鑑賞 31

2022-04-13 11:02:14 | 短歌の鑑賞
 ※既にアップした『泡宇宙の蛙』2の1~2の5までの鑑賞を大幅に変更した歌について、
  改訂版を1首ずつ載せてゆきます。
この後、本日2回目になる通常の鑑賞を載せます。  


  改訂版 渡辺松男研究2の4(2017年9月実施)
    『泡宇宙の蛙』(1999年)【大雨覆】P24~
     参加者:泉真帆、T・S、曽我亮子、渡部慧子、A・Y、鹿取未放
       レポーター:泉 真帆    司会と記録:鹿取未放
     

31 まぼろしがおき去りにせししんじつのひとつの尾羽足元に見る

       (レポート)
 「真実の尾羽」とは、作者の足もとに、ひらりと落ちている羽のことだろうか。いや、前の30番のうた(地に落ちしわれ人間となりきりて夕鶴のごと生きたかりしを)の夢想を受け、それが幻と消えてしまったことを詠み、尾羽の具体を余情とともに目にみせたのだろう。(真帆)


        (まとめ)
 映画などでも、ではあれは全て幻だったのかと思っていると、幻ではなかった証拠のように現実のモノ(この歌では尾羽)が残っている、というような謎を残しつつ終わる手法がある。幻とも現実ともつかないような、そのあわいのようなところで主人公が呆然としている、そんな感じだ。しかしこの歌では敢えて「しんじつの」と言っているのでどうなのだろう。前の歌「地に落ちしわれ人間となりきりて夕鶴のごと生きたかりしを」が本当は鳥である〈われ〉が人間として生きようとしたという設定が日常感覚を超えているので、少し韜晦したいのであろうか。(鹿取)
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